「大学/友達/恩返し」~3
片岡亮太
多くの思い出が詰まった上智大学での日々を振り返ることになった、卒業15周年式典への出席は、僕に様々なことを考えさせてくれました。
上智大学は、JR四ツ谷駅のすぐ傍に位置しています。
最も大きな門の目の前には、常時多くの車が行きかう新宿通り。
学生たちは駅からその大通りを渡ってキャンパスに向かいます。
2003年から2007年まで、大学生だった僕も、もちろん毎日のように新宿通りを横断していました。
ところが、久々に大学を訪れてみると、大きな変化が!
横断歩道の信号が音響式になっていたのです。
式典の日は、会場が卒業後に新築された校舎の中だったこともあり、迷わないためにも、事前に友人と待ち合わせて向かっていたので、当時のように自力で新宿通りを渡ったわけではありませんが、信号の青を示す電子音が聞こえた時、「これなら、視覚障害の学生がいても安心だろうなあ」と感じると同時に、「あの頃に音響式になっていれば、楽だったのになあ」と、少しうらやましくもなりました。
大学の対応も、友人たちの存在も、当時の僕にとっては心強く、ありがたいものだったことに疑う余地はありません。
ただ、2011年に渡米した際、「障害学」を学ばせてもらったコロンビア大学の大学院は、上智大学卒業からまだ4年とさほど年数が経っていなかった僕にとって、驚愕の環境でした。
そこには障害のある学生に専門で対応するオフィスが設置されていて、「他の学生が当たり前に行っていることが障害を理由に行えないことはありません」と語り、実際、書類や本のデータ化を、学内でスピーディに対応してくれたり、全ての教室やトイレ、エレベータなどに、点字や立体文字が付与されており、手探りだけでも自由に移動できそうな校舎内に、視覚障害者用のシステムが充実したパソコン室も設置され、複数の視覚障害のある学生や教授も「当たり前」に過ごしていました。
そんな状況を目の当たりにした後に振り返った時、当時の上智大学が、視覚障害のある僕にとって「公平」な場所であったかと問われれば、否と言わざるを得ません。
くしくも久しぶりにキャンパスを訪れたことで気づいた音響信号のことをはじめ、上智大学には、移動におけるバリアが多数ありました。
交通量も多く、何車線もある新宿通りを、毎日、車のエンジン音と歩行者の足音だけを頼りに渡ることが「当たり前」だった当時は、音響式の信号にしてもらうために、大学に動いてもらうという発想すらありませんでした。
でも、思えば、何度か判断を間違えて、赤なのに渡ろうとして気づいた人に慌てて止められたり、横断途中に信号が切り替わってしまって危険な思いをしたことが何度かあったような気がします。
でも、そんな記憶が、ぼんやりとしたものとしてしか思い出せないほど、あの頃の僕にとって、そのくらいのこと、何ということもなかったのでしょう。
また、命の危険にはつながらないものの、学内についても、移動は不自由なものでした。
目当ての教室に行こうにも、部屋番号を触れて確認できる術がなく、慣れるまでの間は、大まかな場所を把握したら、勘か同じ授業を取っている友人、あるいは通りがかった人に頼るしかない。
点字ブロックが敷設されている場所も数えるほどしかなかったように思いますし、僕には必要ありませんが、段差を避けるためのスロープもあまりなかったような気がします。
移動に対する支援を僕自身が求めなかったという背景もあったし、幸い、実際ににっちもさっちもいかないようなことは一度もなく、たいてい誰かしらにサポートしてもらえていたから、問題ないという考え方もできますが、本当は、大学そのものが、もっとバリアフリーな環境を作っておく必要があったはずだし、それがあったなら、僕の学生生活も大なり小なり変化していたことでしょう。
学習面においても、当初大学側と交渉した時には想定できていなかった苦労が、いざ学生になってみると多々ありました。
その一つが、教科書や配布物の点字化とデータ化です。
スキャナーで文字情報を読み取ったり、PDF等の画像データの音声読み上げなどが簡単ではなかった当時、電子データで先生方から送っていただける書類はごく一部。
そのため、大半をボランティアの方々に頼んで、点字に変換するか、誰かに音読してもらい、それを録音するなどしなければ、内容を把握することが不可能でした。
1年生の頃、僕は、必要な本や書類を(僕の中での)優先順位に基づき、重要なものは地元の点訳ボランティアさんのところに郵送し、それほど重要ではないものは実家に送り、母に音読したテープを作ってもらうなどして、対応していました。
その場合、授業の進行に、点字化や音声化が間に合わないこと、そもそも事前に資料をもらえず、後で点字や音声にしようにも、「読み返す必要があるだろうか?」と考えてしまい、そのままにしてしまったりということ、せっかく授業に間に合うようにボランティアさんたちや母が返送してくれたものを、僕がアパートを不在にしていたせいで受け取れなくて、結局授業には何も持たずに出席することになるなど、本も資料もなしで受講する時間がよくありました。
そして、これは僕の問題ですが、そういう時に限って授業中に居眠りをしてしまうものだから(先生ごめんなさい)何の話やらさっぱり…。
さほど重要度が高くないと思って、資料のほとんどをほったらかしにしていた授業の最後の試験が、僕だけ「口頭試問」になってしまったこともありました。
その先生は、たいへん柔らかな声をしていて、僕はそのお声を聞く度に睡魔にあらがえなくなっていたもので、授業の記憶がほとんどない。
おまけに資料は読めていないのだから、全ての問いにしどろもどろになってしまい、結局その授業だけは、4年間で唯一単位を落とした授業になったのではないかと思います。
しょっちゅう居眠りしていたことを差し引いても、あの結果は僕の努力不足や不勉強のみによって生じたものだったとは言えないのではないか、今でもそのように思います。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。