見えにくい中での妊娠・出産・子育て③
水島恵
長男の入学は1997年のことでした。通学のことや授業中の支援、参観日などでの配慮について、さまざまなことを考える必要がありました。
通学には少し不安があったため、登下校の際にヘルパー制度を利用できないか検討しました。
長男は学校と自宅の通学路を覚える力はありましたが、多動傾向があったため、安全確保が必要と判断しました。
当時は、現在のように児童の通学時に介助者がつく制度はなく、健常の保護者は仕事や家庭の事情に関係なく、登下校の責任を負うのが当然とされていました。
しかし我が家の場合、夫婦ともに視覚障害があり、両家の祖父母も県外や区外に住んでいたため、毎日の援助を受けることは困難でした。
そのため、「保育園では保護者が障害者であることを理由に入園が優先されるのに、小学生になると福祉的支援が受けられないのはおかしい」と強く要望しました。
また、「保護者がけがや病気で動けない場合、子どもは欠席しなければならないのか」とも主張しました。
通学時に支援に入ってもらえる事業所を探すのは大変でした。
特に登校は朝7時45分という早い時間の対応が必要で、受け入れ可能な事業所がなかなか見つかりませんでした。
下校についても、一年生の下校時間が早いため、人材を確保できる事業所が少なく、なかなか決まらず本当に青ざめる思いをしました。
最終的に、通学援助に入っていただけたのは2学期からで、登校と下校で別々の事業所になりました。
下校は1学期から福祉事務所のヘルパーさんにお願いすることができました。
では、登校の1学期はどうしていたかというと、4月は教頭先生が、5月からは校長先生が対応してくださいました。
教頭先生から校長先生に変わったのは、朝の業務に支障が出るためとのことでした。
校長先生のご都合で雨の日などにはバイクでの登校になることもありましたが、全校朝礼で児童たちに説明をしてくださったおかげで、いじめや悪口などは起きませんでした。
下校を支援してくださったヘルパーさんには、学校からの配布物や連絡ノートなどを家事支援の一環として確認してもらいました。担任の先生からも丁寧にご連絡をいただいていました。
月1回の参観日やPTAの行事にも、次男が卒業するまでの9年間、ほとんど欠席せずに参加しました。
要望ばかりする保護者にはなりたくなかったからです。
授業参観のときは、我が子の様子も他の子どもの様子も目で見ることはできませんでしたが、子どもたちの発言を一生懸命聞き取っていました。
ただ、保護者同士の会話が賑やかで、子どもたちの授業が聞き取りにくいこともありました。
教頭先生が各教室を巡回されていて、私の近くを通ると必ず声をかけてくださり、息子の様子を教えてくださったことがとてもありがたかったです。
長男は授業中に落ち着けず、カーテンにまとわりつくことも多々ありましたが、学年が上がるにつれて落ち着いていきました。
低学年の間は、担任の先生のほかに支援員の先生もついてくださいました。
これは保護者の要望ではなく、教育委員会の判断による配置でした。「入学が決まれば要望しなくても教育委員会が配置してくれるよ」と事前に教えてもらっていた通りでした。
どの保護者も新年度の担任の先生が気になるものですが、我が家は特に心配していました。
ありがたいことに、担任の先生や支援員の先生との関係に悩むこともなく、安心して過ごすことができました。
次男については、次回お話しします。
◆プロフィール
水島恵
水島 恵(59歳)
岡山市在住
視覚障害(先天性緑内障)
岡山県UD推進アンバサダー
指圧・あん摩・マッサージ師
着付け1級(認定)
趣味は編み物、料理(特にスイーツ)、カラオケ、旅行、和装、講演・講座巡り






