「言葉」はない。けれど、確かに今そこにある「気持ち」が、親、行政、制度、支援者たちを、動かしていく記録。あるいは、「魔術」。【小田嶋優子さん 37歳 北海道 脳性麻痺】

目次

クライアントインタビュー 
小田嶋 優子さん(ホームケア土屋札幌)

真空状態があると、そこに空気が吸い寄せられるように入ってきます。

言葉を発しない優子さん。しかし、感情表現や身体表現は豊かで、彼女と一緒にいると、アテンダント達も「何かを伝えようとしている」と、彼女が全身で伝える「気持ち」を、だんだんと感じ取れるようになるようです。

重度訪問介護が制度化される前の、障害を持つ子と家族の愛情と葛藤、行政と制度の渦の中心でその体温と重さを確かに周りに伝え、生きる優子さん。

壮大なのに肌感覚を感じるドキュメント、どうぞご覧ください!

このシリーズは、障害・難病を持つ方の、暮らし・その人生にスポットを当てて、「障害者」「難病患者」である前に、皆「一個人」として存在するという豊かな事実と、その存在感をできるだけお伝えしたいと考えています。
また、制度の運用状況の実例としても貴重な資料と言えますし、実際に今、難病や障害をお持ちで、どんなサービスをどれだけ使っていいのか困っておられる方に、何かヒントになればと願っております。

プロフィール

  • 氏名:小田嶋 優子(オダジマ ユウコ)さん
  • 生年:昭和60年
  • 出身:北海道七飯町
  • 病名:脳性麻痺

生きているだけでいいんだということを、彼女は時々思い出させてくれる

小田嶋 優子(オダジマ ユウコ)さんは昭和60年、北海道七飯町で誕生。

出生時トラブルのため低酸素脳症を起こし、脳性麻痺となった彼女は、日々をベッドや車いすで、言葉を発することなく暮らしています。

けれど感情表現の豊かな彼女は、語らずとも周りを幸せにし、生きることの意味を自らの存在を通して他の人に伝えているかのようです。

『このままでいいんだ、って。何もできなくても、何もしなくても、生きているだけでいいんだということを、彼女は時々思い出させてくれる。』

ある障害を持った方が、彼女の両親に伝えたこの言葉は、多くの苦労を伴いながら娘を育ててきたご両親の想いを代弁するものでもあったはずです。

「だから私たちも一緒に暮らしてこられたし、『何かができなくても、誰に評価されなくても、このままでいいんだ』ということを、優子はそのまま体現している存在だって思うんです。」

小田嶋優子さんの歩んできた人生は、障害のある子どもを持つ両親が共に歩んできた道でもあり、一つの地域の障害者施策の歴史でもあります。

一つ一つを紐解くと、そこに浮かび上がるのは何なのか。優子さんの幼い日々から現在までを辿っていきます。

知りたいんだよ。優子が今、何を思って、何を感じているか

小田嶋優子さんは生まれた時より話すことができず、感情を表に現わすことでこれまで周囲とコミュニケーションを取ってきました。

幼い頃は反応が少なく、ご両親は対応に苦慮していたと言います。

父「静かな時なども、具合が悪くてぐったりしているのか、それとも落ち着いているからなのか、それが分かりづらかった。熱も低くなったり、高くなったりして、病院に連れて行くタイミングも難しかったかな。」

母「喜んで笑い声を上げることが一切ないので、何が好きかの判断はすごく難しいですね。だから勝手に『これが好きかな』と考えるといったように、想像で理解していくやり方で、客観的な答えはないですね。」

日々、彼女を見て、彼女の想いを想像しながら介助するご両親。一方、優子さんも自分の思いを表情に現し、なかでも不快な気持ちははっきり顔に出すとのこと。

父「そんな時は、『あ、こりゃまずいな。こりゃやっちゃいけない』と、自分がしていることをやめるんです。でも不快な表情には、おしっこをしたとか痰が出るのを『教える』面もあるので、有意義ではありますね。」

母「結構、緊張が強いんですね。何もない場合もありますが、意思表示という時もあって、こっちの想像力と共に生活するという感じですね。」

お互いの心を通して日常を一つ一つ重ねてゆく小田嶋家。けれど優子さんが小学校入学の年に近づく頃、厳しい現実に直面します。

父「近くの普通学校に行かせようと思ったんですが、優子は話もできない状況だったんで、受け入れてもらえなかった。

何年間も闘って、色んな人にも応援してもらって、ようやく妥協案で、学校の一室を借りて、養護学校の先生にそこに来てもらうということになりました。小学校5年の時でしたね。そういう特別な方式で、中学校まで学校に通いました。」

母が疲れてしまったのは、優子さんからの「他人の手を借りて」というメッセージか

母「今は胃ろうですが、8歳くらいまでは口から食べられていたんです。食べ物を裏ごししたり、刻んだりして、食べることが疲れるのか動かなくなってきたら梅干をあげていました(笑)。いちごとミカンが好きで、その匂いがすると口が動いていましたね。」

優しく、愛情深く彼女を見守り、育ててきた両親ですが、現実の生活は壮絶なものでもありました。

2人の弟(息子)さんの子育てに加え、優子さんへの介護疲れにより、母の恵子さんは過労で入院。優子さんは平成17年12月、16歳で自立ホームに入居します。

そのきっかけについて、恵子さんはこう語ります。

母「優子と別々に暮らすことになった原因は、はっきり言うと私だった。私が『もう一緒に暮らして介護するのは無理だ』ってギブアップしたんですね。ひと月に1回、定期的にショートステイも使っていたし、いろんな制度を使いながら、優子が20歳になるまでは一緒に暮らそうと決めていた。ゴールを決めないとできないと思って。だけどゴールまでもたなかった。」

1日4回の食事介助。20時に最後の食事を終え、居間から寝室に移して寝かせるときには、もう体が動かなかったと言います。

母「夕方を過ぎてくると、精神的な部分で身体が動かなくなってきて、なかなか立ち上がって、ささっと胃ろうの用意をすることができなくなって。

胃ろうと薬がようやく終わったと思っても、寝室へ優子を移動する際に腰が立ち上がらない。夜中の1時、2時となった時に、『ああ、もう無理だ』って立ち上がる気力もなくなって、罪悪感と、いろんなことで、もう一緒に暮らしていくのが難しいと思ったんです。」

また、自らのメンタル面だけでなく、そこには家族の問題もありました。

母「弟たちにも吸引などを手伝ってもらってたんですね。そしたら下の子が、『優子、次いつ短期入所するの?』って聞いてきたんです。息子にはそこまでの深い考えはなかったと思うんですが、その時に『ああ、大変だって思ってるのはもう私だけじゃないんだ』というのがあって、家族みんなもう限界かなって。」

当初は貯金を切り崩し、近所に部屋を借りて、ヘルパーの24時間派遣を考えていたとのことですが、優子さんが週3回介護サービスを受けていた事業所(札幌市)に相談したところ、なんとその事業所が、家族と本人の状況を考慮して自立ホームを設立してくれました。

そうして優子さんは、16歳6か月でそのホームに入所します。

自立ホームでの生活に至るまでの支援状況

重度訪問介護の始まりは、障害者自立支援法が成立し、支援費制度がスタートした2006年に遡ります。それ以前は全国的に統一された支援制度がなく、個々の市が自らサービスを提供していました。

父「自立ホームへの入所は支援費制度が始まる前だったので、当初は支給時間が120時間くらいでした。ただそれだと、1日24時間の支援には到底足りません。けれど、その自立ホームが、足りない分はボランティアでと言ってくれて、自立ホームへの入所を決めました。」

自立ホームは、現行の高齢者福祉におけるサービス付き高齢者住宅に相当する仕組みのもので、部屋と食事付き、外部からのヘルパー派遣というスタイルでしたが、支援費制度が始まる以前のこと。

ヘルパー支援の費用も無料ではなく、両親は毎月17~18万円ほど支払っていたといいます。しかし、入所翌年、支援費制度がスタート。費用も無料となり、支給時間数も330時間に。

父の正弘さんは、「この支援費制度は優子が『作れ』って言ったようなものかな」と笑います。

父「その自立ホームも、札幌市にある事業所がほぼ優子のために作ってくれたようなものなんです。ですから、優子は第1号。そこが自立ホームを作ってくれたからやってこれたし、それがなかったら今の優子はいない感じ。大感謝ですね。」

入所当初は毎日ホームに通っていた恵子さんも、優子さんが落ち着いたころからは、蓄積された介護疲れで、あまり訪ねることもできなかったと言います。

母「私、疲れ切っていたので、1~2か月に1回くらいしか会いに行かないという感じが、多分10年くらい続いたと思うんですよ。

その内に自分自身、色々考えることもあって、またよく会いに行くようになりました。親の波がいろいろとありましたね。」

一方、正弘さんは同ホームに母(優子さんの祖母)が入所したこともあり、暇があれば通うように。優子さんは自立ホームで穏やかに日々を送り、徐々に状況も改善されていきます。

2013年、現在の根拠法である障害者総合支援法が成立。2014年には重度訪問介護の対象者が「身体」に加え、「知的」「精神」「難病」にも拡大され、同年に国連の障害者権利条約に日本も批准。

地域・在宅での生活に向けたノーマライゼーションの世界的な潮流の中で、優子さんの支給時間数も増えていき、28歳の時に540時間、32歳の時にようやく720時間の支援が決定します。

しかし、自立ホームに入所して20年が経つ頃、コロナの波が人々の生活を覆います。

一人暮らし

2020年、新型コロナウイルス感染症は世界中を駆け巡り、病院や施設は一斉に面会禁止に。

優子さんが入所していたホームもまたしかり。世の中が大きく、その様相を変えました。

父「時間数が720時間になって、いつでも一人暮らしができる感じになったので、ぼんやりとは一人暮らしへの移行を考えていたんですよね。そこにコロナが来た。これが一番大きかったですね。

今まで毎日のように会いに行っていたのが制限がかかり、コロナ感染者が出ると1週間面会禁止。後半には、面会そのものが15分という感じになりました。

思い切って、優子が一人で暮らした方が自由が効くなと。そうですね、自由が欲しかった。」

両親は、自立ホームから一人暮らしへの移行を決意。2022年1月、それに向けて動き始めます。

一人暮らしの関門

時間数も720時間支給されているところから、当初は「楽勝だ」と考えていた正弘さん。

しかし、ヘルパーがなかなか見つからないという事態に直面します。

父「今まで入ってきてくれてた事業所が、『日中はできるけど夜間はできない』ということになり、一時はダメかなと思ったんですけど、土屋が夜間帯に週5日入ってくれることになり、『夜が大丈夫ならなんとかいける。とにかくやってみよう』と。」

足りない分は自分たち家族が補う。そうした決意の下、両親は次月より住居探しを開始。

探した途端に道営住宅の募集があり、翌日に手続きが完了するという幸運にも恵まれますが、今度はヘルパーの日中問題が浮上します。

父「日中に入れる予定だった事業所が、産休や病休で週1回くらいしか入れなくなった。慌てて、色んな事業所に30件ほど電話しましたが、長時間の重度訪問介護をしているところがあまりない。してたとしても短時間。

そこに医療的ケアがあったら、『うちの事業所ではできません』と。」

ヘルパー不足問題が、小田嶋家の足かせになりつつも、夜2回、昼6回は自分たちでと、2022年5月半ば、優子さんの一人暮らしを決行。

そうした中、土屋から吉報が。

父「日中の金曜日やれますよ、月曜日も行けるかもしれません、水曜日も行けます!となって。他のところが募集しても人が来ない中、なぜか土屋さんだけ人が来る。最初は我々も結構介助に入りましたが、今は日中はほぼゼロになったんですね。

支援費制度も、住居も、日中の支援も、困るたびに偶然というか『優子の魔術』というかで、とてもスムーズに進みました(笑)」

では土屋の側から見た支援開始状況はどうだったのか。

ホームケア土屋 北海道・東北ブロックマネージャー・澤田由香さん(当時 北海道エリアマネージャー)と、北海道エリアマネージャー・三浦耕太さん(当時 北海道オフィスマネージャー)に話を伺いました。

土屋の側から見た重度訪問介護の支援開始の状況

澤田由香が語る、優子さんのエピソード

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澤田
札幌事業所にご両親がいらっしゃった時のことは、とても印象に残っています。熱意がすごく伝わってきて、一瞬で。

帰られた後、『なんとかしてあげたい。なんとか手を差し伸べてあげたい』という気持ちが、ほんとに湧き上がってきました。

三浦耕太が語る、優子さんのエピソード

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三浦
まだ雪がある中、ご両親が事業所に来られて、本来はコーディネーターが窓口となって話を進めるところなんですが、私が張り切ってメインでさせてもらったんです。

今だから明かすんですが、半ばちょっと強引に話を進めました。「なんとかしますよ」と(笑)

というのも冗談ですが、その頃応募が多くて、アテンダントが急に増えたこともあって、タイミングがすごくよかったんです。

そこでまず目の前の、優子さんの支援に人員を増やしていこうというところで、みなの同意も得て、どんどん入らせてもらいました。

今は夜勤が週5日、日勤が週6日、支援に入らせていただいています。

できればこの夜勤枠も、週7日にしていきたいなと、オフィスマネージャー・コーディネーターと常に検討しています。

日勤も夜勤も週7日カバーできるくらいの人員が揃えばいいですね。

「そう、これでいいの」一人暮らしし始めて、身体もほぐれた優子さん

一人暮らしの素晴らしさ

令和4年5月16日、土屋の事業所をメインに優子さんは実家のすぐ近くで独居生活をスタート。

支給時間数も今では780時間/月になり、両親は一人暮らしの良さをこう語ります。

父「自立ホームでは、やはり自立ホームの規則があって、それに合わせなきゃならない。毎日散歩に行きたいと思っても、他の人との絡みもあるので、そうそうできなかったりする。

けれど、今は全部優子に沿う。優子本人がいて、それに周りのみんなが合わせる感じになっているから居心地がとてもいい。

それに集団だと、コールがなればヘルパーさんも別の人のところに行ったりするけれど、一人暮らしになると、1分たりとも優子から離れられないので、緊張が起きてもすぐに揺らしたりして収めることができる。」

こうした状況が、優子さんの身体によい影響を及ぼし、身体も柔らかく、曲がりも修正され、緊張も少なくなったといいます。

母「散歩にもヘルパーさんが日課のように連れて行ってくれて、優子もとっても快適だと思う。

力がグーっと入ってても、外の風に当たったりすると和むというかね、優子自身も外に出るのが好きだと思うので、すごく良かったなと思ってます。

近所は万遍なく詳しくなったんじゃないかな。」

父「よく知り合いから、『あそこの公園に優子ちゃんがいたよ』とか聞きますね。

自立ホームだと、外出は曜日指定をしなきゃいけないですが、今はヘルパーさんが必ず一人付いているから、その人の仕事の段取りや天気に合わせて、とにかく外に連れて行ってくれています。

車いすのバネの振動も心地いいと思う。あの揺れる感じが。だから、ちょろっと近くに行って帰るとかだと怒る(笑)」

昼夜逆転気味だった睡眠状況も、日中の散歩などにより夜間にしっかり眠れるように改善され、ご両親も弟たちも、自由に頻繁に会いに行けて、気持ちも楽になったと言います。

そして、優子さんもまた同様のようです。

母「人に話しかけられたり、触ったり揺すってもらうのが好きだと思うので、今も不快な顔をしたらヘルパーさんたちがすぐに足とかをさすってくれて、そうしたら落ち着いたり。」

父「穏やかな表情が多くなりましたね。気持ちを汲み取りやすくなりましたし、今はヘルパーさんがそれをしてくれています。」

アテンダントとの関係

「優子自身は誰かにもう自分を託すしかない。だからこそ、ヘルパーさんがいかに優子をしっかりと見てくれるかが大切」

恵子さんの言葉通り、今まさに、土屋のアテンダントが優子さんとそうした関係を築いているとのこと。

母「ヘルパーのみなさんが、『今どうしてほしいの?』とか、優子が怒ってたら、『何怒ってる?』とか、そういうやり取りをしてくれています。」

父「優子の偉いところは、全員に平等なんですよ。

だから、親だからって緊張が少なくなるとか、機嫌がいいとかは全くなく、親でも、どの人が来ても、静かな日もあれば、めちゃくちゃ緊張して寝ないで、さすったりしていることもあるんですよ。」

家族、アテンダントが皆で情報を共有し、一緒にケアをしているという優子さん宅。

「常に優子を見ているヘルパーさんはとても重要な役割だし、彼女らからの情報が最も大切」とご両親は口にします。

アテンダントは優子さんにとって、どのような存在なのか、正弘さんは次のように語ります。

父「優子にとって、話し相手であり、友達でもあり、保護者でもあり、介護する人でもあり、常に接触する人でもあり。だから単にヘルパーとかじゃないんです。

それにヘルパーさんは、私のくだらない話にも一応乗ってくれたりもするので、私の精神安定にもなっていますね(笑)。俺も優子と一緒で話し相手がいないんで、ヘルパーさんは話し相手でもあり、友達でもあり、介護する人でもあり、保護者でもある(笑)」

優子さんを今、一番長く、間近で見続けているアテンダント。

そうした中で、『土屋のアテンダントは完ぺきだ』と嬉しいお言葉を頂いています。

父「基本的に、優子は不規則で、決まった時間に介助できるわけでもないんですね。急に緊張したり、寝てたり、寝てても力が入ったり、その時によって何を要求してるかを汲み取らなきゃいけない。機械的な感じでは無理なので。

例えばおしっこしたとか痰を取って欲しいとか、あるいは『ずっと座ってて嫌になったのかな?』とか、その時の雰囲気で色々考えて介助するのが一番大事だと思うんですよね。

その点では日中の人も夜の人も完璧かなと。そうしてくれるのも、多分優子を好ましく思うとか、好きだとか、そういう感じじゃないかなと思うんだけど。」

アテンダントから見る優子さん

ホームケア土屋札幌のアイドル的存在だという優子さん。アテンダントは皆さん、支援に行くのをすごく楽しみにしていて、「優子さん、かわいい!」と大人気だそうです。

日中の支援に入られているアテンダントの川村さんにお話を伺いました。

ケアはどういった感じですか?

様子を見ていると、意思表示をしてくれたりするんです。『口の唾液取るよ』と言うと、取りやすいように顔向けてくれたり。

『どこ溜まってるかな?』って聞いたら、溜まってそうなとこを向いてくれたり。

『この辺かなあ?』って言うと、うん!みたいな感じで、まばたきで表示してくれたりもするので、そういう細かいところを見ながらケアさせてもらっています。

川村さんが支援で楽しいと感じるところは?

表情がころころ、くるくる変わるところがあって、それが楽しいです。

意思表示がはっきりしているので、いいときは穏やかな顔をするし、嫌な時は目も口も色々と全開で怒るし、マッスルポーズみたいにグッと力を入れて緊張したりと、すごく分かりやすい。

ゼロか百か、くらいな感じです(笑)

優子さんにお話しなどされますか?

することすること全部声に出しながらケアしているんですけど、他の利用者さんよりさらに細かく声出ししています。そうすると、しっかり聞いてる表情をするので。

日中の支援という事ですが、お散歩にはよく行きますか?

そうですね、良さそうな場所を携帯で探して、ここいいなって、ちょっと遠出してみたりとか。10~20分かけて歩いて、公園を散策したり。

『万葉集書いてあるよ、何書いてるかはよく分からないけど、いっぱい書いてあるよ』とか話しながら。

散歩していると、通りすがりに話しかけられてもらえたり、ご近所の人に『優子って言います。よろしく』って、優子さんの手を振って挨拶したりとかありますね。

そうすると、『優子ちゃん、またね。元気でね』って声かけてもらえます。結構、顔が知れてきています(笑)

アテンダントの方からみた優子さんの魅力は?

表情がくるくる変わって面白い所と、自分をしっかり表現してくれる、ちゃんと伝えてくれるので、そこはすごくありがたいなと思っています。

やっぱり、痛いのに痛いって言ってくれなかったり、辛くても辛いと言ってくれなかったりするとケアが難しいので、優子さんはとても支援しやすいです。

気持ちが分かるまではちょっと難しいけど、こういう表情するときはこうなんだって分かれば後は大丈夫。

アテンダントの言葉にとても満足げな表情を浮かべる優子さん。

続いて、澤田さんからご両親へのご質問です。

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澤田
今こうして、優子さん中心で在宅生活ができている中で、ご両親も少しずつ時間や気持ちの余裕もできて生活が変わったのかなと思いますが、これから優子さんと一緒にやりたいことなどありますか? 
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お父様
月に1、2回、みんなで計画を立てて、外で何かしたいという感じはありますね。以前、二人介護が付いた時は結構出かけたり、スイカ割り大会をしたりしてたんですよ。小樽旅行の計画も立てていたんですが、コロナで流れてしまってね。

ヘルパーさんを慰労する会もしたいですね。障害者の人主催で、障害者のためにする集いは結構あるけど、それをヘルパーさんのためにやるみたいなね。会場を借りて、ヘルパーさんが得意な楽器とかで音楽会をしたり。

「ヘルパーさんってこんなすごいんだよ」という集いをやりたいですね。
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澤田
素敵ですね!地域も巻き込んで、土屋でもそういうことができる体制を作っていきたいですね。
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お父様
やりましょう!そうしたら、ここに住んでる人たちとの付き合いもできそうな気がする。一度挨拶したくらいで、なかなか交流できてないから。

ヘルパーさんもいっぱい入ってるみたいだから、ヘルパーさんも一緒になんかやれたらいいな。
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お母様
ここに引っ越ししてきてすぐの時に、近所に挨拶に回ったんですけど、寝たきりの方もいらっしゃるので、お顔もなかなか拝見できなくて。

そちらのヘルパーさんに、『今度こっちから遊びに行きますね』と言って、そのままになってるんですよね。そういうことが多いので、いろんな人と交流が持てたらいいなと思っています。

せっかく一緒のところに住んでるのに知り合いになれないのは惜しいです。
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三浦
土屋の事業所が札幌市豊平区にあるんですが、以前から豊平区の自治体と距離を縮めて、夏祭りを開催できないかなと考えてはいたんですよ。

施設だったら可能だと思うんですけど、こういう訪問事業がそういう事をやるのはなかなか難しいところもあるので、自治体の担当者ともお話しして、大規模じゃなくても、まず何かできないかなというのを模索していきたいと思っています。
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お父様
まずは優子祭りで(笑)
交流会の企画話に花が咲いた優子さん宅。続いて、三浦さんからご両親へのご質問です。

交流会の企画話に花が咲いた優子さん宅。

続いて、三浦さんからご両親へのご質問です。

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三浦
ずばり今幸せですか。
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お父様
幸せだと思う。目途が立ったというとおかしいけど、もう安心だね。自分がいなくなっても全然いけるなと。とにかく、人さえ見つかれば埋まるのが分かったんで。

こんなに早く埋まるとは思ってなかったから、一応三浦さんには3年間頑張ると言ったけど、全然頑張んなくてもよかった。

だから今考えてるのは、ここ3年の間に、お金の管理とか自分のしていることを全部他に任す手はずを整えて、自分は全く外部の人みたいな感じにしたいですね。
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お母様
私はやっぱり優子の体調が一番気になるから、ここに移ってきてからずっと落ち着いてるというのが、私にはすごく安心ですね。良かったなと思ってるので。このまま優子をきちっと観察してもらいながら、一緒に優子と暮らしていってほしいです。

先日、障害のある人たちが働いているレストランに行ってきたんですが、そこで知り合いに会ったんです。

優子が初めて親元から離れて暮らす出だしのところで優子を見てくれた人で、その人と障害のある方たちが「今度優子さんとこに遊びに行っていい?」って言ってくれたんですね。「もちろんいいよ!」と。

たくさんの友達が遊びに来てくれれば優子も嬉しいと思うので、それができる場所で今こうやって生活できてるのは、とってもありがたいですね。

編集後記

普段生活していて、言葉のやり取り、まるで契約をお互いするような、そんなコミュニケーションだけで、一日が終わることもあります。

優子さんの言葉を超えた世界に一歩踏み入れると、言葉がないことが、これほど雄弁に事実を「語る」のかということを体験できます。

わからない言葉を話す外国に行ったとき、動物や植物などの自然に身を任せたとき、そんな体験が皆さんにもあるのではないでしょうか。

言葉を発しない優子さんのような方たちは、私たちのような現代的な価値観にとらえられた言語的人間と、非言語のつかさどる自然と私たちとを繋ぎなおす、「架け橋」あるいは「解放者」の役目を担ってくださっているのではないか。とさえ思うのです。


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