手ごたえと実感【前編】 / 片岡亮太

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手ごたえと実感【前編】
片岡亮太

皆さん、遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

新年を迎えても、未だ新型コロナウイルス感染症の不安は続いていますが、それぞれが営む日常の中に、少しでも多くの笑顔や幸せが生まれる、そんな年になりますように。

昨年より始まりましたこの連載、今年も心を込めて務めさせていただきます。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

たくさんの不自由と不安、恐怖や閉塞感をもたらした一昨年からのコロナ禍。

僕にとっては、仕事の減少という、厳しい現実を突きつけられた一方で、幸いにもその影響は、マイナスなことばかりではありませんでした。

中でも最も大きかったのは日々の稽古時間が増えたこと。

この2年間は、具体的な公演のスケジュールが決まらず、本番というタイムリミットに追われていないからこそ、基本的な打法や発声の見直し、あるいは、固定観念から離れた新しい発想の奏法や楽曲を生み出すために、太鼓に向かうことができました。

結果、ステージに立つ回数は激減していたものの、奏者としては成長できたように思っています。

そんな生活の中で、時折自問することがありました。

それは「なぜ僕は、こんなにも和太鼓を好きになったんだろう?」ということ。

全盲の視覚障害者である僕にとって、誰かに運搬を依頼するか、宅急便を手配するなどしなければ、楽器を会場に送ることさえままならない和太鼓は、決して活動しやすいものとは言えません。

にもかかわらず、プロと名乗ってからの約15年はもちろん、11歳で和太鼓と出会って以来、一瞬たりとも、太鼓を嫌いになったり、練習していて飽きたこともなく、まして、やめようと思ったことは一度もない。

出会った瞬間から心を鷲掴みにされた和太鼓。

はたしてそこまで僕を虜にしたものとは何だったのか。

改めて考えてみました。

失明を機に小学5年で転校した静岡県立沼津盲学校は当時、音楽の授業や、小・中学生の部活動の一環として、和太鼓の演奏を積極的に取り入れていました。

その取り組みは校内での発表だけにとどまらず、近隣で活動する団体と共に、夏祭りやコンサート等のイベントに出演するなど、外に開かれたものでした。

僕が最初に撥(ばち)を手にし、太鼓を打ったのも小学6年の春、音楽の授業の中でのこと。

ド~ン。

生まれて初めて手のひらに伝わってきた振動と、鼓膜を震わせた音。

それらを感じた瞬間、明らかに心の中で何かが変わりました。

全盲になってまだ一年半ほどしか経っていなかったあの頃の僕にとって、視覚情報を感じることのできない世界は、まさに無色そのもの。

聴覚や触角を駆使して生活に順応したくても、感覚が追い付かず、何をするにも実感が伴わない。

大げさかもしれませんが、

「今僕はここにいる」

そういう認識が希薄化していました。

そのような中にいた僕にとって、自分が込めた力に応じて音量が変化し、全力を注げば身体を震わすほどの波動が生まれる和太鼓は、自らが行った行為と結果に対する確証を通して、

「確かに僕はここにいる」

そんな気持ちを感じさせてくれたのではないかと思います。

失明による精神的なショックの影響が大きいのでしょうが、全盲になった直後からの記憶は、全てが分厚いベールの先の出来事のようにぼんやりとしており、今でも様々なエピソードの時系列や詳細が判然としません。

ところが、和太鼓と出会った日以後は、聞こえていた音や感じたにおい、人々の言葉などをはっきりと思い出すことができます。

その一点だけを考えても、小学生の自分にとって、和太鼓を打ったことがどれだけの衝撃をもたらしたのかがわかります。

また、失明の一年くらい前から僕は、絵描きになりたいという淡い夢を抱いていました。

それは作家をしている母親への憧れによるものでした。

最初はアニメやゲームのキャラクターのイラストを描くことが好きになり、それが徐々に上達していくと、図工の授業等で描いた絵が、クラスの掲示板の真ん中に飾られることが増えたり、コンクールで受賞をするなどの結果に繋がり出していました。

低い視力と、十分とは言えなかった一般の小学校での種々のサポート体制などのため、強、運動、遊びなど、全てにおいてクラスメイトの一歩二歩後方にいて、常にどこかおどおどしている。

そんな弱視だった時代の僕にとって、絵とは初めて持つことのできた自信。

視力を失ったことは、その自信と夢をも失うことを意味していました。

生活に苦労することや、それまでのように行動することが困難になったことよりも、そのことがつらかったことをよく覚えています。

全盲になっても、鉛筆で線を描くことはできるし、専用の器具を使えば、その線を立体化させ、どのような絵になったかを触れて確認することだってできる。

でも、着色の面白さと、頭の中で想像していたものが紙の上に少しずつ姿を現す喜びを、指先で感じることは僕にはできませんでした。

あの日、授業の一場面で生じた和太鼓との出会いとは、僕にとって、空虚だった心に、新たな光が差し込んで永い眠りからの目覚めを迎えた、そのくらいの意味を持つ出来事でした。

振り下ろした撥(ばち)先が鼓面に当たった途端、打点から波紋のように広がって、僕の全身を包んだ音は、「これだっ!」という確信を僕にもたらしました。

「障害の受容」という言葉に集約される、自らの身体的な特徴と、そこから生じる様々な不自由を、積極的に受け止めようとする心の動きが僕に生じたのは間違いなくあの瞬間から。

後に仲間たちと練習を重ね、その成果を披露するためにステージに立ち、多くのお客様から拍手をいただく機会を得られた時、失明によって奪われたと思っていた「輝ける可能性」をまた持つことができた嬉しさで胸がいっぱいになりました。

全てのきっかけをくださった26年前の学校や先生、共に切磋琢磨した仲間たちへの感謝の気持ちは、どれだけの時間が経過しても色あせることなく、むしろより強く、深く、心に根を張り続けています。

だからこそ、この和太鼓で、もっともっと広い世界に向けて、力強い表現をしていきたい。

そんな思いに駆られるのでしょう。

もちろんプロとなった今、子供の頃にはわからなかった和太鼓という楽器が持つ奥深い魅力や、音色の美しさ、身体表現と音楽が融合している和太鼓だからこそ伝えられるものに、一奏者として、より高度な水準で挑戦し続けたいという気持ちなど、現在の僕だからこそ抱ける決意や覚悟もあります。

過去の僕、そして今の僕が持つ思いを胸に、2022年も打ち込みます。

後編に続く

プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。

同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。

第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

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