ステップアップ講座『明日は何曜日?』 破
わたしの
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【 ステップアップ講座『明日は何曜日?』 序 / わたしの | 重度訪問介護のホームケア土屋 】
〜認知の揺れ〜知的障害者支援〜
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さて、話を戻しましょう。
数字や文字を使った人類の偉大な発明品「カレンダー」はどうでしょうか?
格子状に区切られた枠の中に並ぶ数字が、「今日」をあらわすこと、または「過去」や「未来」をあらわしていることに気づけるのは一体何歳くらいになってからでしょうか。
曜日の概念もまだなく、数字や文字を読めない3歳はカレンダーの意味が分かりません。
もし、今日が何曜日か分からなかったらどうしますか?
明日が何曜日か分からなかったら?
これは、とても不安定な世界です。
多分、子どもがいる世界はそんな世界です。
その世界は「快・不快」の世界です。そして水のきらめきや土や泥のべとべとした感触などを味わう「感覚」の世界です。
はじめはみんなそこからやってくるのです。
数字や文字の存在に気づきはじめ、「快・不快」「感覚」の世界から徐々に「概念」の世界へと歩み出そうとしている3歳児くらいが、もっとも不安定さにおびえ、ときには癇癪を起し、未知の世界の前で足踏みするのではないでしょうか。
明日が何曜日か分からない世界で、頼りになるのは周囲にいる大人でしょう。
明日が何曜日か分からないが、まわりの大人が変わらずにここにいて、変わらずに接してくれているということがよりどころになり「大丈夫だ!」と安心していられるのです。
◇
私たちが「安心」とも気づかないくらいに「安心」して過ごせているのは、曜日などの「概念」があるからです。
また時間や今日、明日、一年後などの暦の概念を理解しているからなんです。
そもそも「暦」なんて誰かが決めたもので、みんなで守っていきましょうという社会的な「お約束」みたいなものです。
「不安定」や「混乱」を起こさないように、一日は24時間ということにしましょう、とか、七日間を一週間ということにしましょうとか…みんなその「お約束」を「了解している」だけにすぎません。
縄文時代には「暦」はありません。
私たちは「暦」の概念にしがみつくことで安定しているのです。
地図などで「自分はどこにいるのか」という空間の中での自分の位置を把握するのと同時に、「自分はいつにいるのか」という時間の中での自分の位置を「暦」の概念を使って把握することで、時空の「座標」を手に入れ自分の安定をはかっているのです。
しつこいようですが、明日が何曜日か分からない世界を想像してみてください。
何時なのか?何月なのか?何年なのか?自分が何歳なのか分からない世界はどうでしょうか?
先日キャンプに行ったのですが、スマホも時計も持ちたくなかったので身から離してしまっていたのです。
テントで娘と二人で眠っていると寒くて目が覚めました。
寝袋もマットもなく、あるのは毛布三枚だけ。
一枚を地面に敷いて、残りはそれぞれが掛布団代わりにして寝たのですが、寒くて寒くて。雨が降ってきました。
途中から雨が「ぱさっ」という音に変わりました。
「ぱさっ、ぱさっ」とどんどん激しくなって、やっとそれが雪の音だと気づきました。
外は雪。震えながら、毛布に包まって娘とぴったり体を寄せ合って、早く朝がくることを祈りました。
そのときが何時なのか分かりません。あとどのくらいしたら明るくなるのか見当もつきませんでした。
途方に暮れるとはまさにあのことです。
(まあ、これはこれで悪くない体験ですが・・・)
また別のお話ですが、私は時々、朝起きるとどこにいるのか分からないときがあります。
みなさんはそんな経験ありませんか?
親戚の家に泊まってとか、旅行先のホテルに泊まってとかではなくて、自分の家のいつもの朝、いつもの部屋にもかかわらず、ここがどこにいるのか分からなくなります。
自分が何歳なのか分からなくて、結婚しているのか、子どもがいるのかも分からなくて、若いのか老いてるのかも分からず、つまり自分が誰なのかも分からず、しばらく考えて、何かヒントはないか探すのです。
もしかして「認知の揺れ」とはこんな感じなのかなと思います。
この「どこ?・いつ?・だれ?」の感覚がしばらく続くような世界なのかな、と。
認知症と医者に診断された晩年の祖母が、ある日家族と喧嘩して癇癪を起し、「もう寝る!」と言って大きな音をたてて扉を閉めた後、部屋の中から「あれまだ15時(サンジ)?」と声が聞こえてきたことがありました。
雨戸をしめ切っていたわけではありません。
窓から差し込む暮れなずみの空の光など一切お構いなしで、夜だと祖母は認識して寝るために部屋に入ってみたけれど、時計をみたらまだ15時だった。当時はその行動が不思議でした。
先ほども書きましたが、我々は誰しもがはじめは「快・不快」「感覚」の世界にいて、そこから「概念」の世界にやってきました。
だからいつかはやがて「概念」の世界から「快・不快」「感覚」の世界へ帰っていくのかもしれませんね。
しがみついていた「概念」をふっと手放して、ふるさとに帰っていくのです。
でも、「概念」の世界の手前でとどまっていた3歳児が恐れ、混乱し、癇癪を起していたように、もしかしたらふるさとに帰る手前(混ざりあっている状態)にいるときは、子どもと同じように恐れ、混乱し、癇癪を起すのかもしれない。
(それほど、怖いものなのかな。それほど、自分がふがいなく感じちゃうのかな。)
どうなんだろうね?
そんなとき、親が子どもを頼りにしながらその世界を生き抜いていったように、周囲にいる誰かに頼り、安心を求めたくなるのではないでしょうか。
変わらぬ安定感で誰かが周りにいてくれて、その人に「大丈夫だよ」って言ってほしいかもしれません。
それがあればどんなに老いても、病んでも、生きていけます。
そのときに誰かとあたたかいつながりがあれば。
つづく