「エンパワメントとデイリーライフ」~1
片岡亮太
「歯磨き粉をうまく歯ブラシにつけられなくなったんです…」
本格的な冬の到来を告げる冷たい雨が降っていた昨年末のある夜、居酒屋の向かいの席に座るKさんは僕にそう打ち明けてくださいました。
Kさんは僕より10歳以上年上の男性。
ごく「普通に」働き、生活していたところ、進行性の目の病により、ここ数年の間に急激に視力が下がってしまい、現在はほぼ全盲に近い状態とのこと。
Kさんと親しくしている恩師が、視覚障害についていろいろアドバイスが欲しいからと僕をお誘いくださり、セッティングしていただいたこの日の会食。
軽くアルコールを飲みながらお料理を楽しみ、お互いの自己紹介などを一通り済ませた後で語られたのが、冒頭の一言でした。
Kさんいわく、ちゃんとブラシに乗せられなかったり、出しすぎてしまうのだとか。
皆さんも日々の歯磨きを思い浮かべながら考えてみてください。
きっと多くの人が踏むのはこんな手順。
- ブラシが上を向くように歯ブラシの柄を握る。
- 歯磨き粉のチューブの先をブラシに近づける。
- チューブに圧力をかける。
- 適量のペーストをブラシに乗せる。
この工程を真っ暗な場所でやってくださいと言われたら、皆さんだったらどうしますか?
あてずっぽうでやってみる人、あきらめて液体状のマウスウォッシュや、ウェットティッシュのような歯磨きシートの利用を考える人など、いろいろな答えがあるでしょう。
では、視力を使って生活をしていない、全盲の僕の場合はどうか。
答えはこう。
- 歯ブラシの柄の先に近い方を握る。
- 人差し指と中指、親指でブラシ部分をそっとつまむ。
(その際、指先がブラシの先端よりも少しはみ出すようにする) - 歯磨き粉のチューブの先を2の指先に近づけ、チューブに圧をかける。
- ペーストが指先に触れる感覚を利用して、自分の好みの量がブラシに乗っていることを確認する。
- 流水で指先を流してから歯磨きスタート!
* ちなみに、口の中が泡で満たされることを好む僕は、ペーストを多めに出す傾向があるので、結婚当初、妻に「出しすぎ!」とよく言われたものですが、今でも、口内が満足し、なおかつ妻に叱られないぎりぎりの量を攻めています(苦笑)。
もちろんこれは僕個人のやり方なので、唯一の「正解」というわけではありません。
でもKさんは、僕の答えに、「なるほどっ!そうすればよかったんだ!」と大変感動してくださいました。
何十年も目を使って行っていた作業を、急に「触る」スタイルに切り替える苦労の大きさは、子供の頃に視力を失っている僕には想像もできません。
口の中に入れるものに素手で触ることは好ましくない、一般にそういう衛生観念が根付いている人は多い。
まずはそこを飛び越えなければ、「触る」という発想には至れないはず。
加えて、日頃目にする情報の影響もあります。
僕が子供の頃見ていた歯磨き粉のCMはたいてい、宙に浮かぶ歯ブラシに、どこからともなく歯磨き粉のチューブが飛んできて、鮮やかな色のペーストを綺麗な形で塗って飛び去る、そんな内容。
少なくとも、指先で歯磨き粉に触れるようなものはありませんでした。
きっと今も似たようなビジュアルなのではないでしょうか。
「目が見える」ことが当たり前とされる世の中で、無意識のうちに僕たちが身に着けてきた社会通念が、後天的に生じた障害への順応を遅らせてしまう面もあるのではないか、僕はそう考えています。
つまり、触覚を用いて歯磨き粉を乗せる行為とは、常識の上書きや、ある種の価値観の変更を経て初めてたどり着ける場所、そう言っても過言ではないのかもしれません。
あまり感情を外に出さずにお話される印象だったのに、触って歯磨き粉を付ける、たったそれだけのことに対して、興奮した声色で、しきりに「そうか、そうか」と言ってくださっていたKさん。
その理由は、単に僕のやり方に納得をされたというだけでなく、考えてみれば当然なのに、最も簡単な「触る」という手段を思いつかなかったことへの驚きも含んでいたのでしょう。
実は、この話題を切り出した際のKさんの話し方からは、それまで当たり前だった「歯磨き」さえも、スムーズに行えなくなったことへの悔しさやいらだち、みじめさなど、様々な感情がにじみ出ているようだと僕は感じていました。
寂しさと恥ずかしさが入り混じった声で、「お酒の力」を借り、胸の内に秘めていたものを思い切って吐き出した、そんな様子でした。
ステレオタイプな考え方かもしれませんが、一般に、中高年の男性とは弱音を吐くことが苦手なもの。
Kさんもそういう気質なのかもしれません。
歯ブラシに歯磨き粉を乗せる、日常生活において、ほんの些細なことではありながらも、それがうまくできないことの痛みを、きっとずっとため込んでいたのだと思います。
そのくらいの切実さが伝わってきました。
せっかく全盲生活が30年以上であるベテランの僕に会えている機会なのに、直接聞くのはそんなことなの?と意外にお思いになる方もいらっしゃるでしょう。
でも僕には、Kさんの質問を笑い飛ばしたり、軽視することはできませんでした。
それは、こういうちょっとしたことこそが、よりリアルに「失明」のショックを痛感させるものであることを、僕自身が身を持って体験していたから。
全盲になったばかりだった約30年前、10歳だった僕もKさんと同じようなことを悩んでは、その度に打ちのめされていたものです。
弱視とはいえ、生活のほとんどを視力に依存していた僕が突如光を失うということは、日常の全てが一変することを意味していました。
それは、半世紀以上生きてきたKさんも、たった10歳だった少年時代の僕も同じ。
中途障害のようにダイナミックな出来事が人生に生じた時、仕事や学校など、実質的に重要な問題の陰でつい忘れられてしまいつつも、積もり積もって徐々にボディブローのように効いてきては、精神を蝕んでくる痛みとは、「歯磨き粉」に代表されるような、小さなこと。
それは例えるならば、親しい友人や家族と死別した際、別れの悲しみや辛さが、少しだけやわらいだ頃、「そうか、もうあの人はいないのか」と何気ないことをきっかけに思い知り、途方に暮れるような気持ちになる、そういう感覚に近いかもしれません。
僕の場合は、手探りしながら、見えていた時の記憶を頼りに歩いていた自宅で、軽く開いた扉に顔をぶつけてしまったり、家族が床に置いていたティッシュの箱や雑誌、掃除機などにつまずいてしまった時、また、毎週楽しみにしていたアニメを音で楽しんでいた際、次回新しいキャラクターが登場するのに、その姿を知ることができないと気づいた時などに、胸がつぶれるような思いをよく味わっていたものです。
そんな僕にとって、Kさんからの言葉に「懐かしいなあ、この感じ」と思いつつ、共感の気持ちを添えながらお応えできることは大きな喜び。
あの瞬間、Kさんは、僕との会話を通して、長年の全盲者の生活を垣間見、新たな気づきを得たと思います。
でも一方の僕だって、Kさんにいろいろなお話ができたことで、失明当初の痛みがある種の勲章へと昇華する幸福を味わわせてもらいました。
僕は「エンパワメント」という言葉が好きです。
励まし、そっと背中を押すことで、誰かが前に進めるようにする、そのような意味を持つエンパワメント。
お互いの心に明かりが灯ったあの時間は、Kさんだけでなく、僕もまたエンパワメントされるものでした。
障害をはじめ、同じような境遇を経験した人たちが集い、語り合うことで、情報の交換や、精神的なケアにつなげる自助グループやピアカウンセリングの存在が大切である理由も、きっとこういうところにあるのでしょう。
人生の先輩であり、視覚障害者としては後輩であるKさんとの出会いを通して、様々なことを考えた一夜でした。
◆プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。






