演出が通り過ぎるとき、待っていたものが動き出す~追悼!!タル・ベーラ~
牧之瀬 雄亮
先日、ハンガリーの映画監督タル・ベーラが亡くなりました。
タル・ベーラの作品といえば、白黒の長回し(ワンカットが長い)、長尺(最長の作品は七時間を超える(!!!)『サタンタンゴ』)、そしてカメラの動きは止まっているか、動いてもゆっく~~りです。
映画に求めるものは、なぜ映画を観るのかは、観る人の数だけあることでしょう。
恋愛映画に自分を重ねてドキドキしたり、アクション映画で主人公を応援したり、ゾンビ映画に鬱憤を投影して晴らしたり、心霊映画で日常にない恐怖を味わったり…。
一口に「映画」と言っても、様々な題材の様々な映画が、それこそ二・三回生まれ変わったぐらいでは観きれないほど私たち人類は映画を作り、また映画を求めてきました。
作り続けてきた理由や動機、求める理由も重ねて様々ですが、一つだけすべての映画に共通していることがあります。
それは、
「すべての映画は必ず終わる」
ということです。
どんなに楽しい映画も、どんなに悲しい映画も、どんなに怖い映画も厳然たる予定、確実な計画として、いつか終わります。意味を拡大してテレビドラマでもそう。長寿番組でもそう。
こちらの生が先に尽きるかどうかはさておき、いつか必ず終わります。
そしてすべての映画に、映像に共通する、もう一つの事実。
「誰かの意図によって作られたものである」
ということです。
すべての映画ははじめから終わりまで、一貫せずとも誰かの見せたい風景ないし世界を、現実から借用して映像データ化したものであるため、必ず取捨選択があり、見せたいものがある一方で、まあ見せてもいいかなというものまでは映像として残り、見せるまでは行かないかなというものや、見せたくないものは映像にはなりません。
つまり、鑑賞者の目に触れることはありません。一定の条件を持った情報のまとまりなわけです。
「じゃあドキュメンタリー映画はどうですか?あれ現実でしょ?」という声も聞こえてきそうですが、ふたつ挙げた共通点についてはなんらその例に漏れません。映像作品としては終わるし、映像は編集されてそこにあります。
意図は必ず介在します。
映画が終わったら、始まるものがあります。
映画が終わったら感じるものがあります。もしかしたら映画の間も感じていたかもしれません。
映画が終わったら動き出すもの、それは観るものの人生です。現実の鑑賞者自身の人生です。
映画が終わったら、映画の間中、演出と画面という補助輪をつけて動いていた意識は、ひとりでに歩かねばなりません。
現実にはズームアップやカメラワークの切り替えや効果音のような演出がありません。
大事な話のときに印象的なBGMが鳴ったりしません。
鑑賞者自身の映画は、映画が終わった私たちの本当の映画は、そこにあるのです。
タル・ベーラはなぜあんなに長い静かなカットを長時間に渡って私たちに見せるのか。
わたしには彼が「映画なんか見てる場合か」と言っているように感じずにはおられないのです。
矛盾を感じると思います。
映画監督という制作・提供側の人間が、「映画を観るな」ってあんたそれはちょっと無理筋なんじゃないの?屁理屈も大概にしなよ。
そんな声も聞こえてきそうです。
はあそうっすね、タル・ベーラは前述したように強烈な映画を作っています。
映画で何かをしようとはしているのでしょう。それは何か。
わたしが大好きな彼の作品『ヴェルクマイスター・ハーモニー』では、トレーラーの荷室に入った男が、暗く明かりの乏しい中で荷室いっぱいの大きさの、一体の生きものらしきものをゆっくり、ゆっくり確かめながらぐるりと一周回りながら撫でて、突如、他の部位と違う反射光を認め、それが大きな生き物の目であることに気づき、見入る…、
いや、「見入る」という表現はこちらの主観が入りすぎていて、主人公の気持ちもわからないまま、やがて鯨とわかるまで狭い視野とかすかな光でずっと鯨の身体をぐるりと一周するように映しているというシーンがあります。
正確にはどのくらいの長さのカットだったか覚えていませんが、体感であのシーンは3、40分ぐらいあったような気がします。
私たちは、今、そんなふうに物を見ることが、日に一度でもあるでしょうか。
じっくり、時間をかけて、正解を急かず、全身を感触器にして過ごすような30分が。
前頭前野よ黙れかし。
即断即決、即レス、chatGPTにたずねて返答をもらう。なるほど。
言語による知識がすべてを網羅できるのでしょうか。
答えはもちろんノーです。
テレビでニュースを見て、「この人は善人、この人は悪人」と必ず判断を間違えないか。
答えはノーです。否否否。
私たちは何かを知り尽くすことがあるのか。答えは否、ノー、ノップ、うんにゃ、であります。
私たちの目は可視波長域を出ない周波数の光しか感じられない「と、されている」。
私たちに感じられない音を犬や猫は聴いている。
匂いや気配や勘にすぎない感覚でしかないけど、あの人はどうも怪しいと「わかる」。
公式(誰が頼んだ?)見解に、「存在しない」と宣言されたものが、その後同じ口から「あるに決まってるじゃないですか、なぜそんなことを聞くんですか?」と言われることもある。
信じられないだろうと思いますが、少し昔まで日本人が、「あのほら、『旨味』あるじゃないすか」と言うと、西欧人に「ヘイジャパニーズ、何を言ってるんだい?」と言われていた時代が実際にあったんです。
観る、というのは、視野に像を結ぶものを注視するだけでは足りないものですね。
流れと背景が必ずある。因果と不可思議がある。
自分の視野や思索で認知できる範囲を「因果」と呼ぶとしたら、感覚を含めてなんとなく「そうなるよな、そりゃ」と納得できることと、「マジ訳分かんね。なんでそうなるわけ?」となる「不可思議」。
しかしながら、例えばこどもの行動や天気を見ていても、わたしが知らない・見えない・わからないだけで、各々理路整然と動いた結果なんですよね。
経路を共有してないだけなんですよね。
今自分の持つ狭い視野だけで見ていたのではその動きは不思議に思えてくる。
AかBかで迷っているけれど、そもそもなぜどれか一つを選ばなければいけないと思っているのか。
そう思わせたのはなんだったか。わたしのあの体験だろうか、あの体験はわたしが意図して起こしたなにかによって得たものだったか、それとも、そう思わされたのか…
人生とは、人間とは、という問いに答えをだしてしまうのも一興かなと思い、現時点でのわたしの考えをだしてみますけど、「人間は、変化(へんげ)」であり、他ならぬ自分自身が迷い、死という締め切りとせめぎ合いながら、死の不安や制約と対峙・あるいはそそのかされながら、同じくその不安を持つと思われる完全な共有は不可なる他者、同じような生き物たちと、どうにかのびのびと生きていけないかと試行錯誤する存在。
またその連続体。流れ。それらを指す総称。といった感じかなと思います。
今の気分、空気、社会、というのも、「どの」気分、空気、社会に自分が属するか、または属しようとするかによって、ある者には「お先真っ暗」に見え、ある者には「面白い時期だ」と見え、またあるものには「昔から何も変わらない。何も」と見えることもあるものです。
同時期に同じ状況にあっても、です。また、同じ人物の内心と建前でも違ったりします。
タル・ベーラに話を戻すと、彼の映画は刑事がかっこよくピストルを撃ったりもしなければ、アン・ハサウェイが恋に落ちたりもしないし、チェーンソーを振り回す田舎の大男も出ないし、別世界の魔法も出てこない、山本寛斎を着たデヴィッド・ボウイも出てこない。
魅力的な犯罪集団もいない。
時折奇異なものがあるにせよ、人々が暮らしていくときに起きるドラマや過ごす時間や視野を、たっぷりとした時間と間合い・視野で見せます。
関節のきしみ、着古したコートの毛羽立ちと汚れ、寒い窓を揺らす風、期待しない顔に刻まれた皺、毛穴…。
そうしたものを、「いいでしょう」とも「大変だよね」「可哀想でしょう」とも言わずに、見せるのです。
起こる、起きている、収束もすることがある、忘れもする。思い出しもする。
急かしもせず。
全く静かな映画に思えますが、私たちは彼の作品を見始めて、展開の遅さに驚き、飽き、慣れてくるとき、「これと似たものをわたしは知っている」と気づく瞬間が訪れます。
それはなにか。
それは、タル・ベーラの映画は私たちの「人生と似ている」のです。
産まれて生きて死ぬ。その間に必要なものはなにか。何をすべきなのか。
何をしたかったはずなのか⋯。
タル・ベーラの凄みはそこにあるのです。安易な効き目の浅い行楽的な幻覚剤など作らなかった。
長くなったのでここで筆を置きます。
タル・ベーラ、安らかに。もう長患いさえあなたを苛まない。あとあの世で先に映画撮っててください。
絶対面白い作品になるから。
◆プロフィール
牧之瀬 雄亮
1981年、鹿児島生まれ
宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。
思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。






