『妖怪のはなし』
わたしの
夏になると川での事故のニュースを耳にします。
警視庁の調べによると中学生以下の子どもが死亡・行方不明となった水難事故の割合は海よりも川の方が3倍以上多いというのです。それはなぜなのかというと、海の水が塩分を含み浮力が発生しやすいのに比べて、川の水は浮力が小さく溺れやすいのがひとつの要因なのだそうです。
それだけではなく、川石に付着した藻で滑りやすかったり、川底には流木や岩、川面からは判断できないような深みなどがあり、歩いて渡るのにも注意が必要になってきます。崇徳院の和歌の「瀬をはやみ」という語感は印象的ですが、私自身も川の瀬の流れの速さに何度か足を掬われそうになった経験がありますし、逆に淵は流れが穏やかですが、瀬からの急激な水深の変化には気を付けなければいけません。
私が子どもの頃遊んだ川の淵は濃い緑色をしていました。汚れた河川ではなかったのですが、その水深の深さゆえの底の見えない緑色は、西行法師の「なにごとのおはしますかは知らねども」の歌のように、なにものかが棲んでいるのではないかと想像してしまう神秘的でどこかおそろしいものがありました。
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河童淵。
代表的なのは岩手県遠野市ですが、全国に河童が棲んでいるとされる川がたくさんあります。河童とは何かというと、川や池に棲み、泳いでいる人の足を掴んで水中に引きずり込み、溺れさせる妖怪です。全身緑色でくちばしがあり、頭のお皿がトレードマークなのはみなさんご周知のとおりだと思います。魚ときゅうりが大好物で、人間をからかったり相撲をしたりするのが好きな一面もあります。
「あの川には河童がいるから近づいちゃいけんよ」ある地域では昔から大人が子どもにそう教えてきました。
川は危険だから遊んじゃいけません、ではなく、「河童がいるから」と伝えるのです。
「あの淵にはな、河童が棲んでいて遊んでいた子どもを引っ張り込んじまって、帰ってこんかったちゅうよ」
昔も当然川は危険な場所で、子どもが死亡する事故は起こっていたでしょう。その川の危険性を伝える手段として、まだものの分別がつかない子どもに対して理屈ではなくて河童という妖怪の存在を示し、だから近づいちゃいけないんだと分からせる…それは一見子どもだましであるような前時代的なものと捉えられてしまうかもしれないですが、よく考えると極めて合理的なやり方だと思いませんか?
なぜなら重要なのは真実かどうかを伝えることではなく、子どもを川の危険から守ることなのですから。子どもたちが一番わかりやすい方法を選び取って然るべきです。
科学が進歩し、すべてがスマートフォンひとつで「わかった気になれる」現代においては、妖怪や伝説、伝承、神話は未開の野蛮な発想・嘘・まやかしと言われ、時代の隅に追いやられてしまいます。データや根拠を示すことが求められる時代ですからなおのことです。
しかしながら、私は子育てをする中で子どもにものごとを分からせる際に理路整然とした言葉や目で見える数値やデータだけでは伝えきれないことを痛感してきました。
そんなときに「私(大人)」と「子ども」の「間」に妖怪はふっとあらわれるのです。
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例えば、あかなめという妖怪はどこかからやってきて風呂桶の垢を舐めるという妖怪です。お風呂をちゃんときれいに洗って清潔に保たなければならないということを教えるために、汚したままにしておくとあかなめがやってくるぞ、と脅かしたのかもしれません。
しかし、あかなめが来るというニュアンスには「清潔に保て」というルールを押し付ける(命令する)だけではなく、汚れていてもあかなめが来て垢を舐めてくれるから大丈夫だというそこはかとない安心感や、おかしみが込められています。(お風呂の垢を舐めるのが好きなんて変な妖怪です。ちなみに天井なめという妖怪もいるそうです)。妖怪は子どもたちにとってちょっと怖いけど、怖いだけではなく親しみやすい存在です。
がんばり入道という妖怪がいるのですが、大みそかの夜に厠(トイレ)に出現する妖怪です。これはどういう妖怪なのでしょうか?大みそかの夜…子どもにとって特別な楽しい夜(?)に厠に出る妖怪…楽しい夜だけど羽目を外しすぎず早めに寝なさいという戒めでしょうか?
がんばり入道は出会ってしまったら「がんばり入道ホトトギス」と唱えるとどこかに消えてしまうそうです。ちゃんと対処法も添えられているところに救いがあります。
化け猫という妖怪は家に棲みついた猫が何年も長生きすると変化するという妖怪です。同じところにずーっと長く居続ける物や人はなんでも妖怪になってしまうのかもしれません。
例えば職場に古くから働いている仙人みたいな人がいたら、その人は既に化け猫のような妖怪かもしれません(笑)。大事にしないと。
古くなった草履を粗末に扱うと化け草履に、かさを粗末に扱うとかさ化けという妖怪になるとも言われています。これも物を大事にしなさいというメッセージでしょうか。
とはいえ、全ての妖怪に何か教訓があるとしてしまうと、妖怪の存在は小さくつまらないものになってしまうでしょう。妖怪は単なる教育的なメッセージにとどまるものでは決してありません。
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はじめはキラキラ、ベトベト、フカフカなどの快・不快の感覚の世界を生きている子どもたちが、徐々に発達の中で概念的なものに気づき、それを獲得していきます。言葉や数字(日にちや時間)、曜日などの概念を手に入れることで徐々に感覚的なものに左右されにくくなり、概念にしがみつく形で世界の中に安定してとどまることができるようになります。ところが概念は一朝一夕で手にするものではありません。子どもには感覚から概念を知っていく発達の過程で、理屈ではないものの力を頼りにして世界を理解しようとする時期があります。そのとき妖怪は一番人間に近づき、親密になり、親と子どもを助けてくれる存在になります。妖怪の存在を使って世界と向き合おうとするのです。
妖怪は「大人」と「子ども」の「間」。「感覚」と「概念」の「間」など、「間」にあらわれますのでご注意を。