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「変わりゆく言葉」(前編) / 片岡亮太

「変わりゆく言葉」(前編)
片岡亮太

兵庫県出身の妻と生活するようになって驚いたことの一つに、関西弁が有する一種の「あいまいさ」があります。

例えば、兵庫県名物明石焼き。

たこ焼きをお出汁の中に入れて食べるあのメニューのことを地元の人たちは、「卵焼き」と呼ぶとのこと。

また、僕にとっては「さつま揚げ」として認識されている九州の食べ物も、関西の一部では「天ぷら」と呼ぶのだとか…。

それでは「朝ごはん卵焼きにしようか」とか、「今夜、天ぷら食べようか?」と言われた場合、いずれも二通りの可能性が生じてしまうではないかと、僕は釈然としない思いに駆られてしまいます。

実際我が家で、「天ぷら買ってきたよ」と妻から言われ、えび天やいか天を食べる気になっていたところ、食卓に数種のさつま揚げが並び、驚く僕を前に、妻がぽかんとしているということがありました。

妻に言わせれば、卵焼きも天ぷらも文脈やニュアンスで使い分けていると言うのですが、今一つ僕にはピンと来ません。

特に、妻の場合、普段は標準語のイントネーションで話しているうえに、僕たちが出会ったのが海外だったこともあり、彼女が関西出身者であることを失念してしまうことがよくあるので、余計に混乱してしまいます。

似たようなことで言うと、押しなべて関西圏の方たちの言葉には、「シャーっと」とか、「ひゅっと」とか、「ジャージャー」、「べたべた」等々、擬音語や擬声語、擬態語が登場する率が高いことも興味深いところ。

いずれも実に的確に対象となる事物や行動を表現していると感じることが多いのですが、一方で、「同じイメージを共有できているかがあやふやにならないのだろうか?」と疑問にも感じます。

それでも僕は、義母や妻の友人などと会話する時の言葉のテンポ感が心地よく、自然と笑いがこみ上げてくるので、関西圏の方と語り合う時間が大好きです。

寸分のくるいもなく、明確に何かが伝わることよりも、詳細がふわっとしていてよいから、心地よいリズムで、楽しく会話が進むことを重んじる。

そんな文化が関西弁には含まれているのかもしれない、そのように感じています。

対して僕はと言えば、これまでの記事をお読みくださっている方には、あえて書くまでもなく伝わっているかと思いますが、元来とても理屈っぽい性格。

感覚よりは論理を優先する場面の方が圧倒的に多い。

さらに、失明後転校した盲学校(現、視覚特別支援学校)で、弱視の時の感覚のまま、「この本」とか、「あそこの棚」などの表現を連発していたところ、

「視覚障害者同士で会話をしている時に、これ、それ、あれ、どれなどの「こそあど」言葉を使っていたら、何のことを言っているのかがちゃんと伝わらない可能性が高いでしょ。」

と先生に説明され、ハッとした経験があり、以来、たとえ相手が目の見える人だったとしても、極力、「今僕が持っている本」とか、「教室の後ろの棚」など、行き違いが発生し得ない言葉を用いるよう意識してきました。

大人になって講演や執筆の機会をいただくようになってからも、僕が発信したいことが、極力正確に伝わるよう、誤解の生じづらい言葉のチョイスを心がけているつもりです。

そういう僕が、妻の関西弁の感覚を理解できず、理詰めで細かい説明を求めてしまい、とても面倒くさがられた例は枚挙にいとまがありません。

そんな僕の性分ゆえでしょうか、
「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」、「ノーマライゼーション」や「インクルージョン」など、障害のある人をはじめとするマイノリティに関する言葉たちが、今一つ正しく理解されぬまま、その単語だけが一人歩きして使われ続けているような気がしてなりません。

皆さんは上記の四つの用語をご自身の言葉で説明することはできますか?

ちなみに僕の回答例は、以下の通りです。

バリアフリー:
既存の製品や建物において、身体、知的、精神をはじめ、心身に何らかの傷害、疾病を有する人などの利用に際し、障壁となりうるもの(段差や点字表記のないラベルなど)があった場合、その障壁を取り払う、あるいは代替策を講じる行為。
(例) 駅のエレベーター・エスカレーター設置工事。住宅の改修工事など。

ユニバーサルデザイン:
ある製品や建物、コミュニティ等を作成するにあたり、心身の障害の有無、セクシャリティ、年齢、国籍など、幅広い視点から利用者を想定し、多様な人たちが使用を妨げられることのないよう、あらかじめ設計を施すこと。
(例) 設計段階で点字ブロックの敷設が決まっている建物。購入段階で様々な障害に対応した複数の機能を有するiPhoneなど。

ノーマライゼーション:
ある社会やコミュニティにおける大多数の人にとって「普通」や「当たり前」である行為を、障害者をはじめとする少数者にとっても普通で当たり前のこととしていくこと。
(例) 学校、大学等における障害のある学生への適切な支援。生活保護を受けている家庭に、エアコンをはじめ、多くの一般家庭で当然のように使用されている機器、生活水準を保証することなど。

インクルージョン:
身体、知的、精神などにおける障害や疾病を有することや、セクシャリティ、年齢や国籍、宗教などの違いにより、社会生活上の不利益や不平等、差別などを受けることのない、多様な人材が生きていける社会、学校、コミュニティ等の制度やシステム、構造を実現すること。
(例) インクルーシブ教育(統合教育)。共生社会の実現など。

…、我ながらあまりにも理屈っぽい書き方だとは思うのですが、なるべく取りこぼしのない書き方をしようと思ったらこうなりました(苦笑)。

いずれもあえて何かを調べたりインターネットを参照したりはしていないので、多少間違っているところもあるかもしれませんが、おそらくおおむねそれぞれの言葉が意図しているポイントの中核は外さずに理解できているのではないかと思います。

ところが、各種メディアやインターネットなどをチェックしていると、時として、政治家の方であったり、コメンテーター的な立場で公に言葉を発する方たちの中にも、バリアフリーとユニバーサルデザインを混同していたり、インクルージョンについて語る際に、社会のシステムではなく、個人個人の努力に着目して語っていることがあるなど、あいまいな認識のもとで論を進められているように感じることが少なくありません。

我が家で時折生じる、「卵焼き」や「天ぷら」という言葉が刺すものが夫婦間で食い違うことや、「あそこのそれ取って」と不意にお互いに口にして、「ごめん。今のじゃ伝わらないよね」と笑い合ったり、奇跡的に意思が通じ合ってほっこりしたりすることは微笑ましい日常会話のエピソードになります。

でもそのような「ズレ」を、社会に関係した大切な言葉の共通理解において引き起こしてはいけないのではないかと僕は考えています。

だからこそ僕は、用語とその意味に注目し、理解を深めながら、それらをひたすら理屈っぽく分析して、どんなふうに言い換えたら多くの人に、より明確に理解していただけるかを検討し、発信することをこの一年も続けたいと思っています。

皆様、2023年もご愛顧のほど、何卒よろしくお願いいたします。

プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)

静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。

2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。

同年よりプロ奏者としての活動を開始。

2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。

現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。

第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。

Blog: http://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
youtube: https://www.youtube.com/user/Ajarria

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