傍にいてくれる最高の「役者」
櫻井絵美子
ホームケア土屋関東で、現在コーディネーターを務めております、櫻井絵美子です。
私の母は、ALSでした。
「でした」ということは、母はすでに他界しています。
冒頭から、いきなり難病の名前が出てきて、しかも亡くなった人の話??と思われる方もいらっしゃると思いますが、違います(笑)
『重度訪問介護』の世界において、一人一人の価値の大きさを、自分の体験から、皆さんに知っていただきたく、小さな経験から、お伝えできることを考えてみました。
今から10年ほど前になりますが、当時は重度訪問介護制度の認知も低く、「障害者支援って何??」というような時代でした。私が働いていた分野も、所謂、高齢者介護の施設でした。
そんな時代に、母に突きつけられた診断名は、当時日本では症例数も少ない「湯浅三山型ALS」という病名、加えて症状の進行が速かった為、余命1年・・・わたしの立場からしたら、厚い辞書をひっくり返し、必死に調べるところから、母との日々が始まりました。
当時働いていた職場を一時休業し、母が安心して暮らせるよう環境を整える、それだけでも想像を絶する疲労でした。しかしそれは、あくまでも介護のスタートであって、本当の地獄はここからです。
日常生活、排泄・整容・更衣・入浴・コミュニケーション等々は誰が何をサポートするか、医療的ケアの実施、延命治療の選択・・これを、誰のサポートも受けることなく、傍に誰もいない状態で、家族がほとんど「母一人」に時間を費やしていました。
「家族介護って自分の人生を犠牲にするんだ・・」
介護家族が自らの収益を減らし、自分の人生も賄えない・・・困っている人の人生一つも、ろくに見てあげられない・・・
そんな絶望感に襲われていた時の事です。
私の友人や介護仲間が、自分の空いている時間に、母に会いに来てくれたことから、状況が一転しました。母がトイレに行きたい時があれば、誰かがいるときに母が自ら頼る、顔を拭きたい時があれば、お茶をしながらでも誰かが進んでタオルを用意してくれる、これが何より、母の為であって、私たち介護家族の救いになりました。
彼女、彼らは所謂「役者」として我が家の一員となり、その歩調に私たち家族も合わせ、一日一日を丁寧に、互いが無理強いをすることのない、組織が誕生していました。
悲しいかな母は、医者の宣告通り、発症から1年、享年64歳でこの世を旅立ちましたが、最後はかけがえのない「役者」達にも見送ってもらうことができました。
福祉の社会において、もちろん介護技術は必須で、必ず習得していく必要があります。
ですがそれ以前に、長時間支援が特徴となる重度訪問介護において、何より必要なことは、「その人の、その家族の人生の一部になる」、「その人生を共に生きること」が大切ではないかと、私個人は、経験上感じています。
私のそばに、妹という「役者」、兄という「役者」がいてくれたことで、母が亡くなった後も自分の人生を失うことなく、しっかりと歩いて行けている。彼らの価値の大きさに感謝しています。
私と同じく土屋で働く皆さんが、明日の支援先にぼんやりと不安や恐怖感があった時
「自分はこの玄関を開けた時から役者である!」
「質の高い役者を演じる!」
などと心に唱えてから一日をすごす、下らないかもしれませんが、そういう心で向き合ってみると、意外と面白みがあるのではないでしょうか。
その質の高い役者さんたちは、必ず大きな対価を得ますから。