『わからないということには価値がある』 / わたしの

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『わからないということには価値がある』
わたしの

びんの中に火のついたろうそくを入れて蓋をしてしばらくすると火は消える。

それはどうしてかというと、小学校の理科の実験でも習ったとおり、びんの中の酸素濃度が低くなってしまうから(燃焼によって酸素が消費されてしまうから)。

じゃあ、宇宙空間に酸素はあるの?

…ほとんど、ありません。

酸素濃度が低いと火は消える。宇宙空間の酸素濃度は低い(ない)。よって酸素濃度が低い(ない)宇宙空間では、火は…消える。燃えない。

例えば、ある日、子どもがこんな質問をしたらどうだろう?

ねぇ、お母さん、宇宙では火は消えるはずなのに、どうしてアニメのロケットは火を噴いているの?

(宇宙空間でロケットが火を噴いているかどうか、実際に見たことがないから分からない。)

(でも、火がつかなければ推進力も生まれない…だからロケットは火が重要なんだろう。)

この問いに、どう答えたらいいのか。

答えはどうやらシンプルで、ロケットは酸素も一緒に積んでいて、その酸素を使って燃焼させているらしい。だから宇宙空間でも火を燃やすことができるんだって。

じゃあさ、お母さん、どうして太陽は燃えているの?

そう問われたらどう答えますか?

太陽は酸素濃度の低い(ない)宇宙空間で孤独に燃えている。

ロケットと同様に、太陽が自前で酸素を用意しているわけもない。それなのに太陽は燃え続けている。

情けないことに私はこれまでそれを疑ったこともなかった。

(人のせいにするわけではないけれど)誰かが教えてくれることもなかった。

酸素がないところで火は燃えないことも、宇宙空間に酸素が少ないことも子どものときに習う「当たり前の」知識だ。

しかし、多くの子どもはその二つを結び付けて太陽が燃えることを疑わない。ひっかかりもしないだろう。この私がそうであったように。

ねぇ、どうして太陽は燃えていられるの?と、どれほどの子どもが疑問に思えただろうか?

また、太陽はどうして燃えているでしょうか?と、大人から問われた子どもがどれほどいるだろうか?

どうして問わないのか?

酸素のないところで火は燃えないはずなのに、太陽はなぜだか燃えている。

もっとも私が考えても考えなくても、疑っても疑わなくても…太陽は燃え続けているのだけれど。

…また別のお話。ある作家が話していたエピソードがとても印象的でした。

子どものとき、同級生でできそこないの友だちがいたんだって。その子は三角形のひとつの内角Xを求める算数が全然できなくて、居残りさせられていた。

どうやってXを求めるのかというと、どんな三角形でも内角の和は180°になるという公式があるのだから、他の内角が分かっていれば180°から残りの内角の合計を引けばXの値がわかる。

わかっている先生や生徒からしたら、「どうしてわからないのかがわからない」。

その子は頭を抱えて悩んでいる。

「簡単なことなのに、どうしてわからないの?」って聞いたら、

その子は「どうして内角の和が180°になるんや?」と、言った。

そこで作家は気づく。

他の子が「三角形の内角の和は180°」という公式になんの疑問も持たずに計算をすすめている中で、できそこないと言われているこの子は「どうして内角の和が180°なのか」ということにひっかかっていた。

ひっかかっているからこそ、答えが出せない。

公式を疑っていた。前提を疑っていた。

そのためにその子はまわりからできそこない、落ちこぼれと言われていた。

しかし、ひっかかることができることってすごくないだろうか?と作家は思う。

「当たり前」とされている公式を疑えるってすごい。ひっかかることができることの尊さに気づいて驚愕するのだった。

答えがわかることよりも、わからないこと、疑えることはすごいことではないのか?と。

滝川一廣さんは『「こころ」の本質とは何か』(ちくま新書)の中でこのように書いています。

「子どもたちがまわりの世界を知ってゆく歩み、認識の発達とは「おくれ」を必然的にはらむのであって、一方に遅れない正常な子がいて、他方に遅れる異常な障害児がいるというわけではない」

私自身もこの言葉の示すところを完全にはわかってはいないながら、恐れ多くも手探りのまま要約させていただくなら、「理解というのはそもそも時間がかかるもの」である、となる。

そして「その時間は人によってそれぞれちがう」のだ、ということになると思う。

「わかる」ということは「よい」ことだろう。

学校で100点とることは素晴らしいことだよ。

しかし「わからない」ということも決して「わるい」ことじゃない。

少なくともわからないという状態で、もがいているのは苦しいけれど「価値がある」と言える。

本人が、あるいは周囲がそのように思えるか思えないかは大きな分かれ道であると私は思っている。

わからない、(わかろうとする)ことを尊いことだと私は信じている。

わからないという状態は苦しいから途中で放り投げたくなる。

つまり考えることをあきらめてしまう。

それもまた処世術のひとつであると認めるし、例えば「公式」のようにここまでは考えなくてもいいという「お約束」を作ることで人間の知は発展していったとも言えるのではないだろうか。これはある種、理解を効率化させるということであり、人を効率的に発達させた。

簡単な方法で手っ取り早くわかりたいというのは、人の願いであることは間違いじゃない。

また「知らぬが仏」という言葉通り知らなくていいこともこの世の中にはたくさんある。ほとんどそうなのかもしれない。

しかし一方で「わからない」ということにひっかかる子どもがいる。

その場にとどまり続けることができる子どもたちがいる。あるいは大人がいる。

考え続けることは苦痛なはずなのに。手放さないことはつらいことなはずなのにも関わらず。

その人たちはあきらめない。考え続ける。裏から見ればあきらめられない、先へ進めない、できそこないと言われてしまうことも多い。

本当にそうなのだろうか?

もしかしたらそんなできそこないたち(考え続ける人々)は、太陽がなぜ燃えるのかの謎を解き、やがて「核融合反応」に到達するかもしれない。そしてわかったその先の、さらなる謎へ果敢に挑戦していけるのもきっとその人たちなのではないだろうか。

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