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【岩永真弓さん 北九州 脳性麻痺】

【岩永真弓さん 北九州 脳性麻痺】

クライアントインタビュー 
岩永真弓さん(ホームケア土屋北九州)

<この世に「一人ですべてできる人」なんていない。さあ、温かく繋がって、頼られ、頼ろう>

土屋ケアカレッジの統合課程にも登壇し、重度訪問介護に就こうとする人々に励ましを下さる岩永真弓さん。

その言葉の奥には、幼少期から今日に至るまでの、嬉しいことから苦しいことまで、ご自身に連なる人間関係を一身に受け止め、繋がり続けてきた、「人間であることの覚悟」のようなものを感じます。

お一人でも多くの、障害を持つ方の地域生活が当たり前になるようにと、活動を続ける岩永さん。そんな「実例」として、ご自身のこれまでを紐解いていただきました。

岩永真弓さん プロフィール

幼い頃のこと~人々の愛と、私~

私は1961年、北九州市で生まれました。出産の時に母からうまく出てこられず、機械で頭を挟んで生まれてきたんですが、その時に脳性麻痺になりました。

両親は会社の寮の管理者をしていたので、その寮の6畳一間に家族3人で住んでいました。父は管理業務やボイラーなどの設備点検をしたり、母は女子寮の料理を作ったりしていて、人もたくさんいたので、とても賑やかで、みなに可愛がってもらいました。庭も広くて、父がブランコを作ってくれたりしたので、よくそこで家族で遊んでいました。

母とリハビリを重ねて、小さい時から歩けていたので、小学校からは母と一緒に養護学校(現 特別支援学校)に通い始めました。入学当時はいたずらっ子で、学校前の庭先にあった小池に石を投げたり、裏庭の池に頭から落ちてびしょ濡れになったりして、よく先生に怒られていました。

勉強はしてはいたんですが好きではなく、同級生と遊ぶのが好きでした。

両親は仕事で忙しいながらも、よく家族で旅行に行ったのを覚えています。電車やバスに乗って、九州や大阪を旅していました。

中学校・高等部~車椅子ユーザーに~

中学3年の頃、股関節が悪くなって手術をしたんですが、リハビリが上手くできず、車椅子を使うようになりました。

その頃、同級生が普通学校に転校したこともあり、「私も行けないのかな?」と思ったんですが、養護学校も楽しいことは楽しく、色々と教えてくれる先輩もいたりして、通学状況も考えて、そのまま高等部に上がりました。

普通学校と同じような教育を受けていたし、学力に自信はなかったですけど、それなりの勉強はしてこれたと思うので、このままでいいのかなと思って。

卒業前の進路相談では、大学という選択肢もありましたが、私は施設に行くことに決めました。

施設での日々~職員は一人。工夫と互助~

18歳で施設に入所しましたが、介護者がおらず、寮母さんしかいなかったんです。それまでは母に着替えや食事、入浴など、ほとんど全部してもらっていたので、介護してくれる人がいないというのは、すごく大変でした。

その頃、トイレは一人でなんとか行けていましたが、入浴などは難しいので、施設で一緒だった知的障害者の方に手伝ってもらっていました。

車椅子に乗っている他の方たちも、寮生同士で入浴補助をしていました。施設には一人用の浴室もありましたが、私は使えず、自分で動ける脊髄損傷の方などは使っていました。

施設の就労には、印刷と陶芸と縫製の三つの職種がありました。私は最初縫製にいましたが、細かい仕事は難しいと思い、印刷に移りタイプライターで公文書や名刺等を作っていました。仕事自体は楽しかったんですが、工賃が少なく、始めの頃は1か月2400円しか貰えなかったので、年金と併せてお小遣いにしていました。

当時はコンビニエンスストアもなかったので、そのお小遣いで、週に1度の自宅帰省の時に、母と買い物に行って洋服を買ったりしていました。

施設就労は16時くらいまであったので、それが終わると早目の食事を16時30分から取って、入浴を済ませた後に、洗濯を自分でしていました。お休みの日には、寮生数人で近くに散歩にも出かけていました。

けれど、日常のいろんなことを「自分でしなければ」と無理をしすぎて、身体があちこち痛くなったりして、「このまま施設の中で暮らしていくのかな」という先々の不安があったので、家に帰りたいと思っていたんです。そうして8か月くらい施設で過ごした後、施設を出て家に帰りました。

障害者活動~私も、私の意見を言ってみよう~

自宅に戻ってからは、在宅訪問の方に仕事を探してもらったり、県外の施設を見学させてもらいましたが、自分に合った仕事がなくて、なかなか決まりませんでした。

その頃はボランティア活動が盛んな時代ということもあって、私も20歳くらいから、色々な障害者活動に参加するようになったんです。

北九州の町づくりの会に入って、車椅子で通れる商店街や喫茶店などの地図や資料を作ったり、駅にエレベーターを設置する運動をしたり、障害者の自立を考える会に参加したりしていました。

障害があっても外に出かけられるようにと、リフト付きの車を買うために皆でチラシを配ったり、募金も集めて、運営していく中の時間調整にも関わっていました。その後も、福祉系の専門学校での補助講師や保育所・小中学校の講師もしていました。

こうした活動をするまでは、人と話すことが苦手な性格でした。会議に行っても一番後ろの席に座って話を聴いているようなタイプでしたが、ある時、ボランティアの高校生の女の子に「自分の意見を言わんと変わらんよね」と言われたんです。それから変わりました。

そこからは色んなボランティアさんと会って話しをしたり、色々と伝えざるを得ない状況もあるので、コミュニケーションをたくさん取るようになりました。

北九州は各地域でお祭りがあって、皆でワイワイする町なんですが、1年に1回「わっしょい100万」という北九州全体の祭りがあって、そこにもずっと参加していました。

自立生活から結婚。~ヘルパーのいない時代、支え合うコミュニティの発生~

こうした色んなボランティア活動を通して、障害があっても、地域で自立を目指せることを知りました。そして、障害者活動をしている中で、同じ脳性麻痺の男性と知り合いました。自立生活をしている人で、先輩のような感じで一人暮らしの方法を教えてもらったりしていたんです。

両親は自立生活には反対でしたが、ボランティアの1人が協力してくれて部屋を借りることができ、その1室に会社を作りました。そうして、25歳で自立することができました。それからは、活動で知り合って仲が良くなった人たちがボランティアとして来てくれて生活を支えてくれました。その頃はヘルパーさんがいない時代だったので、友達やボランティアに頼ることしかできなかったんです。

けれどその矢先、母に末期の胃がんが見つかりました。入院して2週間で亡くなったのですが、とてもショックでした。看病もできず、見舞いに行くことしかできない自分を責めたり、反抗していた自分に後悔もしました。

27歳の時に、先ほどお話しした、自立生活を教えてもらっていた男性と結婚しました。恋愛結婚と言えば恋愛結婚ですが、一緒にいても気を遣わなくていい人で、すごく楽で。そこから2人で暮らし始めましたが、2人とも介護が必要だったので、それぞれの介護者を探しながら生活していました。

当時は、社会人や大学生、高校生のボランティアさんに、併せて15~20人くらい来てもらっていました。平日は朝~夕方は事務作業をしてもらったり、19〜22時、23時〜翌朝7時半まで、泊りで支援をしてもらっていました。土日祝は昼~夕方まで手伝ってもらいました。

たまに、夜中にボランティアさんのバイクの後ろに乗せてもらって、門司や宗像、博多埠頭などに行った思い出もあります。

育児~難しいことがあれば、知り合いを作って頼る。岩永さんの創意工夫の子育て~

結婚翌年には、女の子が生まれました。子どもを産むとなった時は、父やボランティアの方たちから「大丈夫なのか?」という心配の声も掛けられたり、自分自身、「どうやって暮らしていこう」とか、「子育てをどうしよう」とかいう不安はあったんですけど、「自分たちの子どもだから自分たちで育てよう」と思ったんです。ボランティアを集めて、介護と育児を両立しようという気持ちで頑張りました。

でも、子育ては本当に大変でした。普通の子育ての3~4倍は大変だったんじゃないかなと思います。ボランティアの方も子育ての経験がない人が多かったので、私が出産の時に教わったことを教えて、子どもを見てもらったり、私の介護をしてもらっていました。

私自身、最初は母乳をあげていたので、洋服にマジックテープを付けたりして、自分ですぐに飲ませられるよう色んな工夫をしていました。その後、哺乳瓶に変わったんですが、私は手に不随意運動があるので哺乳瓶を持っても動いてしまい、うまくあげられないので、子どもをベッドの上に寝かせて、私もベッドに上がって足で哺乳瓶を支えてミルクをあげていました。オムツも右足と左手で子どもを支えながら交換していました。外に出て、近くのスーパーで知り合いを作って、そこでオムツを替えてもらうこともありました。

入浴は、ボランティアさんに浴槽の横に椅子を置いて、そこに座って子どもを洗ってもらったり、着替えもボランティアさんに頼んでいました。病院はすぐ近くにあったので、何かあると、だっこひもで子どもを抱えて自分で連れて行っていましたが、昼は昼で大変だし、夜は夜で大変だし、目まぐるしい生活でした。

けれど、私は一人っ子でずっと兄弟が欲しかったので、翌年に男の子を産みました。その5年後にもう一人男の子が生まれました。病院の先生からは、体力的に厳しいんじゃないかと言われましたが、私としてはそんなにきついということがなくて、楽しい生き方をしたかったので、大変でも子どもは欲しかったんです。

いじめにあう子ども達、そして次男が児童養護施設に......

子どもたちが小学校に上がる頃には、やっと訪問介護の会社も増えてきて、介護制度を使えるようになってきました。そこからは少し落ち着いて、子どもたちは近くの小学校に入学したんですが、ちょくちょく「いじめ」にあうようになりました。

子どもはみな健常者なんですが、「障害の親がいるんだから、同じ施設に入れば?!」と言われたり、長女はスカートを切られて帰ってきたりして、大変なこともありました。子どもたちには、「私がこんなんやけ、いじめられてるかもしれんけど、ごめんね」と言うしかありませんでした。

長女はそれでも休まずに学校に行ってくれたんですけど、次男が不登校になってしまって、先生が迎えに来てくれたこともありました。その頃、訪問介護の事業所の近くに引っ越すなど、何回か引っ越しをしたこともあって、子どもたちも大変な時期だったと思います。そうした中で、ボランティアの方と一緒に家族旅行であちこち行ったりしたことが唯一の楽しい想い出ですね。

そうして、子どもも成長してきたころ、色々なことがあって離婚したんです。私は先に家を出て、半年ほど経って落ち着いたころに子どもを引き取りました。けれど、次男は不登校だったこともあって、私が家を出たひと月くらい後に無断で児童養護施設に預けられていました。私が知った時にはもう手遅れで、1年くらいは会うこともできませんでした。

長女と長男と暮らしながら、1年後にようやく次男に面会できた時には、「なんで僕だけなん?」と言われましたが、「ちゃんと学校に行ってほしいから」と言うしかなく、無力な母だなと悔しく、苦しかったです。

その後は、週に1回面会に行ったり、外泊可能な時は迎えに行って、旅行などにも連れて行ったりして、気分転換ができるようにはしていました。

今はみな独り立ちして長女も結婚し、私は独居で暮らすようになりました。

現在の暮らし~楽しみは、「日常」~

今は朝と土日の昼間は他事業所に、夜間帯は土屋に支援に入ってもらっています。平日の日中は、生活介護に週2回、就労継続支援B型(就B)に週3~4回通っています。

就B自体は15年ほど通っていますが、役所の体制が変わって、作業所内で食事やトイレの介助を受けられなくなったので、最近事業所を変えました。花屋と提携しているところなので、検品作業や、メッセージカードを挟む小物を一輪挿しのプランターにボンドで付けるといった作業をしています。

3年ほど前から月に1~2回、統合課程の当事者講師もしています。そこで、これから介護を始めようという方に自分の体験をお話ししたり、小さな体験やドキドキ体験もしてもらっています。

例えば、お水の入った紙コップにストローを差して、お互いに飲ませ合ってもらい、利用者さんの負担にならない持ち方を教えたり、実際に私の電動車いすに乗って運転してもらったり。そうした体験を通じて、受講生の方に、介護や利用者さんについて分かってもらいたいし、それを理解していく様子を見るのを楽しんでいます。

地域の方とも挨拶をする中で仲良くなったり、分からないことを教えた際には「助かった」と言われることもあって、それは私にとって嬉しいことなので、地域でのコミュニケーションも楽しんで取っています。

今は毎日が楽しみなんです。毎日、ヘルパーさんが入ってくれて、お話したり、出かけたり、そうした生活ができている日常が楽しいです。

よく講習で受講生に「コミュニケーションを大事にして下さい」と伝えてるんですけど、それがないと毎日が楽しくないです。私は普通に話したり、突っ込みを入れたり、ヘルパーさんに合わせて話をするのが好きですし、子どもに会って話をしたり、遊びに行くのが楽しいです。

普段の生活を楽しめることが嬉しいことなので、年齢と共に体力は衰えてきてるんですが、それでも楽しみたいという気持ちが先に立っているし、楽しむということを大事に生きていきたいという想いはあります。

いま、子どもたちに思うこと~優しい大人になった子どもたち~

子どもたちと、「両親が障害者だから、どうだった?」なんて、直接口に出して話すこともないけれど、3人ともそれぞれ、いじめられることは多々ありながらも、それにもめげずに育ってくれて嬉しいです。

それに先日、娘とテレビに出た時に、娘が「両親が障害者で大変だったけど、その大変なことがあったからこそ、今の自分がある」と言ってくれました。その言葉は、生涯忘れないと思います。

二人の息子たちも、口では何も言わないけれど、一声かければ集まってくれる優しい大人になったと思います(笑)

それに長女が近くに住んでいるんですが、孫ができたので、孫と会うのが今の楽しみです。ただ、障害をもったおばあちゃんがいると、子どもたちのように学校に上がった時にいじめにあわないかという不安があります。だから、孫が小学校に行くようになると、会いに行こうか行くまいかという悩みを抱えています。

だけど「障害があっても、ちゃんと生きているんだ」ということを分かって欲しいし、今からはそうなっていくと思っているんですけど、そうなるように私も応援していくことはしたいと思っています。

それに実は今年、もう一人、孫が増えるんです。もしその子に障害があっても普通に生活していけるということを分かってほしいなと、分かってくれると期待しています。

これからやりたいこと~誰でも「ワイワイ」する場を作りたい~

親から虐待を受けている子どもたちや、心の悩みを抱えている人、育児に苦労している方など、老若男女問わず誰でも来られる場所を作りたいというのがあります。

そこでワイワイできて、楽しかったと思って家に帰ってもらえる場所を作りたい。

カウンセリングや心療内科には行きづらくても、地域なら気軽に来れると思うんです。そして、その中から訪問介護に興味を持ってくれる人たちが増えて、ヘルパーさんを増やして、障害者が地域で暮らせるような未来につなげていきたい。夢は大きいんです(笑)

そのために、通信教育の心理カウンセラーの資格を取りました。12年くらい前になります。

障害者や高齢者の住宅改修に興味があったので、そういうことに役立てたいと思って宅建の資格も取ろうとしましたが、それは落ちてしまいました。

それに、私が住んでいる地域は坂だらけで、高齢者の方も多いんです。

タクシーを使わないと買い物にも行けないような買い物難民の方が沢山いるので、食品や日用品を配達してくれるトラックが来てくれると助かるだろうなというのがあったんですが、私は自分の電動車椅子で買い物に行くので、「一緒に買ってこれる!」と思って、自分で買い物代行をしたいです。

よりよい社会は、一人一人の気づきがその実現を早めます

今後は、障害を持った方とそのご家族の方が、うまく介護を受けながら社会で暮らせるように、福祉を重点に置いた社会になって欲しいと思っています。

障害のある人は介護が本当に必要なので、介護をする側もうまく介護できるようになっていったらいいなと思うし、介護は「きつい」というイメージが強くて、なかなかヘルパーになろうという人も少ないので、もっと身近な、「ちょっと助けてあげよう」という感覚が持てるように、変えてはいきたいと思っています。

つい最近、北九州市長選挙がありました。新市長さんは子ども中心の制度を増やそうとしている方で、コロナ対策もあって大変だと思うんですけど、介護についても力を入れてくれる市長さんなのかなというのが不安です。でも、そうしていってほしいですね。

お互い、別の意思があることを、改めて知ってほしい~重訪とヘルパー~

重度訪問介護(重訪)は、利用者の意向に沿った介護で、行くところ行くところで違うと思うので、利用者さんを理解していって、「よく話を聞く、聞いてから動く」ということを大事にしてほしいと思います。

自分の考えを押し付けるヘルパーさんだったり、経験者の方であれば、今までやってきた介護をそのままご利用者の自宅でされることもあるんですが、そうすると介護が上手くいかないことが多いです。施設での偏見を1回リセットしてもらって、「利用者の家に入ってからが勉強」、そういう考えを持ってほしいと思います。

私は発語障害があって、会話が分かりにくいことが多いので、尋ねたことと全然違う答えが返ってくることも多いです。けれど、分かるまで何回も聞き直してくれるヘルパーさんもいるので、そういうヘルパーさんが増えると、私たちもしてほしいことを頼めます。

なので、土屋さんにはコミュニケーションの取れるような指導をしてもらえると、受ける側も受けやすいし、行く側も楽しくなるんじゃないかというのはあります。

どうしても「重訪」となると、重い障害の人だからきついだろうなとか、どうしようかという不安があると思うんですけど、「常に不安を取り除いてあげられる会社」になって欲しいし、何かあったら連絡が取れる体制づくりをしてほしいなと思います。

今はヘルパーさんの数も少なくて、一人一人に負担がかかってきている状態でもあるので、もっとヘルパーさんの人数も増えて、働きやすくなったら、みんなの顔が明るくなると思います。

さいごに~私をみて。あなたもきっとできます~

障害を持っている人は、使える制度は使った上で、ヘルパーさんに支援してもらうという形が本当に必要です。

金銭の伴う介護は制度で受けたいというところもあるけれど、それだけじゃないです。例えば私は一人でよく外出するんですけど、それは「近所の方や周りを理解させていきたい」という考えがあるからなんです。

「私を見て下さい」と言う感じで、障害があっても、一人で生活していけるんだということを知ってもらいたいです。

やっぱり重訪などの制度を受けながら生活していく障害のある人は、これからは多くなると思うので、私の生活を見せていくことで、障害者が地域で暮らせる社会になるよう、つないでいきたいです。

<社長室・川﨑知子さんからのメッセージ>

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川﨑
入社して間もなく岩永様の支援に入れて頂き、濃い時間を過ごさせて頂きました。
ご自宅の支援だけでなく様々な外出に同行して、障害をお持ちの方が外へ出られた時に感じられる想いを共有できたことは、大きな学びとなりました。

岩永様と関わらせていただきながら、私はアテンダントからコーディネーターへ、そしてオフィスマネージャーへと立場が変わっていき、それぞれの立場で本音でお話をさせて頂きました。

「濃い時間を過ごせた」と思えるのは、ここが一番の理由です。
いつも朗らかに、お心広く接して下さり、本当にありがとうございます。

岩永様が温かく、丁寧に想いをお伝え下さるお陰で、アテンダントは信頼関係を築くことができています。

そして岩永様はよく「私はこの先こんな事をしてみたいんよ」と、抱いている希望を話して下さいますね。娘様に送られたサプライズ結婚式&TV出演は、多くの方の心を動かしました。地域貢献やサプライズ計画など予想外で驚く事もしばしばですが、私たち土屋スタッフは岩永様を応援します!!

これからも岩永様らしく、マイペースでポジティブにお過ごし下さい。

<ホームケア土屋北九州 オフィスマネージャー・奥永孔太郎さんからのメッセージ>

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奥永
いつもお世話になっております。
私が最初に岩永さんにお会いしたのは、重度訪問介護従事者養成研修の当事者講話の際でした。

これから初めて重度訪問介護に携わる私にとっては不安ばかりでしたが、岩永さんの楽しいお話を聞く中で、重度訪問介護の大切さだけでなく、面白さもたくさん知ることができました。

今でも重度訪問介護のお仕事に前向きに携われているのは、岩永さんのおかげだと思っております!

いつも私を含め、アテンダントの身体やメンタルを優しく気遣ってくださり、本当にありがとうございます。

岩永さん自身もお体を大切に、これからも一緒に色んな事にチャレンジしていきましょう!


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