HOME CARE TSUCHIYA

「物語と障害」~2 / 片岡亮太

「物語と障害」~2
片岡亮太

子供の頃、両親がテレビで見ていた洋画の中で、街中を歩く白杖(はくじょう)を持った盲目の男たちが、突然振り向いたかと思うと、銃を乱射し始めるという場面があり、当時の僕はとても驚きました。

スパイ映画のワンシーンだったこと以外は、タイトルはもちろん、内容も一切覚えていません。

けれど、「障害者のふりをして蛮行に及ぶシーンなんて描いてもいいんだ!?」「海外ではこういう風に障害を扱うことをタブーにしていないんだ!?」と、衝撃を受けたことだけは未だに鮮明に覚えています。

それは、大人になってから読むようになった、欧米の小説も同様。

例えば、ホラーの巨匠スティーヴン・キングの作品には、出版された年代を問わず、物語の中に度々障害の話題が登場します。

車いすユーザーに扮した凶悪犯が、爆弾を抱えたままコンサートホールに入場したり、主人公が吃音だったり、アルコール依存症で、「アルコホーリクス・アノニマス」(アルコール依存の問題を抱えた方たちの自助グループ)に参加しているなど、主要登場人物やその行動が「障害」と結びついていることもよくあります。

ですが、僕が興味深く感じるのは、それだけでなく、いわゆる「ちょい役」としても、障害のある人がよく現れること。

ただの通行人、主人公の職場の同僚、事件を追う中で出会う関係者など、さほどストーリーに影響を及ぼさない立場の人が、何かしらの障害を有している。

はっきり言って、その人に障害があってもなくてもどうでもいいし、物語の世界に現れても、おそらく読者や視聴者の中に、その人の名前は刻まれない。

でも僕の心は、そういう配役にしびれてしまいます。

なぜなら、ストーリー上、重要度の低いキャラクターを障害者にするという表現方法は、その作者や制作スタッフ、そしてその作品を受け取る人の多くにとって、「さりげなく現れる障害者」が違和感をもたらさない存在であるという共通理解がなければ成り立ちえないと思うからです。

多分に主観が混ざった見解ではありますが、僕が全盲になった1990年代中頃の日本には、そんな雰囲気は皆無でした。

テレビドラマで言うなら、聴覚障害や手話の認知度を急激に上げた『愛していると言ってくれ』(1995年)や、軽度の知的障害(サヴァン症候群)のある女性を描いた『ピュア』(1996年)、また、障害者施設について様々な物議を醸した『聖者の行進』(1998年)等々、物語の中に「障害」が取り上げられる時、そこには必ず、特別な「意味」がありました。

僕は、それが嫌で仕方がありませんでした。

特に、自分自身と重なってしまうがゆえに、登場人物が物語中盤で視力を失うなど、「失明」が絡んでくる物語は、拒否反応の対象。

失明し絶望している主人公やヒロイン、あるいは主要キャラクターの友人や家族が、周囲に慰められ、明日に希望を持つ。

場合によっては、そこに至るまでのプロセスの中で、自死を選ぼうとしたり、激しく口論するシーンがあったりする。

それらはまるで、「失明」を巡るステレオタイプのオンパレード。

決して「嘘」とは断じられないし、僕の過去を振り返っても、似たような出来事を経て入る。

でも、だからこそ、失明によって生じる人生の変化を、物語の一部として、誇張して昇華されてしまったり、あえて言うなら、障害を作品の熱を高めるための「ギミック(=仕掛け)」として扱われてしまうことが我慢できなかったのでしょう。

けれど、物語における「障害の描き方」は、時代と共に少しずつ変わっていきます。

1997年に乙武洋匡さんの『五体不満足』が出版されたり、1998年に長野パラリンピックが開催された頃からは、徐々に障害がある人の「強さ」とか「明るい側面」にスポットを当てる風潮が強くなっていきました。

その影響からか、2000年代に入ると、実在する障害のある人の半生をドラマ化したり、盲導犬を取り上げた物語を作り、事実や実社会を投影しつつ、啓発的な内容にまとめ上げた作品が増えていったように思います。

テレビドラマや書籍など、多くの人にとってアクセスしやすい媒体を通して、障害についての発信がなされることは、理解を広めるうえでとても効果的な手段。

そういう意味では、僕がどうしても受け入れられなかった、障害を主題として取り上げたドラマのように、劇的な展開をふんだんに盛り込みながら、「健常者」と「障害者」の間に生じる差別や偏見、不平等の問題に焦点を当てていた作品も、その時代にとっては必要な存在だったのかもしれません。

それはわかったうえで、いつでも障害が「悲劇」の素材とされることに、すわりの悪さを感じていた僕にとって、2000年代の「風向きの変化」は心地よいものでした。

ただ予想外だったのは、年齢が増すにつれ、その物語のモデルになった本人を直接知っていたり、そこまではいかずとも、比較的近い関係にいる人の歩みがドラマや映画、小説などの形で描かれることが多発したこと。

身内がドラマになったかのような何とも言えないむず痒さがどうしても払拭できず、やっぱり僕は「障害者」を描いた各種コンテンツからは、一定の距離を取り続けることになります。

ところが、近年、ようやく、物語に障害者が登場する日本生まれのドラマや小説、映画を、僕も純粋に一視聴者、読者として楽しめる、そういう世の中になってきました!

―つづく―

プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。

同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。

第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

Blog: http://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
youtube: https://www.youtube.com/user/Ajarria

050-3733-3443