「スガシカオ×障害かけるカタカナ」(後編)
片岡亮太
中学時代から約25年、一度たりとも飽きることなく、それどころか年々熱が高まっているシンガー・ソングライターのスガシカオさんへの思い。
大学時代に初めてコンサートに行った時には、あまりに興奮しすぎて、半分もうろうとしながら目の前で繰り広げられる演奏に耳と心を奪われていたほどでした。
ところで、そんな敬愛するスガシカオさんの歌詞の特徴の一つとして、「カタカナ」が多用されることがよく知られています。
「夜空ノムコウ」のタイトルもそうだし、ご自身の名前も本名をカタカナにしているスガさん。
「漢字には象形文字としての意味が宿るし、ひらがなだと子供っぽい。字がもたらすイメージを極力排除して詩を書くためにカタカナを使っている」と度々語っていることはファンなら周知のこと。
先日も、あるラジオ番組でそのように話しているのを聞いて、ふと思いました。
「障害もカタカナにしてみてはどうだろう?」
皆さんご存じの通り、「障害」という言葉の表記については、長年様々な議論が交わされています。
注目されるのは、「がい」をどの字にするかについて。
人によって考えは様々。
「がい」とひらがなにするのが良いという人、「害」の字が良いという人、あるいは、かつては意味合いがよくないと、避けられていた「碍」が良いという人も最近はいるそう。
(「害」の字が災害や弊害などのイメージと結びつくからだそうです)
そもそも最近の僕は、「障害」という言葉自体が、表現すべき事象を語れていないのではないかと、違和感をぬぐい切れずにいます。
今日「障害」と呼ばれるものは身体、精神、知的に、何らかの疾病や機能不全が生じている状態と、社会生活における障壁の二つが合わさって、存在します。
そのことを英語ではそれぞれ「インペアメント(Impairment)」(=疾病)と「ディスアビリティ(Disability)」(=社会生活上の生きづらさ)という二つの言葉で明確に区別している。
そこには、「ある人が身体、精神、知的に何らかの特徴を有していることと、社会生活上で発生する不自由や不利益とは、イコールではない。機能的な疾病(Impairment)があっても何ら問題なく生活できる社会にたどり着けていないから、社会的な生きづらさ(Disability)を有してしまう」という思想を反映していることがうかがえます。
(英語における「障害者」の呼称の変遷については、「バロメーターは同級生」の後書きにも詳しく書いています)
一方日本語は、全てを「障害」という言葉でまとめてしまっている。
もしかしたら、「障」がインペアメント、「害」がディスアビリティということなのかもしれませんが、この二つの字を別々に使うことはまずない。
専門的な話になりますが、上述した、個人に生じているインペアメントと社会生活上のディスアビリティを区別する考え方は、障害の「社会モデル」と呼ばれ、今日、日本も含め、多くの国々がこの視点に立っているとされています。
けれど、インペアメントに伴うディスアビリティとは個人の責任ではなく、社会が負うべき責任である、そういう思想を、「障害」という日本語の中に感じ取ることはできるでしょうか?
例えば、目が見えない、あるいは見えづらいという身体の状況があった時、そこに社会生活上の障壁を抱くのは、その人の責任ではなく、社会の責任であるという、本来あるべき分析を、英語ならば、「私は視覚にインペアメントがあるので、生活する中でのディスアビリティがあります」と語ることで、端的に表現することは可能です。
けれど、それを日本語にしようとすると、かなり回りくどい話し方になってしまう。
そう考えていくと、「障害」という言葉が、すごくあいまいな言葉に思えてなりません。
1949年に「身体障害者福祉法」という法律が制定されていることから鑑みるに、「障害」という言葉は80年近く使い続けられているということ。
英語では同じ期間に、相当な「呼称の変遷」があることを考えると、日本で同種の変化が起きない理由は、「障害の社会モデル」の思想が、言葉のレベルに落とし込まれていないことや、たくさん存在する、「障害」という字が含まれた、法律や諸制度の名前や条文を書き変えるだけの社会的関心や、大きなムーブメントが発生していないことの表れなのでしょう。
もしかしたら、「単純に言葉だけの問題なのだから、目くじらを立てることではないのでは?」と感じる人もおられるかもしれません。
でも、言葉とはその社会の思想や意識を色濃く反映したものであるはず。
もしも、「私は視覚障害があるので○○に不自由があります」と、ある人が語っていたとして、その際の「視覚障害」という言葉をその人は、ご自身の目に疾病があるという意味でのみ使っていたとします。
そうすると、その人は、「目が悪いから○○ができない」と語っていることになる。
それは、「社会モデル」という考えが生まれる前に主流だった、障害によって生じる種々の不自由はその人の心身の機能に付随するものとする、障害の「個人モデル」とか、「医療モデル」と呼ばれる考え方そのものです。
繰り返しになりますが本来は、「視力が低い私に○○ができる状況が社会にはない」という論理が今日私たちが共有しておく必要のある視点。
「個人モデル」、「社会モデル」どちらの意味としても成り立ってしまう、そんな言葉を使い続けていたら、「社会モデル」に込められた思想は、社会にも個人にもいつまで経っても根付いていかないのではないか、僕はそう危惧しています。
そのため、今「障害」と呼ばれているものを何か別の言葉にできないかとよく考えます。
先日思い付いたのは、「特異者」という言葉でした。
視覚障害者を「視覚特異者」と呼称した場合、その人が、視力の上で一般的ではない状態であることだけを表すことができ、そこには、「見えすぎてしまう」人も含まれるので、「私は全盲の視覚特異者です。それ故に社会生活では○○が難しいことが多い」というような言い方になるなあと、思考実験をしていました。
でも、きっとまだしばらくは現在の障害という言葉が残り続けるでしょう。
その際に気になるのは、この「障害」という言葉に数十年をかけて宿った、様々なイデオロギーや価値観の問題です。
差別語とは言わないまでも、「障害」という言葉にも、長年使われるうちに独特のインパクトや社会的な印象がしみ込んでいると僕は感じます。
実際、悪口、揶揄、軽蔑、相手を軽んじる、そういった意味合いで「障害者」という言葉を使っているケースも、悲しいことに散見しているのではないでしょうか。
今後も言葉が残り続けるのであれば、せめてそういう、長い間に、錆のように纏ってしまっているものを薄めたり、取り払えないだろうか?
と思って考えたのが「カタカナ」でした。
「私は視覚障害者です」と漢字で書くより、「私はシカクショウガイシャです」になったほうが、言葉の「臭い」のようなものが少し消える気が僕はします。
(と書いていて気づきましたが、10歳で失明して以後、点字使用者である僕は、カタカナはわかるものの、「視覚障害者」という漢字の形はわかっていませんでした…)
しかもカタカナだと、一瞬「何だろう?」とほとんどの人が感じるのではないでしょうか?
新しい戦隊もののヒーローの名前?
外国由来の珍しい職業やスパイス?
お菓子の名前?
そんな風にも見えるかもしれません。
「伝わりづらい」と思う人もいることと思います。
でも本来、障害のことって、そのくらい「ふわっと」伝われば十分なものなのではないでしょうか?
SNSなどを見ていると、プロフィールの中で、ご自分の目の病気と視力のみを掲載して、「よろしくお願いします」と締めくくっている人が時折いらっしゃいます。
これは僕からすると、「わたしは高血圧で、糖尿病です。どうぞよろしくお願いします。」と言われているようなもの。
その人個人の情報には何も触れていません。
なのに、「視覚障害」となってしまうと、とたんに、その障害の紹介が、自分を語っていることになってしまう。
アメリカにいた時、当初僕は自分が全盲であることを必ず初対面の人に語っていました。
「見ればわかるから、それは言わなくていいと思うよ。」
ある日、友人からそう言われ、以来止めましたが、なんの支障もありませんでした。
ところが、帰国後、小さな演奏会にゲストで呼んでいただき、そこでの自己紹介の際、完全に失念していて、視覚障害に触れずに話していたら、「なんで全盲って言わなかったの?」とだいぶん違和感を持たれました。
日本においては、障害の位置づけとは、まだまだそのくらいに重みのあるトピックなのでしょう。
だからこそ、カタカナにするとか、新しい言葉を生み出すなどの方法で、「障害」という言葉の周辺に宿る、大きくて重みのある意味や価値観を、僕はどうにかして超えていきたい。
そういう流れを生み出していきたいと考えています。
今日も悶々とした思考は続きます。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。