見えにくい中での妊娠・出産・子育て④
水島恵
子どもは兄弟がいたほうがよいと思っていたこともあり、長男に障害があるとわかってすぐに二人目を考えました。
妊娠を両家の両親に伝えたところ、喜んでもらえませんでした。
長男のときも同じだったので、ある程度の覚悟はしていました。
長男のときには「結婚して二人で生きていくのはいいけど、子育てなんて責任持てるのか?」「障害を持って生まれてくるかもしれないのに?!」と言われました。
何を言われても気持ちが変わることはありませんでしたが、自尊心を傷つけられ、親たちへの信頼は薄れていきました。
「じゃあ、あなた方は健康な子どもを産む保証や、子育ての責任感を持って私たちを産んだのか?」。
そう怒鳴りたい気持ちを抑え、労力の無駄だと思って心にしまいました。次男の妊娠時も同じでした。
私たちの生き方は、言葉ではなく行動で示すしかないと思いました。
そして1994年3月30日、次男が誕生しました。
出産時も両家の両親が集まりましたが、術後の痛みの中、実母は「ほら言わんこっちゃない。あんたが生まれたときと同じ目をしてるから見えてないわ」「子どもに申し訳ないと思わんのか?!」と言いました。
もちろん健康に生まれてきてほしかったですが、現実を受け入れ、「生まれてきてくれてありがとう! 一緒に幸せになろうね!」と歓迎するだけで充分ではないでしょうか。母の言葉に痛みを感じたと同時に、怒りと、母自身への哀れみの気持ちが湧きました。
「障害者の親を何年やってるのよ」「私と共に苦難を分かち合ってこなかったから現実を受け入れられず、強くなれなかったのよ」「私を産んでから今も、私を不憫に思っているんだ」。
そんな思いが、術後の傷の痛み以上に胸を締めつけました。
実母は「どちらかを施設にでも入れないと無理やろ」と言い、義父も「そうですなぁ」と続き、残る二人は否定もせず無言でした。そんな出来事があり、私たちは「絶対に4人で地域で生活していこう」と固く誓いました。
両家の親でなくても、私たちの思想や生き方に賛同してくれる人や組織がきっとある。
そう信じ、協力者を探すことにしました。
当時の1994年ごろは、大阪や京都などではインクルーシブ教育が受け入れられつつありましたが、地方ではまだハードルが高く、一筋縄ではいきませんでした。
入学と同様、保育園や幼稚園の入園も厳しいものでした。
岡山市でも、次男のように重複障害があり、さらに視覚に障害を持つ乳幼児が公立保育園に入園した前例はなく、時間がかかるだろうと見られていました。
それでも「まだ入園させなくても」という周囲の思いを押し切り、1995年4月、次男が満1歳を迎えた直後に入園申請をしました。
予想どおり、受け入れ拒否の結果通知が届きました。さぁ、ここからが勝負です。
私たち夫婦だけでは同じ結果になると思い、支援者を探すことにしました。
その後も地域での生活を続け、支援を得ながら成長した次男は、2000年に小学校へ入学しました。
次男は全盲で、知的障害と自閉スペクトラムをあわせ持つトリプル障害ですが、長男と同様に在住地域の通常学級への在籍を希望しました。
長男のときよりも教育委員会や学校との話し合いには時間がかかりましたが、長男での経験があったことで精神的な負担は少なく、むしろ強気で臨めました。
通学に関しても、長男でお世話になった事業所に次男の支援を引き継いでいただいたため、学校に負担をかけずにすみました。
次男のように、全盲かつ重複障害の児童が通常学級に籍を置くのは、岡山県では史上初のことでした。
ここまでの道のりは決して平坦ではありませんでしたが、地域で共に生きるという私たちの思いは、少しずつ形になっていったのです。
ここからの奮闘記は、次回へ続きます。
◆プロフィール
水島恵
水島 恵(59歳)
岡山市在住
視覚障害(先天性緑内障)
岡山県UD推進アンバサダー
指圧・あん摩・マッサージ師
着付け1級(認定)
趣味は編み物、料理(特にスイーツ)、カラオケ、旅行、和装、講演・講座巡り






