『祭を模倣する、神楽を再現する2』 / わたしの

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『祭を模倣する、神楽を再現する2』
わたしの

前回『祭を模倣する、神楽を再現する』からのつづきです。

晴れ渡った空の下、公園の原っぱでのLIVEがはじまりました。3曲を終えていよいよ『名前のない幽霊たちのブルース』を演奏するときがやって来ました。お客さんの集まりも悪くありません。にぎやかで、雰囲気も最高。

私は黒い大きなスーツケースにマラカス、ベル、ウクレレ、木琴、タンバリンなどの楽器をぎっしり詰めて持ってきていましたので、曲が始まる前にそれを集まっていた子どもたちの目の前で開きました。するとみんなは気付くやいなや飛び付いて、夢中になって自分がやりたい楽器を探しています。その音を聞いて遠くで遊んでいた子たちも駆け寄ってきて、その場は様々な音色と笑顔で溢れかえっていました。いい感じ。下準備はできました。やってやろうじゃありませんか。

ボーカルのアイコンタクトで曲が始まりました。リズムに合わせてみんなで楽器を鳴らします。だんだんと息が合い、場がシンクロしていきます。

やつらは戻らない(so you know?)

帰ってくる気もないだろう

名前のない幽霊たちのブルース

やつらはお腹すかない(知ってんの?)

だけどおやつは別腹さ

名前のない幽霊たちのブルース

いよいよ『あの世とこの世のコール&レスポンス』が始まりました。

子どもたち「お菓子がほしい」

わたしの「お菓子はあげない」

子どもたち「お菓子がほしい!」

わたしの「お菓子はあげない」

子どもたち「お菓子がほしい!!!」楽器を夢中で鳴らしながら叫びます。

わたしの「お菓子はあげない」と押し返します。

一緒に楽器を鳴らす熱で場の空気は盛り上がり、熱くなっていました。シンクロ率3700%の溶解寸前。いつ名前のない幽霊たちが迷い混んできてもおかしくないような空間になっていました。盆踊りのような、沖縄のカチャーシーのような、バリのケチャのような異様なムードです。もののけも魔も鬼も怪も怨霊もなんでもあり、聖も俗も清濁も天国も地獄もここにあるような魑魅魍魎キョーセイ社会、共存状態、カオスの到来があつく匂い立ちはじめました。

さあ、いまこそ名前のない幽霊たちがあらわれて大暴れするぞ、という時。あの世とこの世のコール&レスポンスで場のボルテージは最高潮。いよいよ、お菓子撒きの時です。

私たちはあらかじめお菓子を撒く役を2名決めておいてボーカルの「お菓子をあげる!!!」の合図で一斉に撒き始める予定でした。

子どもたち「お菓子がほしい!!!!!!」

わたしの「みんなー、すごいなー。よーしそれならお菓子をあげる!!!!!」

今です!お菓子を撒く役2名が前に出ました。かごの中のお菓子を鷲掴みにして、さて投げて撒こうかという時、二人が顔を見合わせています。お菓子撒きがはじまりません。その表情は困ったような顔です。

私はカホンを打ちながら「どうして撒かないんだ?」と焦っていました。やがて二人は助けを求めるような顔で私のことを見ました。私は不思議に思いながらもカホンを叩きリズムをキープし続けていました。

すると二人は撒くのではなく、かごからお菓子を取って一つ一つ子どもたちに手渡ししはじめたのです。「それでは神楽感がまったくなくなってしまう」と危機を感じた私はカホンの演奏を一時やめて二人に歩み寄り、耳元で聞きました。

「どうしたんだ?」

「駄目です」

「何が駄目なんだ?手渡しするんじゃなくて、撒くんだよ。撒くの。」

「撒けないんです」

「えっ?」

「撒けないんです。投げられないんです。やってみてください。」

私は何を言っているのか分からないと思いながらお菓子を鷲掴みにして見本を見せるようなつもりでいざ投げようとしてそこではっとしました。

「投げられない…」

そう、投げられないのです。原っぱのフラットな状態で撒こうとすると、真横に投げる形になります。するともちろん子どもたちにお菓子を投げつけてしまうことになります。それを防ぐために上に投げると目で追えず地面に落下していきます。思い思いに楽器を鳴らしている子どもたちの注意をお菓子だけに向けさせることは至難の技でした。この撒き方だと何よりも興がまったく乗らないのです。神楽や棟上げ式で体験したものと全然違うのです。イメージしていたものと違う!という状態でした。

どうしてこうなるのか、答えは単純です。「高さがない」のです。神楽や棟上げ式は高いところから下に向けて撒きます。一度注意を集めて下の人が待っているところに向かって撒くので、それを目で追いかけて動いてキャッチしようとするのです。

しかし、今回の会場のような公園の野原でフラットな状態ですと、投げる人とキャッチする人が並列です。高低差がないと、とても投げにくい。舞台がないと神楽的な演出が効果的に作用しないのです。

本番になっていざ投げようとしたときにやっと身をもって分かったのでした。どうしてそれがあらかじめ考えつかないのかなーと私は自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしました。お菓子を取る側は子どもの頃さんざん体験しました。実際投げる側に回ってはじめて気付くことってあるんですね(やれやれ)。

何事もやってみなきゃわからない。

それにしても「高さ」がない…演者と観客の間に高低差がない…「高さ」って、ひとつの隔たりです。バリアです。例えば神楽や能が舞台を必要とするように、それは「高さ」でもいい、「距離」でもいい、何かしらの隔たりが必要なのかもしれません。能の舞台の構造にはあの世とこの世の隔たりとつながりが組み込まれています。隔たり、境界線があるからこそ、それを越えるという概念が生まれる。隔たりがあるからつながろうとする。つながることができる。つながろう、越えようとするエネルギーが人を魅了させるのではないか。

『名前のない幽霊たちのブルース』の演奏を通して私はそんなことを考えました。失敗から学んでいますが、失敗の多いこと。

そのイベントでは結果的に「はい、お菓子だよ」と一つ一つお菓子を子どもに配って回りました。いつのまにか場の熱は覚めて、日常的な光景がそこにはありました。

しかしながらLIVEは盛況のうちに終わりました。みんなで楽器を鳴らしたのが楽しかったようで子どもたちは喜んでくれたそうです。なかなか楽器が手放せない子や、学校で吹奏楽をやっているがどうしたら楽器がうまくなるか相談にきてくれた子もいました。

我々はそのあと馴染のお好み焼き屋で打ち上げをしました。

2018年の記憶です。

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