「不確実な未来へ」(前編)
片岡亮太
僕がプロの和太鼓奏者になると心に決めたのは、二十歳だった大学2年の時のこと。
当時親しくさせていただいていたプロの演奏団体の舞台を鑑賞していた際、突然、「同じフィールドで戦ってみたい」という思いが芽生え、その気持ちを抑えきれなくなったことがきっかけでした。
将来は社会福祉士になって、かつて同窓生として共に学校生活を送っていた友人たちのような重度重複障害のある方々やそのご家族などの支援をしたい、そう思って社会福祉学の勉強に励んでいた当時の僕。
あまりにも唐突に出現した夢は、自分自身にとってさえ驚くべきものでした。
しかしその思いはコンサートの熱に浮かされての一過性のものではなく、日を追うごとに熱くなる。
引き続き学問にいそしみながらも、授業後や休日は、和太鼓の稽古や観客としてコンサートなどに出かける日々。
一般的な大学生ならとっくに就職活動に本腰を入れるはずの時期に差し掛かっているにも関わらず、一向にそんなそぶりを見せない様子を、両親はいぶかしんでいたようで、3年次の夏のある日、地元の仲間たちとの和太鼓の練習のため帰省していた僕に、母が「卒業後はどうするの?」と不意に訪ねてきました。
その時、うっかり口を滑らせてしまい、「実は和太鼓でプロになろうと思っていて」と話した途端に感じた、驚きや怒り、失望など、さまざまな感情が入り混じった母からの射るような視線の圧力を、一生忘れることはないでしょう。
猛反対を受け、「社会福祉の道に進もうとしている意思をずっと応援していたのに、裏切られた思いだ。そもそもそんなに大事なことを軽々しく親に伝えるな!」と1時間近く説教されました。
僕自身、想定していなかったシチュエーションで話し始めてしまった自覚があったので、失敗したと思いつつ、ひとまずその場を退散。
学費や生活費の大半を親に依存している以上、反対を押し切って演奏家になることはよくない。両親を納得させられるだけの考えを持たねば。
内心でそう決意したことを今でもはっきり覚えています。
再戦は、撃沈した日から約半年後のこと。
プロとして舞台に立つという思いと、社会福祉士である視覚障害当事者としてメッセージを伝えていきたいという考えが重なり、今日の僕の活動に近い将来像が見え始めた頃、改めて両親との話し合いを持つことができました。
振り返ってみると、自分でも未だに首を傾げてしまうのですが、あの頃の僕には、どうひいき目に見ても他を圧倒するような演奏力があったわけでもないにもかかわらず、プロとして歩んでいけるはずだという根拠のない自信だけはありました。
その、いささか楽観的過ぎた勢いや熱さと、どこかに抱いていた、多くの視覚障害のある方たちのように、就職戦線を戦い続けることへの不安、大多数の障害のない同僚たちと共に、福祉施設や行政、企業などで働きながら、社会福祉士としてやりたいことを実現していくことに自信を持てなかった気持ち。
一方で、和太鼓と言葉、社会福祉士としての知識や障害当事者としての経験を武器に舞台に立っている姿なら思い浮かべることができ、なおかつ、そのように生きていくことを「自分らしい」と感じていたことを心の燃料にし、猪突猛進に突き進もうとしていた僕。
だからこそ、親の反対を受けてあきらめる気は全くなく、むしろ奮起して、より真剣に練習に励んだし、同時に、「なぜプロになりたいのか」を自問し続けました。
そんな半年間の中で見つけた思いや考えを伝えても、父と母が示した反応は、賛成や応援とは程遠いものでした。
ですが、元来頑固な僕の性分を理解してくれており、「無理やり進路を変えさせたところで、最終的には亮太の人生なのだし、親が責任をとれるわけでもないから」と、半ばあきらめるように僕の思いを認めてもらいました。
その際提示された条件は、社会福祉士の国家試験に合格することと、3年やって芽が出なかったら、当初の目標通り福祉の道で就職しろというものでした。
単に障害がある立場としての想いを語るだけではなく、知識に裏付けされた意見を発信することで、共生社会の実現に寄与したいと考えていた僕にとっても、社会福祉士の資格取得は必要不可欠と感じていたため、異論はありませんでした。
さらに、3年間挑戦したけれど、プロとして歩むことは簡単ではなかったと実感した後でなら、晴れ晴れとした気持ちで福祉職をはじめ、より自分にマッチした仕事を捜せると確信していたため、両親からの期限付きの了承も受け入れることができました。
幸いなことに、どちらの条件もクリアすることができ、また多くの方とのご縁があったからこそ、僕は今日も表現者として歩むことができています。
こうやって言葉にしてみると、無茶や夢想としか言いようのなかったであろう大学時代の僕の気持ちを、両親が尊重してくれたことを感謝せずにはいられません。
もし今、目の前に当時の僕がいたなら、自分自身でさえ「甘い!」と一括しているだろうし、プロになることにも反対しているかもしれないとよく考えます。
音楽や言葉を届けることを仕事にし続けることが、いかに大変であるか、この15年間、常に痛感しているからです。
実際、いざプロと名乗って歩き出してみると、その活動は、表向き順調ではあったものの、実情を言えば、技術や知識、覚悟の不足を突きつけられたことをはじめ、打ちのめされたり悩んだり、もがくことの連続。
それは今でも続いています。
日本の伝統的な楽器である和太鼓を用いて、その魅力を大事にしながら、お客様や演奏会を主催してくださる方々のご期待に応えられるレベルまでパフォーマンスを磨き、新たな音楽を生み出し続けることは、決して簡単ではないし、そういった音楽活動と、社会福祉士、障害当事者としての思いを伝える活動を両立させつつ、生活も成り立たせるということは、当初想像していた以上にエネルギーを要するうえに、先の見通しや収入は常に不透明。
安心とは縁遠い暮らしです。
でも、だからこそのやりがいや充実感を抱いているし、その様な中を生き抜こうという気持ちが、日々の大きなモチベーションの一つとなっています。
「プロになる」と考えた二十歳の僕の固い決意には、今では真似できないほどに前のめりな情熱があったかもしれない。
けれど、「一生現役の表現者であり続けたい」と考えている37歳の現在の僕は、この15年間の中で巡り合うことのできた、たくさんの経験や出会い、学びや挫折に磨かれたことで、心の奥底にまで根を張り、どんな風や雨にさらされても曲がったり折れたりしないだけの強さやしなやかさを手にすることができているという実感があります。
この思いをさらに成長させながら、片岡亮太にしかたどり着けない未知の場所へ、これからも一歩ずつ向かっていけるよう、音楽に、言葉に、もっともっと本気になって、愛情を注ぎ続けたいと思います。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。