「言葉と障害」~1 / 片岡亮太

「言葉と障害」~1
片岡亮太

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えっ、ちょっと待って!

多くの人に訪れる、「うわあ、老眼入ってきたわ」でお馴染みの加齢認識イベント。

そもそも視力がない俺には訪れないじゃん!

腰が痛いとか、疲れが取れづらくなるとか、健康診断で引っかかるとか、ちょっと笑えない方面でそういう感じになるの、なんか損した気分。。

明日も早いし早く寝ようとしてたら、唐突にこの衝撃の事実(笑)に気づいてしまい、黙っていられなくなってしまった(笑)。

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これは、3月某日に僕がSNS上に投稿した文章です。

真夜中に眠れなくて、布団の中で、iPhoneのアプリと音声読み上げの機能を使いながら読書をしていた時、たまたま読んで(聞いて)いたエッセイの中に登場した、「最近老眼気味で」という一文。

覚醒と睡眠の合間をたゆたっている精神状態がそうさせたのか、いつもなら何事も感じずに流してしまうはずの記述が、その日はなぜか、「ああそうか、僕は老眼になったことを認識することがないのかあ」という、感慨とも、しみじみとも違う、不思議な感情をもたらしました。

僕は、今年で40歳。

おそらく、同世代の大多数の人がもう間もなく老眼になり、老眼鏡をかけたり、本やスマホを近づけたり遠ざけたりしながら、「この距離じゃないと全然見えないんだよねえ」等と発言することになるのでしょう。

でも僕は、そういうあれこれから、果てしない距離を隔てた位置に立っている。

はっきり言って、改めて書くまでもないくらい当たり前すぎる事実なのですが、そのことを認識したことについて、勢いのまま言語化したのが、上述の投稿。

ところが、この文章へは、思いの外多くの反響がありました。

同じく全盲の友人たちからの共感する声、視覚障害のない友人からの、まさに最近老眼デビューしたという告白、「他にも老化を感じる瞬間はいろいろあるから安心して」という励まし(笑)、別の全盲の友人が「僕は眼精疲労にならない」と語っていたというエピソード等々…。

社会に対して何かのメッセージになるわけでもなく、これといって教訓めいたものを導き出すこともできないこういった話題は、飲み会の席での笑い話として登場することはあっても、公的な場で行う講演や講義の場では語ることがありません。

そういう、日ごろ表には出てこない「つぶやき」だったからこそ、むしろ面白いと思ってくれたり、関心を持ってくれたのだろうか?

予想外のスピードでコメントや「いいね」が増えていく様を見ながら、新鮮な驚きと共にそのように考えていました。

僕が、SNS上に障害に関することを書く際には、社会への啓発や提言、一人でも多くの人に知ってほしいと感じた先駆的な取り組みの紹介、あるいは障害があるが故の困難とか悔しさを込めた独白等、何かの目的や意図を持って言語化することがほとんど。

そのため、真剣な感想や、「勉強になった」などのフィードバックを数件いただくことはあっても、3桁を超える勢いのリアクションを得られることはめったにありません。

ならばもっとライトで笑える投稿をすれば、多くの反応をもらえるかと言えば、そういうわけでもない。

障害を「ネタ」に、笑いを生もうとした場合、そこに、過剰な「自虐」のにおいがしたり、きつい「ブラックジョーク」の要素が含まれていたりすると、文字だけで表示されるSNSではニュアンスが伝わらず、面白く感じてもらえないどころか、痛々しくなってしまったり、不愉快に思われてしまうことだってあり得る。

時には、「内輪ネタ」的な、一部の人にしか受けない、「狭い笑い」になっているケースも見受けられます。

僕は、そんななんとも「微妙」な空気をはらむ可能性を引き受けてまで、障害で笑いを取るつもりはありません。

だから、啓蒙的な発言が意図せず持ち合わせてしまう「重さ」もなく、読み手の拒否反応を誘発する「危うい笑い」も含まなかった「老眼」についての文章で、フォロワーの方々の「つぼ」にフィットできたのは全くの偶然でした。

「似たようなアプローチなら、障害を絡めた、程よい冗談を書けるかもしれない」

そう予感した僕は、数日後、こんな投稿をしてみました。

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一度言ってみたい台詞3連発

「あれ 、髪型変えた?」

「うわあ、その靴おしゃれ!」

「あっごめん、見間違いだったみたい。」

うん、どれも何気ないようで縁遠い言葉たちじゃのう。

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…、今読み返しても我ながらくだらないことを書いたなあと思うのですが、やはりこの投稿も大盛り上がり。

特段異性とのコミュニケーションを想定して書いたつもりはなかったのですが、「意中の人への声がけ」をイメージしながら、いろいろと思いを巡らせて、多くの方がコメントをくださいました。

例えば、視覚障害のある人たちから出てきた、視覚以外の感覚でわかることに着目した声掛けのバリエーション。

「髪型はわからなくても、足音の変化ならわかるのだから、靴新しくした?とか、足音からにじみ出る精神状態に着目して、軽やかな足音だね。何かいいことでもあったの?とは言えるよね!」

「匂いの変化で、シャンプーやコスメのアイテムを変えたことを聞いたり、その匂い良いね!と言ってみてはどうか?」

等々。

聴覚障害のある友人から届いた、「私は相手の声や、音楽に関係する会話ができなくて切なかったなあ」との声は、「なるほどなあ」と納得。

人生の先輩である女性からは、「好意を持っている男性からだったら何に着目したどんな言葉だったとしても嬉しいものですよ。」というご発言。

「逆に言えば、好意を持ってなかった場合は、何をどう工夫したところで無駄です」と暗にほのめかされているなあと感じ、「ああ、こんな怖い話、独身時代に読んでなくてよかったなあ。」と背筋が寒くなったり(笑)。

それら様々なコメントを読んだ方からは、「こういうやり取りを座談会的に公開できないでしょうか?」なんて話も出てきました。

真夜中の「老眼」を巡る書き込みから派生して、期せずして言及することになった「障害」と「言葉」の間にある関係性。

思いがけずいろいろなことを考えることになったこのテーマを、ここから数回にわたって僕なりに掘り下げてみたいと思います。

(続く)

◆プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

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