『抱っこは誰が教えてくれるの?』
わたしの
育児休暇中の職員が、挨拶をしたいと、一歳になったばかりの子どもを連れて職場を訪ねて来てくれた。
彼女は日傘を差し、抱っこ紐で大事に子どもを抱えながら晩春の桜並木を歩いて来た。
私は来てくれる知らせを受けて、職場を飛び出し桜並木まで迎えに行った。
葉桜にはまだ早い時期ではあったが、長袖のいらないあたたかな陽気であった。
私の存在に気づき、遠くで彼女が手をあげたのが見えた。
「こんにちは。久しぶり」と言うと、
彼女は微笑んだ。抱えている子どもに私の顔を見せながら、
「元気ですよー」と言った。
小さな赤ちゃんが抱っこ紐の中で、可愛らしいくりくりした瞳をこちらに向けていた。
私は、彼女の変わらない明るさと、元気そうな赤ちゃんの様子に安心し、嬉しい気持ちになった。
「よく来てくれたね」と二人に声をかける。
「ご迷惑かけて…申し訳ありません」と彼女は言った。
「………?」
迷惑なものか。子どもを一生懸命育てていて、何が迷惑というのか。立派に、よくやってる。
私は彼女の「ご迷惑をおかけして…」には何も答えず、「みんな待ってるよ」と言った。
◇
職場に入ると彼女のまわりにはすぐに人の輪ができた。
仕事が一区切りついた職員たちが集まってきて、久しぶりに彼女と言葉を交わす。
もちろん彼女との再会が嬉しいが、みんなの目は一歳を迎えたばかりの赤ちゃんに一斉に向けられた。
赤ちゃんを中心にして、笑顔の輪が広がる。
赤ちゃんって不思議な存在だ。いるだけでまわりを笑顔にしてしまう。
金色のオーラが出ていて、その場の雰囲気が一気に明るくなる。
すると、すでに子育てを終えて、子どもを独り立ちさせた女性の職員が我慢できずに、
「ねぇねぇ、もしよかったら…抱っこさせてくれない?」と言った。
「もちろん!」彼女は即座に抱っこ紐を解く。
女性職員はアルコールで手指を消毒してから、赤ちゃんを受け取った。
すっと馴染んだ体勢で赤ちゃんを抱っこし、あやす。
「ああ、かわいい」
その職員の表情が一瞬にしてやわらかく、あたたかい、まるで母親のような顔に変化した。
赤ちゃんはまわりを見渡して、手をばたばたと動かし、微笑んだ。
「笑った!」
その微笑みにみんなつられてもっと笑顔になる。
「お母さんから離れても泣かないのね~」
「いつもは人見知りするんですけどね」彼女も不思議がっている。
「私もいい?」別のお母さん職員が、抱っこする。
その職員の顔もすぐに満たされ、あたたかなまなざしになった。
「ほら、現役のママの番よ」
次は、今まさに子育てをしている女性職員の胸に赤ちゃんがやってきた。
「やっぱり現役は違うわ」とみんなが口を揃えて言った。
体が自然と反応するように、馴染んでやわらかく、しなやかに抱っこした。
◇
「次は現役のパパの番。槌橋さんの番よ」
私の元に赤ちゃんがきた。普段抱っこしている四歳の娘よりずっと軽く、やわらかい。
まんまるのおめめをじっとこちらに向けてくる。
「パパの顔になってる~」とみんなが言う。
「幸せだな…」
そう、本当にこの小さな存在を抱っこしているだけで満たされる。
もし幸せに形や重さがあるのだとしたら、それはまさに胸に抱いているこの赤ちゃんだろう。
あたたかさが体に伝わってくる。
本当にお日様を抱っこしたようにあたたかい。
あたたかくて、いい匂いがする。
娘は成長し、いつのまにか大きく重く硬くなってきたが、こんな時期があったのをすっかり忘れていた。
子育てはたいへんだと思いながら、やっとここまで来たが、過ぎてしまえば全部良い思い出になっている。
そして、それは不可逆で、二度と戻ってこない尊い時間である。
人類は、「子どもを生み、育てる」というエッセンシャルワークを何万年もずっと繰り返してここまで来た。
私は自分の子育てがはじまったときから、子育てはとても「性的」なことなのだと実感してきた。
それは子育てがエロいということではないし、もちろん赤ちゃんや子どもに性的な魅力を感じているということでもない。
例えばSEXのような子どもを作る行為だけを切り取って「性的」と考えられがちだが、子どもを作り、生み、育てるこの一連の行為は「性的」なのである。
人類はこの性的ないとなみを何万年も繰り返してきたわけだが、ひとりひとりの人生は刹那である。
刹那な人生ではあるが、誰かが命のバトンをずっと渡し、託して連綿とここまで続いてきたのである。
◇
「ほら、こっち来て抱っこしなさい!」と、輪の外側で見ていた若手の男性スタッフが今度は手招きされた。
子育てを経験していない若い男の子は、困惑しながら、恐る恐る赤ちゃんを受け取ったはいいけれどどう抱っこしていいか分からない。
「やわらかすぎてつぶしちゃいそうです…」
抱っこがぎこちない。力の入れ方も分からない。馴染んでいない。顔がみるみる泣きそうになっていた。
若手の男の子はその場で硬直してしまった。
その姿を、子育て経験者の母親職員たちが見守っていた。母親たちの抱っこと大違いだ。
私はそれを見て、「抱っこって誰が教えてくれるの?」と思った。
親になったばかりの新米パパもママも最初の抱っこは誰でもぎこちない。
ぎこちないけれど赤ちゃんを育てていくうちにどんどん馴染み、やり方を自然と学んでいく。頭で考えるのではなく、体で覚えていくものだ。
「抱っこって誰が教えてくれるの?」
抱っこはね、赤ちゃんが教えてくれるのである。
子育ては、子どもが教えてくれる。
誰もみな最初から親ではなく、子どもたちが自分たちを親にしてくれるのである。
育てられるものたちが、逆に私たちを育ててくれるのだ。
抱っこは誰が教えてくれるのか。
身体介護は誰が教えてくれるのか。
人を思いやる気持ちは誰が教えてくれるのか。
人を支えることの喜びは誰が教えてくれるのか。
もう一度、考えてみたい。
若手職員が赤ちゃんをぎこちなく胸に抱く様子を見つめながら、そのことを私は考えていた。
育休中の彼女も、子どもに育てられ立派な母親になった。そのことが感慨深かった。
彼女もまた少し離れたところからあたたかく、やわらかいまなざしで若手職員を見守っていた。
おわり