水は媒介する~「水換えしない、循環する水槽」のハナシ~
牧之瀬雄亮
夏の祭りで、こどもが掬ってきた金魚は、私の無知と不心得で死なせてしまった。
それが私の深いところで悔しさを生じさせた。
こどもの頃、生家には同じように祭りでもらってきた金魚が、今思えば10センチ以上になって、それが何匹も入った水槽が玄関の下足入れの上に乗っており、日曜のたびに小学生へ上がる前の私が水換えなどをしていた。それで金魚が死んでしまうことなどなかった。
そんな記憶があったものだから、今回もなんの労苦もなくしばらく飼えるだろうとたかをくくっていたのだが、甘かった。
幾匹もいた金魚たちの間で喧嘩が起きたり、今思えば水換えが負担になり、一匹一匹と死に、どうにか残った一匹も、結局ふた月も持たなかった。
一応現代人のくくりにはいる私であるから、インターネットで『金魚の飼い方』なるものはざっと見て、話半分「ハイハイ、あ~、ね。」という感じで斜め読みしていたものの、正確なことはやっていなかった。幼い頃の水は井戸水である。今の水は水道水である。浄水器を通しゃ構わんだろうと思っていたが、そうでもなかった。全く、自分の慢心を他の生物の、しかも、こどもの掬ってきた金魚の命を代償に、思い知るとは思わなかった。
思えば、昔の水槽が今実家になく、ずっと私が水槽の趣味を続けていなかったのは、そういうことではないか。
私の個人史、とりわけ実家にいた18までの時期というのは、人間以外の生き物と一緒に過ごすのがごく自然だった。両祖父母は牛を飼い、家に猫は棲み着き、たぬきや猿も裏山から降りてきて、いわゆる日本昔話とさほど変わらない暮らしだったと思う。風呂も薪だったし。
郊外といえど東京に住まい、スマートフォンだのウインドウズだの、Wi-Fiなどを振り回して生きている。しかし、一時とはいえど、生き物と一緒に過ごした時間は、私を幼い頃へ、単に引き戻したような気もする。が、それだけではない。私はこれまでどうにか私の幼い日々よりも向こう側にある「自然のそばで、一体化して生きる」を実行したいと切に願っていたのだ。
実は私は、非効率なことが嫌いである。私を知る人から見れば意外なことかもしれない。
私が「効率よく」というとき、すなわちそれは「自然に即した」ということである。そうでないことは「効率が“悪”い」。
結局のところ東京に居を構え、山野も遠くはないものの、コンビニも徒歩圏内、街灯は煌々と夜を遮る街にある私は、「自然回帰は来世だな」と思っていたのだ。
ある日YouTubeをたぐっていると、こんな動画に出会った。
サムネイルには『STOP cleaning your tank』と書かれている。水草の茂った水槽をバックに、神話から抜け出してきたような老人がこちらに目線を投げかけている。おそらく多くのブラウザでは日本からのアクセスであれば、日本語の『あなたはこのクリーンアクアリウムの事実を信じることはありません:フィッシュタンクをきれいにする方法』というタイトルで表示されることと思う。
その内容というのは
・彼、Father Fishの水槽は、最長で約30年水換えをしていない(蒸発分は足し水する)。
・自然のものを少し混ぜた土を1インチ、その上に2インチの砂で蓋をする。その上に水を注ぐ。
・水草を多く植える
・魚はいきいきしていて、何代かその水槽の中で種を繋いでいる
・餌はごく少量しか与えない
・魚の住んでいる近所の川や池から葉っぱや枝を拾ってきて水槽に入れる
・水槽の中で生成されるものは全て(‼)水槽の中で循環している。
という内容だった。気になった方はYouTubeで「Father Fish Aquarium」とぜひ検索してみてほしい。アメリカの方だが、日本語字幕がついているものもあるし、最近の自動翻訳は随分マシになっているので、複雑な会話などでは時折誤訳も見られるが、概ね文脈を考慮すればわからないレベルではない。
一般的に熱帯魚や淡水魚飼育の世界で言われる、週一回の水換えや、フンの撤去、藻類の除去・抑制、水草の場合はCO2添加、水質のチェックと薬剤添加による管理/調整などなど、「飼育には手間とコストがかかる」といわれる具体的な作業の殆どが、彼の紹介する方法では「必要ない」と言うではないか。私は、これまでにない興奮を感じていた。
ものは試しと、実は9月頃からじっくり下準備をして、その頃立ち上げてすでに今2ヶ月を経過して、水換えをただの一度もしていない水槽が今、私がこの原稿を書いている机の脇に立っている。
素人考えの生兵法で、あれこれと手を入れたために匂いが発生したこともなくなはなかったが、一時的なもので、今はただ、爽やかな森のような匂いがかすかにするだけである。
庭や山など陸上で「自然が循環している」と感じるのは、季節の移ろいだとか、生活の日々より大きな時間軸によるものが多いように思われる。何年も足の遠のいていた土地に久しぶりに分け入って、昔見たときのようにそこに花が咲いていたり。地上で起こる循環は、生活の時間軸より長い時間と広い空間が必要なのだろう。
陸上で育つ植物等にあって、「作物」「収穫」などの言葉と近縁である、もしくは見える。庭木だろうと畑だろうと、循環の輪の中途に人間の価値観や社会構造を経過しなければならない。人間の社会が鎮座ましましている空間を通過する。
水槽・ひいては水の中の循環となると、水を介しているので循環は個々に即座に行われている。そして、それは人間の介入は事後的、限定的なものになる。我々が陸上生物であるということもあって、水の中は我々の土俵とは言えず、我々がなにかしようとしてもすでに、常に循環は起こっていて、たまさか人間にとっては循環に見えないとしても、種々様々な反応は常に起こり続けている。そして、循環はこちらが過剰に手を出さず、必要なことがなされていれば(熱帯魚の場合、流石に加温は必要)、そこに循環は、言ってみれば単一の輪でなく、大小の輪がいくつも多重に重なり合って各々のサイクルを闊達に回している。ある孤がある円の不足を補いもするのだろう。
人の目や、いわゆる「きれいな」水槽を維持するハウツー的知識からは一見、バランスを崩しているように見えるのかもしれないが、そこには水槽のサイズ以上の大きく深い循環が躍動している。
全く、胸の空く想いです。
もし、「自然が身の回りに足りないな」とお感じの方がいらしたら、ぜひYou TubeでFather Fishの動画をご覧になって、実際に生きた自然が循環を奏でる水槽を、こしらえてみてください。
プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ
宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。
思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。