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「当事者って誰のこと?」~3 / 片岡亮太

「当事者って誰のこと?」~3
片岡亮太

3月初旬に話題になった、車いすユーザーのインフルエンサーの方と映画館との間に生じた騒動。

この問題において、僕が一番気になったのは、現場で起きた出来事よりも、ネット上の「第三者」からの反応。

映画館側、車いすユーザー側、それぞれを擁護する人、非難する人が、(短文で投稿せざるを得ないSNSの特性上仕方がないのでしょうが)激しい言葉で持論を展開しており、まさにスクリーン上は大荒れ。

一つ読んでは深呼吸をし、心を落ち着けながら僕はそれらを読みました。

主張の内容や立ち位置を問わず、多くの人に拡散されている投稿の中には、「自分も車いすユーザーです」とか、福祉職に従事していると書いているものが散見していたので、こういった話題が「他人事」ではない人たちも多数反応していたようです。

ところが、そういう人たちも含めてほとんどの人が、「映画館はもっと障害のある人の映画を見る権利を守るべきだ!」「ヘルパーを連れていくとか、事前連絡するとか、本人が対応すべき!」の二つのうち、どちらかの意見しか表明していなかったように思います。

僕はそこに違和感を拭えませんでした。

なぜなら僕は真っ先に、「同じ劇場にいる人が何人かで手伝えばいいのに」とか、「簡単に移動できる席の人と変わってもらえばよかったのに」と思ったから。

周囲に間違いなくいたはずの、他の大勢の来場者を登場人物としてカウントする、そのような視点があまり見受けられなかったこと、僕の関心事はそこにあります。

「当事者って誰のこと?」~1にも書いたとおり、僕は「出会い頭」の支援にしょっちゅう助けられています。

それは多くの視覚障害のある人にも言えること。

在米中には、バスに乗っている時に、「車いすの人が来るから、そこのあなた、立って車いす席を確保して!」と、大抵の場合、「ビッグママ」的な雰囲気の女性が声を上げ、車内の交通整理をし、ドライバーさんが車いすの人を誘導して、無事乗車完了、と言うことが当たり前の風景の中にありました。

(ちなみに、日本にもあるのでしょうが、アメリカのバスは、車高を調節することで、車椅子の人が歩道からステップレスで乗車できるようになっていました。)

視覚障害者の誘導や車いすユーザーのバスの乗車と比べると、人一人を数段とはいえ、段差の上に移動させることには、様々な労力と技術、そして危険が伴うことは間違いありません。

でも、かつて、エレベーターやエスカレーターがまだ全ての駅には完備されていなかった時代、多くの駅で、車椅子の方を駅員さんが持ち上げて階段を移動していた話はよく聞きます。

映画館の件で言えば、複数回にわたって、スタッフ数名が移動をサポートしていた事実もあるのだから、人を確保することさえできれば、移動の支援は、十分可能ということなのでしょう。

しかも、あれは都心でのこと。

最低でも数十名は同じ劇場内にいたはず。

その人たちに向けて、「誰か移動を手伝ってください!」と呼びかけた時、誰一人協力してくれない、そんな状況はあまり想像ができません。

シャイな人が多いと言われる日本人ですが、災害時やけが人がいるときなどをはじめ有事の際には、海外から称賛されるほどに一致団結するし、僕自身、困っていたのに誰も助けてくれなかったという経験は皆無。

おそらくですが、今回の騒動について、SNS上で罵詈雑言とも言うべき言葉を当該車いすユーザーの方に投げつけていた人たちも、目の前で困っている障害のある人がいて、手伝ってほしいと言われたら、手を貸すのではないかと思います。

もちろん、映画館の公式な対応として、「その辺にいる人に協力を求める」ことを前提にしてしまったら、トラブルが生じた時の責任問題にもなりかねないので、難しいところなのはわかります。

でも、サービス提供者(映画館)と障害のある本人だけで、全てを解決させるべき、そう多くの人が考える社会で良いのでしょうか?

この4月から、障害者差別解消法の改正により、「合理的配慮」と呼ばれる障害者への対応が、民間企業においても義務化されました。

他の多くの人たちが当たり前に享受している様々なサービスを、障害のある人もまた当たり前に受けられるよう、起業が対応せねばならない、そういう法的根拠が生まれることは望ましいこと。

けれど、「一歩及ばない」何かが生じた時、企業と本人だけを主要登場人物としていたら、「そこまではできません」と拒絶されてしまったり、「こちらで提供できるのはここまでです。これ以上を望むなら、自分でどうにかしてください」と、門を閉ざされてしまうのではないか、僕はそれが心配です。

「力を貸してくれる人がいないか、一緒に呼びかけましょう。」と、協力体制を共に作り上げ、支援者を見つける。

その方がよほど「合理的」だし、そんな社会の方が、堅苦しくなくて僕は好きです。

うまくいかないことだってあるでしょう。

でも、そうなる可能性に対し、僕たち障害のある本人も責任を持って、ある種の「リスク」を引き受ける視点を持って過ごしていると、「自分こそが自分の人生の主人公」

そんな気持ちになれるような気がするのは、僕だけでしょうか?

事に当たる人を「当事者」と呼びます。

僕自身、「障害当事者」という言葉をよく使ってきました。

でも、改めて考えてみると、障害を巡ることにおいて、障害がある本人、その家族、友人、知人、障害がある人にサービスを提供する人、その様子を近くで見ている人…等々と挙げていけば、誰もが、いずれかの立ち位置になり得るはず。

とすれば、全ての人が「当事者」と言ってもよいのではないか、今回の騒動を通じて、僕はそのように感じました。

だからこそ、こういった話題におけるメインキャストに期せずして数えられる僕たち障害のある者には、「上手に人を巻き込む力」が今後一層求められていくのだと思います。

障害種別の違いはもちろん、同じ障害種別だったとしても、人それぞれに必要な支援は異なります。

これから変わっていく社会の中で、心構えや知識をアップデートして、けんかや戦いではなく、建設的な対話を重ねて、味方を増やして支援を得て、目的を達成する。

過去の嫌な体験、言われたひどい言葉、それらから得た傷や痛みは、なかなか消えない。

でも、そこにとどまらず、少しだけ前を向いて、人を、社会を信じながら、自分の人生を謳歌する。

いつでもそんな視点を忘れずにいたいと僕は思います。

プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。

同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。

第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

Blog: http://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
youtube: https://www.youtube.com/user/Ajarria

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