パパはつらいよ~子育て日記~【後編】 / わたしの

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パパはつらいよ~子育て日記~【後編】
わたしの

〈これまでのあらすじ〉

2021年9月、3歳半になる娘の大荒れがはじまった。

その原因をあれかな、これかなと探りながら、私は一番初めの緊急事態宣言のときにも娘が大荒れしたことを思い出していた。

あのとき娘から「関係のあり方を見直してくれ」と訴えられているような気がして、それ以降、ひとりの主体として娘と接するようにしたのであった。

・・・

■ 後編はこちら
⇒【 パパはつらいよ~子育て日記~【前編】 / わたしの

だから、今回の大荒れも娘はきっと「見直してくれ」と訴えているに違いないと思えたのである。

それはなんとなく分かっていた。

保育園に入って3ヶ月、家とは違う社会の中に飛び出した娘が「関係のあり方」や「まなざし」の変化を求めていることは分かっていた。

そこでさらに娘の主体性を尊重するようにしたのだが、なぜかそれが火に油を注ぐかのように大荒れを助長する。

例えば、朝、あたたかいココアを娘のために用意したのだが「自分で作りたかったー」とぐずりはじめ、マグカップを持ってシンクに向かい、口もつけずに流して捨ててしまった。

こちらを窺いながら「流しちゃうもんねー」とでも言わんばかりの表情でマグカップを傾ける。

内心イラっとするが、冷静さを保ちつつ「ごめんね、自分で作りたかったんだね」と一応受け止めたけれど、娘の気持ちはおさまらない。

それならばと思い、主体性を尊重してもう一度ココアの粉とマグカップを用意して「やってごらん」と言っても、それが面白くないようで、今度は「できないよー」と怒りはじめるのだった。

もっと尊重すればいいのかと思って、好きにさせると逆に怒りはじめる。

求めているものが、前回のように単純な「主体性の尊重」ではないように感じるのだが、ではそれが一体何なのかが分からない。

どのような関係のあり方を求めているのか、どんなまなざしを求めているのか。

娘がどうしてほしいのかが分からなかったのである。

ある日、保育園に娘を送り届けるとその日の受け入れ担当は担任の先生だった。

早い時間の受け入れは保育士がローテーションで行っているので、担任がいるとは限らない。

私は娘を室内に見送ったあと、その先生に最近の大荒れの様子を漏らした。

仕事の時間が迫っていたので、そんなに長くは話していない。

ものの5分くらいだったと思う。

そこでどんな話をしたのか、実はよく覚えていない。

ところが先生と別れて仕事場への道を自転車ではしりながら、あるひらめきが舞い降りたのである。

「私にもっと教えて!」

もしかしたら娘が言いたいことはこういうことなのかもしれない、と思えた。

逆だ。今は、逆だ。主体性を尊重するだけではない。

例えば「いいこと」と「わるいこと」を教えてほしい。

どんなことが周りの人にとっては「悲しいこと」で、どんなことが「嬉しいこと」なのか。

この社会の(なんとなくあることが分かってきた)ルールを教えてほしい。

ようするに「生き方」を教えてほしい、と娘は訴えているような気がしたのである。

なんでもいいよ、ではなく、今は教えてもらうことを求めている。

それが娘の行動を止めることや、一時は否定することになるかもしれないけれど、それでも伝えるべきときなのだ。

娘は知りたいと思っている。

自分の行動が合っているのか、間違っているのか。

それを受け入れられるだけの力が備わり、今は開いている。

だから、伝えなきゃ。

先のココアの例にも示したように、尊重すればするほど怒りはじめたのは娘自身もやってはいけないことだと分かりながら、それでもパパが何も言ってこない、そればかりかもっと作ってごらんと新しいココアを差し出してきたときの納得のいかなさ、不満足感があったのではないだろうか。

ちゃんと言ってよ!教えてよ!

こちらにも「伝えよう」という気持ちがなかったし、そのまなざしが欠けていた。

自転車に乗りながら思いついたその考えは、職場に着く頃には確証に変わっていた。

多分そうだな。きっとそうだな。間違いない。

娘の求めているものが分かった。そんな手ごたえがあった。

「見直してよ!」の内容が分かった。

3歳半になった娘は、成長していろいろなことが分かるようになってきた分、分からないことも多くなってきた。

世の中に法則や仕組みがあることには少しずつ気づいてきたけれど、それがまだ全然よくつかめない。

数字や文字の存在も知った。

だけど今は、書きたい読みたいという意欲が燃え滾っているだけで、まだまだ分からないことだらけなのだ。

だからこそ、一番近くにいる私にいろんなことを教えてもらいたいと願っている。

そのような関係のあり方を、今の娘は求めているのだと思った。

それから娘と関わるときは「教えること」や「伝えること」を意識した。

これがやっぱりそうだったんだと思えるほど、娘が落ち着きはじめた。

最初はぶつかり合いにもなった。

ところが、次第に娘の口から「これはいいこと?」「お利巧?」という確認の言葉が出るようになったのである。

そして娘のよい行動に対して私が「ありがとう!」と言うと、はにかんだ笑顔を浮かべて誇らしげなのだった。

娘の怒りは減り、叫んで大荒れすることはなくなった。

穏やかになっていく娘を見ながら、子育てって難しいなと思った。

こちらから何かを与えていくというよりは、本人の力が備わり、変化していこうとするその様子に適切に沿っていく、やりとりしていくことが大事なのだと思った。

分かったけれど、それがなかなか難しい。
難しいけれど、楽しい。

娘が堂々とした様子で前を歩いている。

根っこを太く、丈夫に、そう願って育ててきた。

また大荒れするときはくるだろう。

そのときはきっと「パパの都合のいいルール教えないで!」って言うかもしれない。

「パパの考えている社会のルールってやつを見直して!」と。

そしてまたいつか「もっと私の知らない社会のことを教えて」「私の行動が合ってるのか教えて」って言うときもくるだろう。

その繰り返しのような気もしてきた。

やれやれ、パパはつらいよ。

つらいけど、今はそのつらさもたっぷりと味わうことにしよう(笑)。

おわり

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