「地震×障害×未来の減災」(後編)
片岡亮太
以前、自宅に和太鼓の練習場を持っておられる方が、「ある程度対策はしてるけど、それでも音は漏れちゃうから、ご迷惑をかけている分、頂き物のお裾分けをしたりして、ご近所づきあいで騒音対策をしているんだよ」と話しておられました。
これは、似たような環境で日々稽古をし、町内会の草刈りや防災訓練など、同世代の人はほぼ参加していない行事にも率先して出席している僕も、深く共感する考え方。
日常的に積み重ねる人間関係は、何かがあった時のトラブルからも守ってくれる。
災害についても同じことが言えるかもしれません。
2011年の東日本大震災以降、よく使われるようになった「災害弱者」という表現があります。
僕はあの言葉が好きではありません。
言葉は人の思考や意識に浸透していくので、使えば使うほど「弱者」という響きが心に入り込んでは、僕も含め、災害時に、他の多くの人以上に危険や不自由な立場に追いやられてしまう人たちのプライドや自尊心を少しずつ削っていく気がするからです。
しかしながら、全盲の僕で言えば、地震が発生して家具が倒れてきたり、物が飛んでくるなどした場合、それを自力で把握し、自らの安全を確保することが、目の見える人と比べたら明らかに困難になることはまぎれもない事実。
また、過去の震災の際にも語られていることですが、避難しようと思っても、地震によって普段の道の状態が一変してしまったら自力での移動は極めて難しく、危険なものになってしまうでしょう。
実際、阪神大震災を経験した全盲の方が、「歩き慣れているはずの道が、崩れた建物や路面の変化によって全く知らない場所になってしまい、一人で歩けず怖かった」と語っているインタビュー記事を読んだこともあります。
仮に、家族、友人、近所の人の助けを得ながら避難所にたどり着けたとしても、そこで支援物資を受け取る時や、トイレに行きたくなった時、何かで困った時など、非常事態であるがゆえに、いつもなら自力でできることにも手助けが必要になったり、十分な情報を得られないことも多いにあり得ます。
このことも、今回の北陸での震災はもちろん、過去の様々な災害が発生する度に話題に上がっているので、ご存じの方は多いことでしょう。
さらには、災害が自宅や地元にいる時、あるいは、家族や友人などと一緒にいる瞬間に都合よく起こってくれるとは限りません。
日ごろから舞台などのために、初めて訪れる場所に出向くことが多い僕で言えば、コンサートの会場や滞在先はもちろん、移動中に被災することだってあり得ます。
むしろその可能性の方が高いかもしれません。
未知の場所、ものの詳細な位置関係を把握できていない環境で被災した際、生じるであろう危険や恐怖、不安、不自由は想像を絶します。
以前、和歌山県の最南端、海が目の前にある串本町へ行った際、コンサートの主催者の方と別れ、ホテルで一人になった途端、震度4の地震が起きて、本当に怖かったことを今でもよく覚えています。
このブログ記事にアクセスされている方たちならご存じのことと思いますが、東日本大震災では、障害のある人の生存率が、障害のない人と比べて極めて低かったことが明らかになってもいます。
そういったことを思う時、「やはり自分は災害弱者なのだ」という、日ごろは心の奥底で眠らせている事実や恐怖が鎌首をもたげて、僕を飲み込み、たまらなくなります。
視力がないことを除けば、身体能力は比較的高く、体力もある僕でさえそうなのですから、障害や病気によって、自由に身体を動かすことの難しい方、独居の方、小さなお子さんがいるご家庭、共に暮らしているパートナーも障害がある等、世帯構造によって、障害と災害をめぐる不安や恐怖は、千差万別。
それぞれに様々な思いを抱いていることでしょう。
僕のような活動をしていると、障害のない人、とりわけ、それまで障害のある人と関わったことがなかったような方と出会うことがよくあります。
そういう方と後に親しくなると、「今まで気づかなかったけど、災害の時、全盲の人はすごく不安だよね」と言われることが少なくありません。
そして、中には僕の地元で何かある度に、「大丈夫ですか?」と連絡をくださるようになる方もいて、その言葉だけで心が和らぎます。
誰にとっても怖くて心細い災害時。
そういう時に、障害のある人たちをはじめ、マイノリティのことを想起したり、共に調和しながら避難生活を送られるようにすることは簡単なことではないでしょう。
でも、何事もない、いわゆる平時に、障害のある人たちの存在を知ってもらい、目を向けてもらえたり、日常はもちろん、有事の際に感じる恐怖や不自由を共有してもらう機会が増えさえすれば、きっとそういう状況だって作っていけるだろうと僕は信じています。
例えば、僕が今住んでいる町内は、4歳の頃から住み続けている場所なので、古くから住んでいる方たちを中心に、すれ違えば挨拶をし合うのが当たり前の環境。
だから、もしも自宅に一人でいるときに被災したとしても、外に出さえすれば、一緒に避難してくれる人は見つかるはずです。
また、視覚特別支援学校(盲学校)が近隣にある地域を訪れると、実に自然に声をかけてくださる方が多く、そういう場所も、困った時には助けを求められるだろう、そう信じられます。
そして在米していた時で言えば、ニューヨークの人たちは、僕が地下鉄のホームで、まだ電車が来ていないのに一歩足を踏み出しただけで(白杖(はくじょう)を使ってホームの端の位置を確認しようとしただけだったのですが)数名の手が伸び、「危ないっ!」と止められることが当たり前でした。
僕の存在が、誰の視野にも入っている、その安心感があったからこそ、いつでも自由に歩ける、そんな感覚がありました。
他方、ラッシュアワーの都心のように、誰もが気忙しく移動しているために、白杖の存在に気付いてもらえず、歩きスマホの人と点字ブロックの上で衝突した時、謝っても無言で通り過ぎられてしまったり、時には舌打ちさえ聞こえてくるような空間にいると、「ここで何かが起こっても、誰も手助けをしてくれないのではないか?」と、漠然とした不安が胸中をよぎります。
(もちろん、実際にそういう状況になったなら、多くの人が力を貸してくれるだろうとは思うのですが)
そのように考えていくと、障害のある人のことを当たり前に感じられる社会(環境)さえあれば、有事の際の安心と安全を確保しやすくなるということなのかもしれません。
もしそのような世の中になったなら、「弱さ」にばかり目が向いていたら決して気づき得ない、障害と共に生きているからこそ災害時に発揮できる「強さ」に焦点を当てることだってできるのではないか、僕はそのように考えています。
「まっくらやみのエンターテイメント」とも称されている、ダイアログ・イン・ザ・ダークは、暗闇の中を視覚障害のあるアテンドが誘導し、様々なコンテンツを体験してもらうことによって、来場者の方たちに、豊かで楽しい闇を提供し続けています。
そこまではいかずとも、全盲の人間であれば誰しも、いかに光のない状況を楽しむか、そのノウハウの蓄積を持っています。
その視点を、停電のために心細い思いをしている人たちに伝えられたなら、少しだけ、避難生活に彩が加わるかもしれません。
また、怪我などによって一時的に身体が動きづらくなっている人たちの辛さを、車椅子ユーザーの方々はきっと誰よりも深く共感し、励ますことができるでしょう。
東日本大震災の時、ある避難所では、ピアノが弾ける知的障害のあるお子さんが、毎日みんなのためにラジオ体操を演奏し、一緒に避難している人たちの健康維持をサポートしたとも聞きます。
障害のある人たちは、有事の際に、弱さだけが強調される存在ではなく、そういう状況下だからこそ活かせる強さもまた持ち合わせている。
そういうことにも目が向いていけば、変わっていくことが、たくさんあるように思います。
僕の本業は、音楽で聴いてくださる方の心を震わすこと。
その活動の中で、今回の地震を通して僕が思ったこと、感じた恐怖、そして、障害があるが故の強さなどについて伝えることによって、一人でも多くの人の視野や意識の中で、障害のある人の存在が見えやすくなったり、障害を見つめる視点を変えられたなら、それは結果として、将来的な減災にも繋がりえるのかもしれない。
改めて、表現者であり、障害のあるものとして、何を発信していくか、考えさせられた2024年の年の始まりでした。
執筆現在、まだまだ厳しい状況が続いていますが、この状況が少し落ち着いた時、僕が奏でる音楽が、被災された方の心を少しでも温かくするために役立つのだとしたら、演奏家としてできることを務めさせていただきたいと思っています。
一日も早く、そのようなことが叶う日が来ますように。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。