土橋(聴き手):この仕事(知的障害者支援)はつくづく「幸せ」について考える仕事だなとすごい思って、やっぱり個別支援計画作ったり、関わったりする中で、難しいことを抜きにすれば、目の前の相手に幸せになってもらいたいという思いがシンプルにあります。
だけど、関わりの中ではっきりと「これが幸せ」って、なかなかそれが分かりにくかったり、何だろう?って迷うことがたくさんあります。
きっと知的障害者支援に携わる人は多かれ少なかれこの悩みに向き合っている気がするのです。
今日はその「幸せ」について障害者支援のベテランである先輩と話していきたいと思うのですが。
よろしくお願いします。
先輩:よろしくお願いします。
今日のテーマの「幸せ」は支援に関わることとして話すの?
土橋:いや、自分のこととして話してくれて大丈夫です。直接的ではなくても大丈夫。
先輩:そう、結局地続きなものではあるんだけど、「幸せ」って自分が支援者であるということをちょっとそばに置きながら、仕事を離れながらも、でもやっぱり続いていくこととして話せることだなと思った。
私が何をしているときに幸せって感じるのかっていうことを、土橋さんとの話があったからじゃなくて、常々、割と考えるんだよね。
「幸せだなー」って思うことも、私には割とあって、自分にとっての幸せって「おいしいものを食べる」「我が家からの楠の景色を眺めているとき」いろいろあるんだけど、自分の旦那が「お母さん!」って「ちょっと来て来て!」ってテレビ観ててもなんかあってもよく呼ぶのね。そのときね、すっごい幸せだなって思うんだけど。
子どもに呼ばれるより、その瞬間がすごい「幸せだなー、幸せだなー」って思うんだけど…。
土橋:おー!その度に思うんですか?
先輩:割と思う(笑)。
最近、自分の名前を呼ばれなくなったなーって思って、私の名前を呼ぶ人ってあんまりいないんだよね。
○○さん(先輩の名前)って呼ばれることはあるけれど、○○って呼び捨てにされることがなくなったんだって思って…。
実家に帰ると父と母が自分を○○って呼んだはずなんだけれど、それも今帰郷できなくて、電話で名前を呼ばれるような会話もないしって考えたときに、私、短大時代の友達でユキってのがいるんだけど、ユキが私に○○って呼んでくれるんだよね。
メールのやりとりでも○○はって書いてあって、それがすごく、なんて言うのかな、
「この人に呼ばれると心地いい」
ってすごく思うんだよね。
で、ユキが私の名前を呼んでいるってことが、幻聴じゃないんだよ、もっと呼んでくれたらいいのになって思うことが時々あって、なんかそれもすごい優しい声なんだわ彼女。
今は彼女しか私を呼び捨てにしないから、あー早く私をそういう風に呼んでくれる人に会いたいっていうか、そういう気持ちになったりして。
で、結局それは「自分が求められている」ってことを私は心地よく感じるんだなって思う。
その「求められている」のが自分にとってはイコール「幸せ」なのかなーって思うんだけど…。
だから少し仕事に結びつけるとしたら…
やっぱり「自分が求められている」とか「必要とされている」ってみんなが感じられるような、そういう時間を一緒に過ごしたいなっては思うんだけど…。
土橋:うーん、
「自分が求められている」
「必要とされている」
そしてそれを「一緒に感じ、過ごす」ということですね。
先輩:鯨岡先生(発達心理学者)のコラムを読んだときに「あっ、これにつながってる」って思ったんだよね。
目の前のその人をわかる、その人が何を考えているのか、どんな気持ちでいるのかってことはその人に「寄り添う」ことからしかはじまらない。
本当にユキも夫が私を呼ぶときも、本当に最初のきっかけって私に寄り添って寄り添って、お互いに寄り添ってこの心地よい関係が生まれていったって、確信して思うんだよね。
土橋:うん、うん。
先輩:ユキの時には私は手に取るように彼女が私を求めていて、私も彼女を求めていたってのがわかりながら友達を続けていたんだけど、じゃあ知的障害のある方との関係はどうかというと、どんな風にお互いに手ごたえを感じながらそういう関係を作れるのか、それとも手ごたえは感じあわなくてもいつの間にかそういうことが出来上がっているのか…いつの間にかそうなっていたと思うんだよね。
そこにはお互いに信頼しあった時間があるからなのかなって思う。
土橋:呼ばれる名前というのは「関係の象徴」としてあるってことなのかな?
先輩:それもあるけれど、彼女はすごく優しい声なんだよ。
声が優しくて、あー呼ばれたいなーって思うのと同時に、まだ私をそういう風に呼んでくれる人がいる!ってすごく幸せだなって。
土橋:「極私的幸せ辞典」っていうのを作って自分にとって幸せに関連するようなことを辞典形式(と言っても全然辞典じゃないんだけど)でまとめさせてもらったんだけど、「名前を呼ばれること」というのは思いつかなかった。
先輩:あのさ、覚えてるか分からないんだけど、昔、土橋さんがね、アン・ルイスの『グッバイ・マイ・ラブ』の歌詞がおかしい、分からないって言ったことがあるの。
「忘れないわーあなたの声、優しいしぐさ、手のぬくもり。忘れないは、口づけのとき…」ってきて、最後に、「そうよーあなたのーあなたのー名前」っていう歌詞があるんだけど、なんでそんな歌詞なのかねって言ってたの。覚えてる?
土橋:あー、なんだっけ。
先輩:歌詞の最後の一番強調したいところに「あなたの名前」を持ってくるのはおかしい、物忘れがひどいのかなこの人は?って土橋さんが言ったんだけど…。
あの時本当は私、なんでそれをこの人はわからないって言うんだろうって、もちろんあなたの名前っていうのは当たり前じゃんって心で思ってたんだ。名前が大事なんだよって。
土橋:そのとき指摘してくれた?
先輩:そのとき言えなかったのか、そういう風に思わなかったのか、でもそのことをすごい頭の中に覚えていて(笑)。
土橋:ああ、すごい今思い出した(笑)。
先輩:なんでそんな歌詞にしたんですかって、私からすればそりゃするでしょって。
土橋:若かったなー、まだ。若い、青い。
今なら多分そんなこと言わないと思うけど(汗)。
どういうことですか?(やっぱりまだわかってない)
先輩:好きな人の名前を忘れないって、もしさ、すごく好きな人と付き合って最後に別れて、でも自分の思いは残っているときってやっぱり心の中でその人の名前を呼ぶよね。絶対に。
土橋:だからね、そんなの忘れないだろうなって私は思っちゃったんだけどね。
先輩:それを物忘れがひどいのかなじゃなくて(笑)。
それはやっぱり「女心」なんだね。
何度だってあなたの名前呼ぶよって思いなんだけどね。駄目だね(笑)まだまだわかってないね。
土橋:(笑)駄目だね。全然女心がわかってない。
後編につづきます。