「排泄にも自由を!!」(前編)
片岡亮太
先日、市の特定健診で健康診断を受けたところ、血液と尿の検査の結果、僕の腎臓は年齢相応の働きができていないことが判明しました。
ごく微量ではあったものの、尿に血液も混ざっていたとのこと。
8月中旬くらいから、演奏や講演、指導、原稿執筆などが立て込んでいたため、各舞台のためのリハーサルや日常的な稽古、トーク内容の整理などを含めると、休みらしい休みを取れずにいたこの数ヶ月。
新型コロナウィルスの影響で活動が停滞していた時期を思えば、まさに至福と呼ぶべき期間を過ごしていたので、精神的には充実し、とても元気だったのですが、そこに身体、とりわけ内臓は追いついていなかったようです。
9割がた同じものを食べ、さらに毎日栄養バランスにはかなり気を遣って食事を作ってくれている妻は、全ての数値に異常がなかったことを考慮すると、今回の結果は、僕の体質や、一時的な疲労によるところが大きかろうということで、かかりつけ医の先生からは、尿酸値を下げる薬を服薬し、腎臓への負担を下げつつ、しばらく様子を見ることを提案されました。
その際、先生がおっしゃったことは、
「通常は、尿の色が透明に近くなるまで水分を取るようにアドバイスするのだけど、自力では色がわからないだろうから、午前、午後、一回ずつ、いつもより多くトイレに行くようになるくらい水分をとってください」
「トイレの回数を減らそうとして、水分摂取の量を少なくしないように」
の二点。
いずれも耳の痛い指摘でした。
大人になって以来、折に触れて考えていたことですが、僕のように全盲の視覚障害の人は、血便や血尿が出た場合、気付ける術がありません。
実際、今回検査をするまで、まさか自分の尿に、少しとはいえ、血液が混ざっているなんて、想像もしていませんでした。
けれど、僕の目が見えていたら、検査よりもっと前に、「あれっ?これは血尿では?」と、異変に気づいていたでしょう。
血尿、血便共に、匂いに特徴があるわけではなさそうだし、見逃すと怖い血便とは、腹痛などの自覚症状を伴わないことが多いとも聞いたことがあります。
だからと言って、いくら心を開いている相手とはいえ、常に妻に排泄物をチェックしてもらうのは気持ち的に耐えられない(苦笑)。
(ちなみに妻からは、「いざとなったら、私は厭いません!」と、ありがたく、心強いお言葉を頂戴しました)
これまで、さほど真剣に意識してきませんでしたが、健康のバロメーターの一つである排泄物の状態を視認できないこととは、思いのほか不安であり、深刻な問題。
カメラを向けたり、写真で撮影することで、排泄物の色をチェックできるスマホのアプリや、血液の成分に反応して、何かしらの警告音を鳴らしてくれる便器など、テクノロジーの力でこの壁を打破することはできないのだろうか…。
また、トイレの使用回数を減らすために水分量を調節することは、全盲になって以来、無意識のうちにやっている一種の「生活の工夫」の一つでした。
なぜなら、主に外出時、尿意や便意を感じた時、近くにトイレがあるのかどうか、自力で把握することが困難になることが多いからです。
例えば、大学生の頃、飲み会からの帰り道、電車の中でどうしてもトイレに行きたくなったのに、現在のように、「トイレはこちらです」と音声ガイドが流れている駅はほとんどなかったうえに、構造を熟知している、当時一人暮らしをしていたアパートの最寄り駅はまだ遠く、
「そこまで我慢できるか?」
「知らない駅で降りて、トイレは見つかるのか?」
「誰かに声をかけたら場所を教えてもらえるだろうか?」
と、酔った頭で必死に考え、その後の行動を検討したことは一度や二度ではありません。
今でも、各地への移動の際など、駅員さんや新幹線の車掌さんに誘導していただいているタイミングをはじめ、いつなら確実にトイレに行けるかを自然と考え、それに合わせて飲み物を飲んでいます。
これは誰かと一緒にいる時にも言えること。
友人と遊んでいるときなど、男友達だけの空間ならまだしも、女友達が多い場で、何度もトイレに誘導してもらうことに抵抗があって、なるべく時間を空けてからトイレに立つこともよくあります。
また、妻と付き合いだしたばかりの頃、ニューヨークの飲食店には、ドラッグの使用等を恐れて、お客さんにトイレの使用を許可していない場所が多数あることを知らずにいたため、例によってトイレの回数を減らそうとしていて、いよいよ散歩中に催してしまい、どこかのカフェでトイレを借りたいと伝えたところ、近くにはトイレを使えるお店が全くなく、まだ結婚の可能性さえ考えていなかった頃の妻にクスクス笑われつつ、小走りで誘導されながら、マクドナルドに駆け込んだこともありました。
あの時の居心地の悪い恥ずかしさは忘れられません。
このように、視覚障害のある僕にとって、排泄と水分摂取のタイミングのコントロールとは、生活においてかなり重要なポイント。
また、僕の場合は、障害に起因する理由に加え、舞台人に独特の事情もあります。
各地での舞台の際、衣装への着替えの都合や、ステージ上で万が一にも尿意を感じることがないよう、トイレにいつ行くか、どの程度飲み物を飲むかなど、常に計算することが当たり前。
さらに、歌ったり話したりする際の、喉の湿度が極端に変化することを避けるため、演奏や講演中、手元にドリンクは用意しているものの、1時間を超える公演で、全身汗だくになっていても、一口も手をつけていないことがほとんど。
もちろん、全ての会場においてトイレと控室の行き来が自由にできるよう、道順を教えてもらい、行きたいときにトイレへ行けるようにもしていますが、時には、遠くにしかトイレがなくて、誘導を頼まざるを得ない会場もあり、そういう時には上述したような視覚障害者ゆえの不自由も生じることになります。
あくまでも想像にすぎませんが、こういった生活の中で、水分摂取と排泄の量が、本来あるべきバランスを逸脱してしまい、腎臓に負担をかけていたのかもしれません。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。