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「当事者って誰のこと?」~1 / 片岡亮太

「当事者って誰のこと?」~1
片岡亮太

僕が白杖(はくじょう)を持って、一人で買い物や外食など、様々な外出をするようになったのは高校時代のことです。

それ以前にも、失明後、小学5年で地元の盲学校(現 視覚特別支援学校)に転校して以来、白杖を使って歩く訓練は受け、学校や自宅の周辺を歩く経験は積んでいましたが、基本的に車社会な地域であったこともあり、当時の僕が一人で徒歩で遊びに行ったり、買い物に行ける場所がなかったため、「目的を持って歩く」チャンスを作れずにいました。

それが、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校(東京都文京区)の高等部普通科に入学し、全国から集まった弱視、全盲の友人たちと寄宿舎生活を始めてみると、近隣には複数のコンビニや弁当屋、ちょっとした買い物ができる商店などがたくさん。

地下鉄の駅も近く、その気になれば、どこにだって簡単に行ける。

そういう環境に身を置いたことで、「○○をしに、××へ行きたい!」という好奇心を持てるようになり、外に出ることが当たり前になっていきました。

とはいえ、失明して5、6年しか経っていなかったあの頃、単独で歩くことは怖かったし、実際、猛スピードで車が走る車道に飛び出しそうになったことや、歩道上の電信柱や看板、自転車、歩行者と激突したりしたことなど、危険な思いをしたり、怪我をしたりした経験は数えきれません。

ただ、それでも外に出ることを躊躇せずにいられたのは、ある「教え」を得ていたから。

高校1年の時、学校周辺の地理や地元に帰省する際の電車の乗り換えのルートなどを指導してくださった先生が、「自立活動」という、その名の通り生活の自立のために必要な様々な能力を学ぶ授業の中で、「白杖を使って歩く時に、最低限大けがをしないだけの技術を身に着けられたら、あとは困った時には周りの人に助けてもらいなさい。一人で歩くには、そういう 『援助依頼』が不可欠だよ。」と話してくださったことがありました。

実際その先生は、「卒業試験」的な課題として、池袋駅の雑踏の中、「じゃあ僕は、サンシャインの○○というお店で待ってるから、片岡君、自力でそこまで来て」と言うや否や、僕から離れていきました。

「えっ?嘘だろ?」と15歳だった僕は思いましたが、立ち止まっていても仕方がないので、行動開始。

今思えば、たぶんその先生は少し離れた場所から、僕の様子を見ていたのでしょうが、当時はそんな事は思いもよらず、「なんだこの授業?」と驚いていました。

確かあの時は、足音や話し声を頼りに、穏やかそうな雰囲気の中年女性に声をかけ、目的の店まで連れて行ってもらったのだと思います。

無事再会?を果たした先生に、どういう基準のもとその方に声をかけたかを説明したところ、「その判断ができるなら、君はもう大丈夫だから、あとは好きな場所にいっぱい出かけなさい」と言ってもらったのを今でもよく覚えています。

思えば地元の盲学校時代の自立活動は、「一人で歩けなきゃ困るでしょ!」

そんな言葉と共に、点字ブロックはもちろん、歩道さえない場所で、一人で歩く練習をしては、まるで、「一人で強く生きていきなさい!」と叱咤されているような内容がほとんどでした。

その中で、白杖の「基礎力」を磨いていただいたことは今でも感謝しているし、実際に社会に出てみると、全盲の僕が一人で歩く上では、環境が整っていないと感じる場所の方が多いので、そんな道でも安全に歩くすべを知っているのは、そういう授業を受けていたおかげ。

ただ、どちらかと言えば、「修行」に近かった授業の影響で、「一人で歩くのはしんどい」と思っていたのもまた事実。

それが、高校時代の恩師のおかげで、「その場にいる人に頼む」ことや、「楽しく外に出る」ことを教えてもらえたことで、後の僕の人生は大きく変わりました。

特に、都内で一人暮らしをしていた大学時代には、友人はもちろん、道行く人や駅員さん、入店したお店の店員さんなどにその都度お願いをしては、あちこちに出かけたり、買い物をしたりしたものです。

ある時には、当時お世話になっていた和太鼓と小鼓の師匠から、「明日の名古屋での舞台、お前も来るやろ?」と急に電話をいただき、そんなつもりが全くなかったのに、「はい」と即答してしまったものだから、その後急いで、会場と最寄り駅を調べ、翌日、随時誰かに道案内を頼んで、無事コンサートに間に合い、素晴らしい演奏を聞けたという経験もしています。

2011年にニューヨークで暮らしていた時には、「もうちょっと右に行かないとごみ箱にぶつかるよ」とか、「信号青だよ」、「そこに行くなら僕も一緒だからガイドするよ」などなど、実に気楽に力を貸してくれる人が多かったので、僕も、道順に自信がない時や、大通りを渡る時には、傍にいる人に声をかけ、手伝いを依頼するのが日常でした。

つい先日も、よく利用する都心の駅に、いつもとは違う入り口から入ったため、方向がわからず、「改札はどこだ?」と思っていたところ、外国人の男性が声をかけてくれたので、僕は英語、彼は片言の日本語を交えた英語で会話し、改札の駅員さんのもとまで連れて行ってもらったばかり。

そういった様々な経験を通じて、いつしか僕の中には、名も知らぬ駅員さんや店員さんはもちろん、不意にすれ違った人も含め、誰もが「支援者候補」と考える意識が芽生えていきました。

演奏や講演活動をしていると、遠方の会場まで出かけて行った際、「一人でいらしたのですか?」と聞かれることが少なくありません。

確かに、その場所に到着したのは僕一人。

でも、そこに至るまでの間には、駅員の方や道行く人、あるいはタクシーのドライバーさんなど、様々な人の手が介在していることがしょっちゅう。

一人で出かけることは、全てを独力で完結させることを意味しているのではない。

適宜、誰かの力を借りることはもちろん、公的サービスである「同行援護」の制度や、スマホの地図アプリの音声ガイド、信号機の色を判別する機能など、テクノロジーの利用も含め、サポートを得ながら行きたい場所に行くことこそが、障害と共に生きるものにとって自然な「一人で出かける」ことであると、これまでの経験を通じて学んできました。

だからこそ、助けてほしい時には、相手にとってあまり負担にならない程度の要求をすることや、どうすれば僕の誘導をしやすいかを説明することに注力するし、力を貸してもらった際には、いかに助かったかを伝えたり、多少ゆかいな会話になるように意識したり、別れ際に適度な温度感のお礼を伝えるなど、お互いにとって気持ちのよい時間にできるようにすることを大切にしています。

そういう考え方が功を奏しているのか、僕は、日本でもアメリカでも、誘導をしてくださった方から、「実はね」と打ち明け話や悩み相談をされること、あるいは、「視覚障害の人に一度聞いてみたかったのだけど…」と、長年抱いていた疑問をぶつけられることが少なくありません。

視覚障害がなければ絶対にあり得なかったであろうそれらの短いやり取りは、僕にとっての「障害が与えてくれたギフト」の一つ。

「袖触れ合うも他生の縁」とよく言いますが、赤の他人のおかげで無事に外出できることが多い僕にとっては、「無関係な人」など一人もいない、そう実感する毎日です。

プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。

同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。

第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

Blog: http://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
youtube: https://www.youtube.com/user/Ajarria

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