インタビューとコラムの面白さ。そしてその効果とは
牧之瀬雄亮
今、土屋の文書管理に携わっております。
久しぶりに筆を執ります。
土屋のコラムも多岐にわたり、様々な経歴の方に執筆いただいております。
オフィスマネージャーの方や、一般公募ではアテンダントの方にもお書きいただいており、お忙しい中の執筆、大変だと思いますが、その中で皆さんのお気持ちを通して、現場の雰囲気や、どんなお気持ちでお仕事に注力されているかがしっかりと伝わり、お会いしたことがない方とも、何度か酒席でもご一緒したかのような親しみを、一方的に、クラウドを通じて感じております。
さて、皆さま、「コラム書きなさい」とお鉢が廻ってきたとき、どんなお気持ちでしょうか。
「イヤ~、めんどくせえな~、苦手なんだよな~」
って感じでしょうか。それとも、
「いっそがしいのにそんな暇ねえよ~」
という状況でしょうか。
分かります。私もなかなか、筆不精というか、一日でバババ~っと書けるようなタイプではないので、日をまたいだが最後、考えはそぞろに、一日経ったら次のアイディアが半端に出てくる、なんだか最初の文の細かいところが気になってくる、一向に書き終わりません。
「自分の考えを書く」
といったときに、書きながら新しい考えが浮かんできたり、考えが深まったりしてしまうと、それも書かなきゃならないような気がしてくる。そうするとちゃぶ台返しが始まって、書き直す。するとまた考えがなおも深まり、或いは滞り、書く手が止まる…
そんな繰り返しを、実際やっています。私のパソコンには、書きかけのコラムがもう、今数えれば20もあり、今それに加筆しようとする気もなかなか起こらず、ただただbyteの方を占めおおせているといった次第です。
ま、前置きはその辺にして。題にあります通り、いや、えらい題ですね。
株式会社土屋では、土屋で働く方、土屋に縁あり関わってくださる方、そして何よりクライアントの方々に、「文章」を書いていただいています。
土屋のコラム、創業時から大体目を通しております。
働く方のコラムを例にとりますと、「ああこの方はこんな思いでお仕事なさってるんだな」「ああこの人はこういうことに悩んでおられるのだな」「ああこの方はこんなご苦労の後に人を支える仕事をお選びになったんだな」
と感慨が起こります。
さて、コラムを書かれた方、または、書くうちに私のように途中で書けなくなってしまった方、書こうとはしてみた方なら、ご自分の気持ちを文章にすることがいかに労力のいることか、大小問わずお感じになったことと思います。
お忙しい中でお願いしていることですから、なおさらのことだと思います。書くのが好きな方には「読みますのでどんどん書いて下さ~い」と、僭越ながらエールをばお送りして…
「書けなかった」「書き終わらなかった」「提出したけどなんか、いまいちだった」…
そんなお気持ちの方にお伝えしたいのが、
「よかったです!あなたは既に一歩“賢く”なられました!」
ということです。「お前に言われたくない」と仰る方はブラウザの方、“そっ閉じ”していただきまして、ちょっと胸に来た方にさらにお伝えします。
これ別に、たとえ話や、大げさに言ってるわけじゃないんですよ。
書けた方も、書ききれなかった方も、言えることは、「ご自身の言語化する力の限界」を感じたんだと思うんですよ。
はっきり言って、他人との比較ではないです。例えば社内だと、高浜さんは筆がとにかく早いので、新幹線の移動などの一時間もあれば、サラーっと一本コラム仕上げてしまいます。
これは高浜さんが大卒だから、慶応だから、インテリだから、ということも、まー関係なくはないですが、一点あげさせてもらうと、高浜さんは
「『福祉とは何か』って考えて言葉にして話した回数が多い」(多分現場の時間もトップクラス)
ということなんだと思います。
ポイントは「回数」そして、「何か」と問うことなのです。つまり、「答えを知らないところに踏み込む」ということだし、「自分が無意識に知っていた感覚に名前を付ける」ということです。
繰り返して言いますが、これは、他人と比較して「どっちが賢いか」ということを競ったり、比べて優劣をつけようと言っているのではありません。
何より重要なのは言葉にしようとしたときに
「他のだれでもなく、あなたが賢くなった」
ということが重要なのです。
話が合わないと、合いそうな話題を探します。話のレベルが合わなさそうなら、話のレベルを合わせます。話のレベルを合わせないと、そもそもその時間が苦痛に感じられるか、疲労がたまります。
大体の人付き合いの面倒くささはそこにあります。
逆に、自分と相手が大体話をするレベルや興味の度合いが近いと、ワイワイ楽しく創造的に話すことができ、時間はあっという間に過ぎます。
ご自身のお好きなものの中に、ご興味の中に「福祉」や、「人を支える」ということも、入っているのではないでしょうか。
だからこそこの仕事を続けていらっしゃる。
先日、47都道府県全てに障害福祉サービスの拠点(土屋の事業所)が設けられました。
私たち一人一人が、「賢く」なると、何が起こると思いますか?
それは、日本の福祉がレベルアップします。日本の権利意識が目に見えて向上します。
局所的なものに過ぎなかったノーマライゼーションがますます広がります。
マジで言っています。
長年福祉業界は言語化に失敗してきた業界なのだと思うのです。避けるということも大いにあった。新しくやってきた概念や権利意識を書き換えないようにしてきた部分は大いにあります。なぜそれが滞ったか、それは「一人の力は小さい」と思っていたからです。
実はひとりの人間の力というのはとても大きいのです。
それを「問題がある」と思われる現状維持に使うのか、一歩良くしていくために今、「考える」のか…。答えは明白ではないでしょうか。
自分が考えたことのないことを考える。それだけでいいのです。
抽象的に言えるワードが福祉業界にはいっぱいあります。はやり言葉しかり…。しかし、行為・行動が、他者とのかかわりにおいては全てだと思うので、個人の中で無意識にやっていること、言語化されていないことを掘り起こす作業をすることによって、実際新しい言葉としてやってきた概念が、実際自分の肚に落ちているのか、確かめることができます。ここでも、できていなかったからと言って自分を卑下したり、愚かだと思う必要はないのです。愚かさとは、「愚かな行動を無自覚に続けること」ではありませんか?
また、昨年から始まった社内のインタビューもあります。「言語化が苦手だ」「誰かと話しながらなら自分の考えが言えるかも」とお思いの方はそちらもよいと思います。
誰かに尋ねられると、自分で言語化していなかった言葉がスラスラ出てくることも、あるものです。
インタビューにせよ、コラムにせよ、全国に広がることができた土屋の人が「賢く」なることで、土屋に関わる他事業体、働く人の家族や友人、媒体を見た人、行政の方等々に、皆さんの熱意がより具体的に、より面白く、より豊かに伝わります。それは、やっと、介護や福祉が3Kを返上する瞬間なのかもしれません。
着実に日本の福祉が変わっていきます。そしてその原動力は、あなたの身体的かつ言語的な「賢さ」です。
プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ
宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。
思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。