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【石川沙矢佳(いしかわ・さやか)さん 沖縄 脳性麻痺】

クライアントインタビュー 
石川沙矢佳(いしかわ・さやか)さん(ホームケア土屋沖縄)

このシリーズは、障害・難病を持つ方の、暮らし・その人生にスポットを当てて、「障害者」「難病患者」である前に、皆「一個人」として存在するという豊かな事実と、その存在感をできるだけお伝えしたいと考えています。

また、制度の運用状況の実例としても貴重な資料と言えますし、実際に今、難病や障害をお持ちで、どんなサービスをどれだけ使っていいのか困っておられる方に、何かヒントになればと願っております。

石川沙矢佳(いしかわ・さやか)さん プロフィール

※お写真左

  • 氏名:石川沙矢佳(いしかわ・さやか)
  • 生年:1987年2月12日
  • 出身:沖縄県
  • 病名:脳性麻痺

胎児期に脳性麻痺と診断される。出生後には発達の遅れが見られる。
これまで家族と暮らしていたが、2019年頃から一人暮らしの準備をスタート。
2020年33歳の時に重度訪問介護を利用し、念願の一人暮らしをはじめる。
最近、楽しいことは「調理」。

1.はじめに

今回、お話を伺うのは、沖縄在住のクライアント・石川沙矢佳さんです。

石川さんは2年前の2020年から重度訪問介護のサービスを利用し、現在は一人暮らし、自立生活をされています。

インタビューの前に事前の質問表をお送りすると、先に文章で回答してくださったり、インタビュー後もその時答えきれなかった質問に返信をくださったり、とエリアマネージャーの川田貴之さんを介して、石川さんとの文通のようなやり取りが続きました。

本来、インタビュアーはご本人のプロフィールやお聞きした話等様々な情報を集め、それを整理・編集し、“読者にとって読みやすい記事”に仕上げます。

しかし、今回記事を作成していくうちに、その「読みやすさ」を「つくる」ことによって、石川さんとのやり取りを重ねることで立ち表れてきた「石川さん」が消えていってしまうと感じました。

「逡巡」「繰り返し」「言いなおし」といった領域に、その気づかいや豊かさ、人間性を持つ人がいたとき、私たちが日常なじみのある「短く」「まとめて」「端的に」という価値観だけでは、その人は測れない、ということになります。

クライアントインタビューでは、その「短く」「端的な」方法で記事をつくると石川さんという人の魅力を伝えきれないことに気づき、別の方法でクライアントの生の声を記録していくことにしました。

これまで行なってきた土屋で働く方々へのインタビューの中で、多くの方が仰っていたのは「関係性をつくる歓びが、この仕事の魅力である」ということでした。

支援に携わる一人一人の声を聞くに連れ、私は介護職員が日々行なっている「関係性をつくる」という行為は、実は人間が本来持つ創造的な行為なのではないか――恥じらわずに言えば、「愛そのもの」と言えるのではないか――と考えるようになりました。

重度訪問介護は、一対一の支援現場や長時間の支援内容等、障害当事者の必要性から生まれた福祉サービスです。クライアントの生活そのもの、人生そのものをサポートするこの仕事は、「クライアント/アテンダント」「ケアをされる人/ケアをする人」という枠を越え、1人の人間が1人の人間と出会い続けていくことでもあります。

今回のクライアント・インタビューは、“関係性が立ち上がってくる過程”をできるだけそのまま、文面の正しさよりも「インタビュイー/インタビュアー」の互いに揺らぎ合う声や余白をそのまま掲載しています。この対話のふくらみの中で、石川さんと出会っていただけたら幸いです。

インタビューという一人のクライアントの記録を通して、重度訪問介護が持つ可能性、介護という仕事の創造性、ひいては他者と共に生きることの可能性について、考えていきたいと思います。

2.石川沙矢佳さんへの文書インタビュー/2022年11月18日

質問表への回答;石川沙矢佳さんとご家族より

◆小学校〜高校生;寄宿舎での生活

――小学校の時に地域の学校から特別支援学校へ転校されたとのことですが、どんな理由から転校をされたのでしょうか?また、普通の学校では支援面で限界があったのでしょうか?

保育園・幼稚園・小学1.2 年までは地域の学校に通い、通常学級で健常者と一緒に同じ授業を受けていました。「支援面で限界があったのか」とありますが、地域の学校に通っていた頃は車いす使用でも無く、まだ歩けていましたが、体幹の障害もあり、歩行の際に転ぶ事も多く、休み時間など担任や他の先生の目に付かない所でのイジメも頻繁でした。

同じ教室で授業を受けると、障害があるので黒板を板書するのも追いつかず、内容の理解も上手くいかない部分があったので、支援面での限界というより色々な面で厳しい部分はあったと思います。

――特別支援学校では寮生活をされていたとのこと。寄宿舎での生活はどんな雰囲気でしたか?

私が通っていた特別支援学校は沖縄県浦添市にあり、特別支援学校に転校した頃は恩納村に住んでいたので小学3年生で低学年ではあっても、距離がありました。

特別支援学校に転校後は中高生に交じり寮生活、引っ越し等もしましたが、その後も通学には距離があり、卒業までの10年間、寮生活を送りました。

私が特別支援学校へ転校した頃は、寮生活をしていた生徒数も男女合わせて32名と多く、寮の当直職員さんが男子部屋・女子部屋2名ずつ計4名と、「舎監」といって学校の男性職員1人の合計5名の職員が交代でいて、寮生活をしていました。

中学の頃から高校卒業の年は、寮生活を送る生徒数も入寮時の半分の16名になっていましたが、特別支援学校で小・中・高関係なく先輩方に交じり、係活動や話をしたり、音楽を聞いたり、聴覚障害の先輩がいた頃は、手話で話したくて、先輩の部屋で教えて貰いながらいろんな話をしたり、楽しく過ごしました。

寄宿舎生活は小・中・高と、たくさんの生徒がいて日々、和気藹々としていたので、楽しい気持ちの方が大きくて、家族と離れて寂しいという気持ちはあまり感じなかったです。

――寮生活では、ケアの面で不満や不便はありませんでしたか?

支援学校へ転校後、10年間のうち小学校までは学校行事など校外に出る際や校内でも自分の調子により学校にある、利用されなくなった車いすの利用も頻繁でした。短い距離は歩けた為、ふらつきを強く感じたり、股関節に痛みを感じたり、私自身にしか分からない身体の調子を職員へ伝えましたが、調子に合わせた対応がされない事もあり、ふらつきを強く感じても「短い距離だったら大丈夫」と言われ、本調子じゃないまま歩いた結果、転倒・骨折という事もありました。

また高校の頃はアーチェリーをしていて、不便というのかは分かりませんが、寄宿舎の職員と部活の顧問の先生との連絡が行き違い、報告がされてなく、部活に参加出来ない事はありました。

<ご家族の方への質問>
――幼い沙矢佳さんを一人寄宿舎に預けることに不安や葛藤はなかったですか?

ご家族 幼いのに、ましてや障害のある子を実家にも預けたこともないのに一人で預けるのは、不安でしかありませんでした。

でも娘の学校に行きたい気持ちも尊重したいし、そのまま普通の小学校では我慢を強いられて娘が押しつぶされてしまうんじゃないか。いろんな経験をさせてあげたい。色々と挑戦させてあげたいという思いで支援学校への転校と寄宿舎への入所を決断しました。

<ご家族の方への質問>
――沙矢佳さんが寄宿舎に入り、ご家族の暮らしはとどう変わりましたか?

ご家族 生まれた時からずっと付きっきりだったので、入所後は自分の時間や下の子たちにも充分に関わることかができ、妹たちも障害のある方たちと小さい頃からかかわりを持つことができ、思いやりの心が芽生えて良かったです。

<ご家族の方への質問>
――寄宿舎での養育にはメリットとデメリットがあるかと思うのですが、寄宿舎に預けて良かったこと、良くなかったことを聞かせてください。

ご家族 寄宿舎への入所は、いろいろな人たちとの関わりが出来て娘にとってもプラスになったと思います。私も障がいを持つ親御さんと色々、情報交換なども出来て良かったです。

◆寮生活から在宅生活へ

――高校卒業と同時に寄宿舎を退去し、在宅生活になったのでしょうか。在宅生活への移行でハードルになったことはありますか?

高校卒業と同時に寄宿舎を退去し、在宅生活になりました。

卒業して3ヵ月後、就労継続支援B型事業所が見つかり通所しましたが、事業所が狭く、車いすに座って作業は出来ても、休憩する場所もない為、身体にきて、卒業後8ヵ月で辞め、別の事業所が決まった為、移りました。

卒業後通所した事業所を辞める数カ月前から、通所は出来ても調子の良い状況ではなく、はっきり言うと高校入学16~21歳の6年間は、調子の良い状況ではなかった為、特に高校の頃、薬調整で一度入院した時は、外出許可を貰って授業を受けた時期もあり、普通に教室で授業を受ける時も、車いすに座って授業を受ける事が厳しい感じでした。

45分の授業のうち、車いすと、ソファーに横になった状況半々で授業を受けるような状況だった為、高校卒業後、在宅生活への一番のハードルは体調面でした。

――寄宿舎での生活から在宅生活に移られ、ご本人の暮らしやすさはどのように変わりましたか?

特別支援学校は、校舎・寄宿舎と車いすでスムーズに過ごせましたが、高校入学から6年間の16~21歳までは体調が良い状況では無く、ほぼベッドで横になっている様な状況で、てんかんの発作で救急へ行く事も頻繁だったので、家族も大変だったと思います。

――在宅生活ではヘルパーとのコミュニケーションに悩んだ時期があったとのこと。どういう点で意思疎通が難しかったのでしょうか?

重度訪問介護を利用開始して、土屋に支援に入って頂いたばかりの頃は、術後半年で身体の動きも悪く、小さい発作もまだある頃で、事業所から帰宅すると、ぐったりしてるような感じだったので、支援に入るスタッフの話に言葉を返すのもやっとで、私からの意思疎通・コミュニケーションは難しかったです。

今のように身体の動きが良くなり、コミュニケーションが取れるようになったのも、持病であるてんかんの通院先を変更後、今の主治医と今、服薬中の薬が私の身体に合っての事なので、服薬中の薬が私の身体に合い、調子良く過ごせて良かったと思ってます。

◆現在

――現在の在宅生活について聞かせてください。重度訪問介護を利用されるようになり、石川さんにとってヘルパーさんはどんな存在ですか?

今、薬の調整も上手く行き、身体の動きも重度訪問介護を利用開始した2年前よりは調子も良いですが、漠然とした不安・恐怖・悲しさなどを感じる事があり、てんかんと関係しているみたいで、不安・恐怖などが強いと調子の良い時に出来る事が出来なくなったり、サポートが必要になります。

今は調子が良ければ、調理もヘルパーさんと行なったりしますが、作業を始めた途中で不安・恐怖などを感じる事もあるので、また入浴・トイレなどもサポートが必要ですが、その時々の調子によって調子良い時は、出来る事も厳しい日もあります。

日々の在宅生活の中で、調子によりサポートが必要な事も変わるので、身体も勿論そうですが、心もなるべく良い状態をキープするとなると、色々な面でヘルパーさんは私にとって必要な存在です。

<ご家族の方への質問>
――ご家族にとってヘルパーさんの存在はいかがですか?

ご家族 今まで娘を中心に生活していたので家族にとって、ヘルパーさんの存在はとても有り難く、時間にもゆとりが持てて、身近で安心出来る大切な存在です。

見守り考えて支援してくださり、とても感謝しています。

――ホームケア土屋以外の重度訪問介護サービスを利用された事がありますか?

土屋以外に重度訪問介護の日勤支援では、3事業所を利用してます。土屋を含め4事業所利用で、たくさんのスタッフが私の支援で入ってます。

土屋さんの満足度とありますが、今のような変わらない対応で、支援宜しくお願いします。

――在宅生活へ移行される際、重度訪問介護サービスの開始にあたっては、サービスとスムーズに繋がれたのでしょうか?

私がヘルパーを入れサービスを利用したのは、10年前のことでした。その頃は、入浴・移動・通院介助の順序で、サービス利用を開始した記憶があります。

重度訪問介護サービスに変更する前、当時、利用していた事業所が提供しているサービスの中に、重度訪問介護もあったので、利用している事業所に「自立生活、一人暮らしをしたいので、重度訪問介護サービスを利用したいです」と伝えたところ、サービス提供者から「他の在宅サービスもあるけど」と話があり、これまで自立生活に対して、あと後はという思いがあっても、支援のサービス体調面波があり、色々だったので、自立生活に関して、利用できるサービスもわからないので、サービス提供者から見て「在宅支援のサービス名だけでも教えてほしい」と気持ちを伝えたところ、「忙しいから調べて。今、自分に必要なサービスくらい自分で分かるでしょう」と言われ、在宅支援のサービス等も自分で調べました。

その結果、今の私には身体や気持ち両方を踏まえて考えても今、必要なのは重度訪問介護だ、という気持ちになりました。

その後、動きがなく2ヶ月以上が過ぎた頃、利用していたヘルパー事業所のサービス提供者の方から「移動支援で迎えに来るから、事務所で代表者と3名で話をしよう」ということで、最初に私だけ事業所に呼ばれて、「どのような思いで、どういう考えで、スタッフを入れて、重度訪問介護を利用したいのか」を聞かれました。その時、重度訪問介護を利用して自立生活をしたい気持ちは変わらないことを伝えました。

その後も、全然動きがなく、私と母が事業所を訪問し、「他の事業所も利用しながら、重度訪問介護でサービス利用を考えています」と話したところ、「うちとは契約解除ですね」と切られた感じでした。その後、土屋と出逢い、重度訪問介護を利用しています。

――これからどうなっていきたい、これからやってみたいことなどあれば、聞かせてください。

重度訪問介護を利用し、一人暮らしを始めて2023年の8月で3年になりますが、てんかんの通院先を変更後、少しずつ身体の動きも良くなり、今、調子のいい状況を保てているので、無理なくこれからもいい状態をキープし、ヘルパーさんのサポートを受けながら、生活出来たら良いかなと思ってます。

3.石川沙矢佳さんへの文書インタビュー2回目/2022年11月21日


質問表への回答:石川沙矢佳さんより

1回目の文書インタビューを踏まえ、2回目の質問表を作成しました。お送りした質問に石川さんが改めて答えてくださっています。

◆中学〜高校時代について

――石川さんが車椅子を使い始めたのはいつ頃でしょうか?
また前回の質問票に、小学校〜特別支援学校では、「石川さんの体調と周りの理解との間に齟齬があり、転倒されたこともあった」ことが書かれていましたが、どのような身体の変化から車椅子を使い始められたのでしょうか。

車いすを利用した時期とありますが、体幹機能の障害もあり、学生時代は学校行事など校外に出る際や、校内でも自分の調子によって学校にある利用されなくなった車いすを利用する事も頻繁だった事を考えると、地域の学校から特別支援学校へ転校後しばらくは、校内の空いた車いすを調子により利用するという形での車いす利用はしていました。

その後、中学の頃に自分用の車いすを作り、その頃から学校生活・私生活その時々の調子に関係なく、杖なし歩行のみでの生活は厳しく、学校生活でも車いす・杖を併用しながら生活していました。

高校の頃は調子にも波があり、高校卒業前に電動車いすを作りましたが、卒業後は電動車いすの自力での操作が厳しい時期もありました。

――高校を卒業されてから、事業所に通われていたとのこと。その後、訪問介助サービスを利用されるようになったのにはどんな経緯があったのでしょうか。

高校卒業後、最初に通所した事業所へは卒業の3ヵ月後から8ヵ月間通所しました。事業所も狭く、休憩場所もなかったので、身体に来て事業所を移りましたが、その後1年で退所。

持病のてんかんも頻繁で、救急受診も多く、それからの2年は自分の調子にも波があり、在宅でほぼ寝たきりでベッド上で過ごす事がほとんどでした。

その後、持病のてんかんが落ち着き、それからはA型事業所利用で7年間、その間に転職などもあり、車いすは私だけでしたが、仕事をしていました。

この7年間のうち、初めの3年間いた事業所から転職前は、相談員事業がスタートする前で、「これからは相談員を付けないとサービスが利用出来ない」という転換期でした。

事業所も利用者が27名と人数は多かったのですが、「あなたは自分で探せそうだから」と市内の事業所一覧表も渡されず、事業所への送迎利用でいつも一緒だった同じ沖縄市の方が「私も一覧表を貰ってないから」と、自分の分と2枚貰ってきてくれて、その一覧表を見ながら事業所に問い合わせ、相談員を自分で探しました。

入浴介助サービスを入れる前の学生時代は、入浴時に背中を洗う時などその時々で一緒にいる友達にサポートして貰って、卒業後はとりあえず自力で入っても綺麗には洗えないので、再度、母に出来てない所だけをお願いしていました。

卒業前から「後々は一人暮らしをしたい」とは思っていましたが、最初に就職した事業所を転職する頃、相談員を探しながらヘルパー利用を考え、事業所を探しました。その後、入浴・移動・通院とヘルパー利用した感じです。

◆ 重度訪問介護を利用されるようになってから(2020年〜)

――重度訪問介護を利用されるようになった今、石川さんの楽しみはどんなことですか?また、お金と時間とヘルパーの制約が何にもなく、自由にいくらでも使えるとしたら、何をしてみたいですか?

重度訪問介護をサービス利用した頃は、身体の動きも悪く、アテンダントの方に料理を作ってもらう事が多い感じでした。今は動きも良く、一緒に調理を行う事も多くあり、その作業中に漠然とした恐怖・不安感など感じたりもありますが、今の楽しみは調理かな、と感じます。

「お金と時間とヘルパーに制約が何もなかったら」とありますが、高1の夏休みに障害者甲子園というものに参加したので、制約など無くコロナ禍でなければ、内地の友達に会いたいな。とは思います。

――重訪のサービスを利用し始めた頃は「事業所から帰宅すると、ぐったりしてる感じだった」、現在は「主治医や薬を変え、調子良く過ごされている」と書かれていました。
「漠然とした不安・恐怖・悲しさを感じること」もある中で、「身体も、心もなるべく良い状態をキープする」ためにヘルパーさんは必要な存在とのこと。もし、石川さんご自身がヘルパーだったら、どんな支援をしたいと思われますか?

「もし私がアテンダントだったら」という質問ですが、今、感じるものは、私の場合、不安・恐怖・悲しさで落ち着けない時、横にいてくれると時間は掛かっても落ち着けるので、私の場合はその対応で支援して頂いています。

利用する方により不安などを感じた時、して欲しい支援もそれぞれだと思うのでわからないですが、私が支援に入るアテンダント側だったらと考えて思うことは、クライアントさんに不安感やその他だったりを感じさせる事がなるべくないよう、クライアントさんが話せる方なら会話をして話を聞き、文字入力だったり、取れるコミュニケーション手段で会話ができるよう、利用されてる方の無理ない範囲でコミュニケーションを取り、不安感やその他のことがなく落ち着いた状態をキープし、無理なく過ごせるようにしたいです。

ただ、中には障害により文字入力など厳しい方もいると思うので、そういうクライアントさんであれはば、利用されている方の表情などは気に掛け、その方にとって良い状態をキープ出来るようにしたいな。と思います。

――現在、重度訪問介護を利用され、一人暮らしをされている石川さんにとって“自立生活 ”とは、誰と、どんなふうに、作り上げていくものとお考えでしょうか。

障害のあり無しに関係なく、人は周りの方だったり、何らかの形で誰かの力を借り生活していると思っている。

障害等で色々と健常者に比べサポートが必要でも、家族以外、その時々で周りの助けも借りながら、その人が助け・サポートを必要とする事や場面に関係なく、自分の気持ちも大切に自分らしく生活出来ていたらサポートが必要な事など関係なくその人にとって自立だと思っています。

4.石川さんへのzoomインタビュー/2022年11月23日

インタビュー参加者:
話し手 石川沙矢佳さん
現地インタビュアー 沖縄エリアマネージャー 川田貴之さん
Zoomインタビュアー 本社 野上麻衣

2回の文書のやりとりを踏まえて迎えたインタビュー当日。

質問表から重ねての質問もあり、石川さんを戸惑わせてしまったところもありましたが、文字のやりとりでは聞くことのできない生の声を聞く時間となりました。

石川さんのお話は、ある話を何度か繰り返されたり、こちらの質問に少し後になって答えてくださったりと、時や記憶を行き来しながら、石川さんの中に流れるゆるやかなリズムに耳を傾けるように進んでいきます。

インタビュアーである私は、質問・進行をしながらも、質問に対する正しい「答え」を得ることをどこかで止め、石川さんのリズムに身を委ね、別の形での「応え」を受け取ることとなります。

自立生活の始まり;寮生活

川田 石川さんの自己紹介です。

石川 石川沙矢佳です。土屋のヘルパーさんには来てもらって、2年が超えるんですけど、こんな依頼が来るとは思ってなくて、家族宛のものがあるとも思ってなかったので、家族宛のものはお母さんにはチラッと言ったんですけれど……今日よろしくお願いします。

野上 早速ですが、石川さんは小学生で寮生活をされてますね。回答には「仲間がいて、そっちが楽しくて、寂しい思いもあんまりなかったんです」なんて書いてあったんですが。

石川 (笑)

野上 例えば施設ならではの楽しかったエピソードとかあったら教えていただいてもいいですか。

石川 ならではの、というか、小学校から入ってるのって自分だけだったので。

野上 みなさん、歳上の方だったんですか?

石川 歳上でしたね。自分が卒業する時、同室の方で小学校高学年の方がいたけれど、あとはもうね、ほぼほぼ上で、自分が入って、ちょっと。

野上 じゃあ、先輩たちに囲まれて、楽しいこと、面白いこと、きっと教えていただいたんじゃないですか?

石川 たまたま聾の方がいて、一応、口話もできる方だったけど、その方の部屋に行って、手話を教えてもらいながらとか(笑)。

野上 そうか、寮のお部屋に遊びに行ったり、来てもらったり。

石川 ですね。遊びに行ったり(笑)。普通にしてました。

野上 高校の時はアーチェリーをやってらしたって書いてあったんですが、アーチェリーはどんなきっかけで始められたんですか?

石川 どんなきっかけというか、部活自体がね、高校生からしかなくて。でもずっとね、小学校から見てて、「後々、上がったらやろう」とか思ってたんですけれど。

川田 アーチェリー珍しいですよね。

石川 アーチェリーね、あんまりないから。だから、高校総体にも参加してて。高校の時は、普通に、アーチェリー自体さ、普通校にも沖縄だと2校。高校時代のアーチェリー部顧問の先生だと、特別支援学校だと県外含めても、部活動のある特別支援学校は1校だった。

川田 やりたいと思ったのはテレビで見て、ですか?

石川 高校生がやってて、それを見てたから。だったらやってみたい、って。

川田 先輩方がやってるのを見て、ってことですか。

石川 そう。なんかやっぱり、生まれつきだからね、目のこともあるから。体調でさ、今でもそこまでじゃないけど、見え方が変わったりとか。敏感になったから。
なんかね、アーチェリーやろうと思ってたけど、「校区じゃないからできない」とか言われたけど、「やりたいから」っていう話で。
「「わかったから、私の気持ちを伝えたら、その代わり、校長に手紙書いてくれ」っていう話で、でもやりたかったからね。「えっ」とか思ったけど、手紙書いて(笑)。そんなことしたのは自分ぐらいだとは思うけど。やりましたね。

川田 高校3年間ずっとやってたんですか?

石川 うん、ずっとやってて。ずっとやってたけど、やっぱり目のことがあるから、最初は週1くらいで、2年に上がってしばらくした時に、そのまま普通に週1で部活してたら、顧問の先生が様子見ながら、皆と同じように週3でやろうっていう話で。一応、3年間ずっとやってはいましたね。

野上 あの、私はちゃんとお聞きしてなかったんですが、石川さんは目が、体調によって見える時と見えない時があったりされるんですか?

石川 今ですか。

川田 今はないよね。若い頃は目が。

石川 学生時代ってこと?今はあれだけど。でも今はね、視力も安定してるから。

野上 先ほど、アーチェリーで総体にも出られたって仰ってたんですが、大会で何位になったりとか?

石川 高校総体とか出てましたよ。身障者のアーチェリー九州大会とか。

野上 九州も行かれたんですか?

石川 行きましたよ、行きました。最初の時は、週一でしかやってなかったから、間に合わなくて。

野上 学校の中でも色々と挑戦されてたと思うんですが、石川さんご自身の思いとか、要望を伝えたりするのに、不便な点とか伝わらなかったこと、伝わってよかったこととかは寮生活の中でありましたか?

石川 一応ね、回答に書いたけど、「転んで」っていう話とか。あれ答える時にさ、一応書かなかったけど、その時に、骨折したわけ(笑)。

野上 寮生活の時に転倒されて、ヒビが入っちゃったんですか?

石川 「今日は歩かない方がいい」とか思ってたんだけど、「短い距離だから大丈夫」とか言われて。翌日痛くなかったから、「転んだけど、大丈夫かな」と思って、高校の時だったから普通に部活も行って。何ともなかったけど、「イタ」と思って。「なんで?」と思って調べたら、ヒビが入ってて。肋骨だからさ、何もできないさ(笑)。そういう時はね、あったかな。

<川田さんより補足>
視力については「石川さんは見えにくいのではなく、生まれつき、日光や電気の光が眩しい事がある」とのこと。インタビュー当日もサングラスをかけていました。

<石川さんより追記>
「特別支援学級への転校の理由」

私が特別支援学校を見学に行った頃、従兄妹も一時期、那覇の支援学校にいた為、お母さん方の兄妹で従兄妹などと集り泊まった際に、叔父さんが私の様子を見て「見学してみたら?」との叔父さんの言葉でその後、支援学校の見学に行きました。

小学校入学後、障害があるので、板書する速度も間に合わない、授業内容の理解も他の皆に比べたら遅かったので、夏休み前には「授業キツくない?あなたは他の皆と違うから。頑張ってるけど。分かるけどさ」と言われたり。

私もあの頃は通常学級にいて、小1なのに担任のその言葉に「リハビリは行ったりしてるけど、他に何が違うんだろう?」「ノートを書くのは遅いけど」等、言われる度に考えたり。

「学校に行ってて、なんで私だけこんな……」という気持ちはあったので、小学校入学の頃に「あなたは、皆と違うから」とか「頑張ってるのは分かるけど」とかでなく、私にもちゃんと分かるような説明をしてくれていたら、地域の小学校ではなく支援学校への転校をすぐしてたんだろうなと今、思います。

小学校入学後の最初の転校も、特別支援学校への転校も、高校受験など今までの色々な選択は自分で決めてきたので。

最近の楽しみは、調理

野上 「重度訪問介護を利用されるようになってからの楽しみはどんなことですか」という質問をさせていただいたんですが、今はお料理が石川さんの楽しみとのことで。

石川 楽しみと言ったら、今はそうかな。食材のカットをしてる時に「あ、ちょっとできないかも」ってなる時もあるけど。

川田 料理にハマってる感じですか。

石川 ハマってるというか、今は体の動きもいいから、できる時は、やろうと思って。

野上 ちなみに明日の朝のメニューは何を?

石川 どうだろうな。「えっ」てみんなに言われるんだけど、いつも直前で、前もって決めるっていうのがあんまりなくて。

川田 その時その時の気分で。

石川 うん、朝の気分っていうか、夕飯とかも冷蔵庫見てパッパッて決めちゃうから。

川田 冷蔵庫を見て決める?

石川 そう、体調でね。「自分の調子的に無理そう」っていう時は夜に決めたり。でも夜、メニューを決めても、翌日の調子で「決めたけど」ってなったりするから。だからあんまりメニュー決めはしてないかな。

川田 ちなみに夕飯も今から冷蔵庫見て決める感じですか(この時、17時半)。

石川 そうそう。だからわからない。

野上 ちなみに石川さんがお好きなメニューとか、「これが好き」っていう食べ物はありますか?

石川 いつもさ、食べられないものってそんなにないわけ。苦手っていうのはあるんだけど、これを言うと「えっ、なんで?」って言われるんだけど、牛肉は大丈夫なのにビーフシチューになると苦手。別に出されたら食べるけど(笑)。
だから「えっ、なんで?牛肉ダメなの?」ってみんなに言われる。で、「牛肉がダメなわけじゃない」って言うわけ(笑)。

川田 牛は牛だけで食べないとダメなんだ(笑)。

石川 ビーフカレーとかビーフシチューとかあるでしょ。なんか……うん。わかんないね。

川田 じゃあ、大好物ってなんですか。

石川 ……

川田 選べないんですね(笑)。

石川 わからないよ。まだ決めてない。
……スープ系にしようかな、と思って。いつも直前にしか決めないから(笑)。

川田 というわけで、今日の夜ご飯はスープ系だそうです。

障害者甲子園で出会った友達

野上 「石川さんご自身が、ヘルパーだったらどんな支援をしたいですか?」という質問のところに「高校生の時に障害者甲子園に参加した」と書いてありました。障害者甲子園ってどういうものだったんですか?

石川 あのね、夏休み前ぐらいに毎年学校に募集があって。各学校から2人ぐらい出ていたんだけど、自分が行った年は珍しく3名で。どういうものっていうか……甲子園自体は、夏休みに兵庫であって。

川田 兵庫に行ったんですね。

石川 うん、兵庫。各県から、その時は外国からも来てて。兵庫の西宮の地元の高校生もボランティアで100名ぐらい集めて。

川田 甲子園の時に。

石川 うん。健常者高校生100名と、各県から募集して集まってきた障害がある高校生が100名・100名ぐらいで。当日の夜は、1箇所で集まって自己紹介しながら色々やったんだけど……
5つぐらい分科会があって、「この中から選んでください」っていう話で、自分は「バリアフリー」というテーマを選んだんだけど。募集の時も3つのテーマの中から一個選んで、原稿用紙1枚半ぐらい書いて出して、向こうが選んで。

野上 甲子園って、野球じゃないですよね(笑)?

石川 野球じゃないよ(笑)。でもやっぱり言われたよ。2008年ぐらいにホテルで同窓会があって。ホテルの入口で「障害者甲子園の同窓会ってここで合ってますか?」って聞いたら、「甲子園って野球ですか?」って言われて(笑)。「すみません、違います、でもそう思いますよね」って話はしたけど。どういうもの、って言われたらわからないね。

野上 その後に同窓会もあったんですね。

石川 ありました。

野上 その時に外国や他の地域の方とお友達になったんですね。

石川 今だったら、外国の方ともS N Sとかで話したりしてただろうね。携帯でポンと翻訳してくれるから。住所をもらったけど、手紙のやり取りするほど英語はできなくて。

野上 質問表の中で「もしお金や時間の制約がなかったら、何をしたいですか?」って質問をしたんですが。

石川 そうそうそう。

野上 「内地の友達に会いたいな」っていうふうに書いてらして。

石川 その時に知り合った方とその後もやり取りしていて。障害者甲子園とは別で、中学時代までのクラスメイトや私より結構年上の先輩とか。沖縄の方でも内地に行って、ずっと内地にいる人もいるけど。

野上 その時に繋がった友達に会いに行きたいなっていうのがあるんですね。

石川 ね、うん。

<石川さんより追記>

「障害者甲子園とは」
兵庫県西宮市のCIL自立生活センターが1993年〜2002年までの毎年8月〜10年に渡り西宮の高校生などを実行委員に開催していました。地元兵庫の障害のない高校生と、全国の障害を持った高校生を対象に、障害有りなし関係なく「自立・福祉・バリアフリーとは?」「障害を持つ高校生のこれから」「障害の有りなし関わらず人権とは?」といったテーマで、まだ自立支援法の施行前だったので、これからどう変わるとかでしたが、私は、お互いが思う事を3泊4日で色々な面で話した印象があり、障害を持つ高校生を対象の合宿のようなもの……という感じはあるかな。と思ってます。

<野上より追記>

障害者甲子園では、テーマに沿って意見交換を行った後、話し合ったことをまとめ、総理官邸へ提出しに行ったそうです。(C I Lのホームページより)

一人暮らしについて

野上 今、石川さんは重度訪問介護を利用されて一人暮らしをされています。自立生活をするのにどんなものが必要かを教えていただきたいな、と思うのですが、誰と、どんなふうに作り上げていくものなのかを聞かせてもらっていいですか。

石川 でもさ、この質問にびっくりして「答えていいの」って思ったわけ。

川田 いやいや、全然いいんですよ。

石川 回答はしたけど。……(自身の回答を探される)。あ、これだこれだ。

川田 「障害のあるなしに関わらず……」。これを言ってもらってもいいし、答えた以外にも何かあれば。

石川 ……

川田 石川さんは外出が好きだから、「外出したい」とかでも。あと、体調が良ければ、1人で料理を作ってみたいとか。そういう気持ちがあります?

石川 ……なんか、でもね、幻聴があるかないかって言ったらある。ちょっと違うけど、家にいて幻聴を聞いていた時があることも関係しているのか、漠然とした恐怖・不安もあるけど、人が怖くて。本当は外に出たいけど、自分の調子で外に出られないっていう時はあった。今も時々あるけど。

川田 外出したいけど、幻聴の影響がある時があった?

石川 幻聴で聴こえてた内容もありえない内容で。スピーカーから聞くように大きく聞いてたから。言葉だったり、音だったり。

川田 出たいけど出れない時期があった。

石川 うん。

川田 今はどうですか?行くとしたらどこへ行きたいですか?スーパーとか、海とか。

石川 うんうん。

川田 何かあったりします?

石川 この「お金や時間の制限なく」ってこと?

川田 うんうん、自立していく中で。沙矢佳さんの願望でいいですよ。

石川 ……何にも制約がなかったら?

川田 旅行が一番したい感じですか。

石川 今もやり取りしてるのが、みんな。ほぼ、障害者甲子園で出会った方だから「みんなと会いたいな」とは思って。

アテンダントの存在

野上 石川さんが日々生活されていくのにヘルパーさんの存在は大きなものになってると思うんですが、一人暮らしを始めるにあたって「(ご自身の)体調が安定するまでが大変だった」と書かれていましたね。

石川 そうだよね……。だから「今日のインタビュー、大丈夫かな」と思ったわけ。さっき幻聴があるって言って、一回、綺麗に忘れられたけど、今は生活に支障はないから思わない時もあるけど、人が怖いから。

ヘルパーさんでもすぐに話せる人も稀にいるけど、やっぱり怖いから。一緒にやってほしいこととか、必要なことに対してはめっちゃ話すけど、普通の会話ができる、そこまでいくのに結構時間がかかったり。

川田 信頼関係をつくっていくには時間がかかっちゃいますよね。

石川 時間かかるけど、本当に結構経ってからやっと話せることがほとんど。だから幻聴が綺麗に忘れられた時に、前に支援で入ってたヘルパーさんが入ってきたから「よかったな」って思っていたんだけど。

川田 ここですね。(1回目の質問表の石川さんからの回答を読み上げる)
「今、薬の調整も上手く行き、動きも重度訪問介護を利用開始した2年前よりは身体の調子も良いですが、漠然とした不安・恐怖・悲しさなどを感じる事があり、てんかんと関係しているみたいで」っていうところですよね。

石川 うん、調子で全然違う。調子が良くても、野菜のカットをやってる時、不安を感じる時があるから。

川田 (続けて読み上げる)「色々な面でヘルパーさんのサポートは必要で、これからも調子良い状態をキープし、在宅生活をするとなるとヘルパーさんは私にとって必要な存在です」

石川 うん、だからさ、「今日、大丈夫かな」って本当に思った。言わなくてもいいかも。

川田 言っていいですよ。

石川 話してみないとわからないというか。朝、「昨日よりは調子がいいな」って。

川田 昨日ちょっと体調が悪いところがあったんですよね。昨日の時点で、体調が不安だった、ってことですよね。

石川 うんうん。幻聴が聞こえるわけでもないんだけど。

これから一人暮らしをする人へ

野上 最後の質問になるんですが、これから「1人で暮らしてみよう」とか「重度訪問介護を利用してみよう」という方に向けて、今、自立して生活されている石川さんからメッセージがあったら教えてもらいたいなと思います。

川田 今から一人暮らしをする後輩に、ですよね。

石川 友達の知り合いとやり取りをしてて、その方はお母さんと2人で暮らしてて、親はもう一人暮らしをOKしてるっていう話。その方、視覚障害の方で。

野上 その方の相談にのったり?

石川 その方は県外の方で、福祉の状態も制度も沖縄と違って。相談してきたから話を聞いたんだけど、沖縄とその方が住んでいる状況が違うから、自分はそんなに言えない。

川田 じゃあ例えば、その人が沖縄の人で、沙矢佳さんに「私、重度訪問介護使いたいんだけど、何かアドバイスあります?」とか言われたらどうですか?ちょっと無茶ぶりですけど(笑)。

石川 アドバイス……

川田 アドバイスでも、メッセージでも。

石川 でもね、一人暮らし……。ちょっとズレてるかもしれないけど、「一人暮らししたい」って思った時に、その気持ちは、ずっと持っていて。「一人暮らしは後々」とずっと思ってたけど、高校の時も調子が悪くて、無理だったというか。

今ぐらいの体調になるまでさ、どれくらいかかるかわからなかったけど、ずっとお母さんがおばあちゃんの面倒を見てきてくれたのもわかるから、「一人暮らしは後々、調子が良くなった時かな」って思ってて。

川田 メッセージっていうところでは?

石川 人によってそれぞれだけど、今、思ってることとか、「一人暮らしをしたい」っていう気持ちって結局、なかなか人に言えない。そう思っていても「言ったら家族が反対するかも。だから言えない」っていう人も結構いるとは思ってて。

でも「一人暮らししたい」「何かやりたい」ってなった時に、周りの反対もあるかもしれないけど、自分の気持ち。うん、そこは伝えたらいいって思ってて。

川田 いいですね。

野上 石川さんは今、一人暮らしして、よかったって思いますか?

石川 うん、思ってます。

なんかね、言いづらかったっていう話……。聞こえてくる声(幻聴)も半端なくて、夜とか、やっぱり大きいから起きて、しばらく座ってたり、寝れないからちょこちょこ起きるけど、それ繰り返して「どうせ起こされるから」って思ってしばらく座ってたり。

誰もいないさね、自分だけ聞こえてるから、その声には返さないとって。そうすると、わからない。わからないけど、聞こえてくる声の大きさが変わったりしてた。だからと言って寝れるわけでもないけど。スピーカーから聞くように聞いていた頃は。

川田 これまでは幻聴もあって、なかなか一人暮らしもできなかったんですね。でもそれが、今、一人暮らしできてるから。

野上 本当ですね。そろそろ時間なんですが……いっぱい喋って、お疲れじゃないですか?

石川 大丈夫ですよ。

川田 もっと喋りたいですか?(笑)

石川 大丈夫は、大丈夫。ね、すぐ話せるかわからないって思ったんだけど、一応、まぁ、ね(笑)。今日は、Zoomを繋いで喋って、大丈夫だなと思って。

<石川さんより追記>

最後に「一人暮らしをこれから考えるクライアントさんやそのご家族さんへ、メッセージは?」とありましたが、一人暮らしなど関係なく色々な所で「これから私はこう進みたい」という気持ちは一番大切で、私も一人暮らしを考える時、食事も介助してもらって……という感じで話を出したので。

色々でしたが、自立も「身辺自立だけが自立だ」とは決して思ってもないので、後輩などにも、何か話をされると伝えている事はそのあたりかな。とは思います。

5.石川さんの年表

石川沙矢佳(いしかわ・さやか)

1987年2月12日、沖縄県生まれ。
胎児期に脳性麻痺と診断される。出生後には発達の遅れが見られる。
これまで家族と暮らしていたが、2019年頃から一人暮らしの準備をスタート。
2020年33歳の時に重度訪問介護を利用し、念願の一人暮らしをはじめる。
最近、楽しいことは「調理」。

・・・

1987年(0歳)
3姉妹の長女として沖縄県に生まれる

1990年―(3歳〜)
保育園・幼稚園・小学校では地域の通常学級に通う

<3,4歳の頃/久米島にて家族写真 左から3番目が石川さん、右から2番目がお母様>

1995年(8歳)
小学校3年生の時に鏡ヶ丘特別支援学校へ転校
親元を離れ、学校に隣接する寄宿舎での生活をはじめる

2001年(14歳頃)
自分用の車椅子をつくる

<2001年12月・中学3年生/車椅子マラソンに参加>

2002年(15歳)
高1の頃、8月兵庫県自立生活センターが開催する障害者甲子園に参加
高等部に入学し、アーチェリー部に入部

2003年(16歳頃から卒業後2008年21歳まで)
持病のてんかんや、体調が良くない状況がつづく

<高校2年生/アーチェリー九州大会>

2005年(18歳)
高等部卒業とともに寮生活を終え、在宅での生活がはじまる
卒業後、就労継続支援B型事業所へ就職

<20歳/成人式>

2010年(23歳)
就労継続支援A型事業所等に就職

2011年頃(24歳頃)
在宅のヘルパー利用を開始、入浴・移動・通院解除サービスの利用をはじめる

<29歳/広島県宮島、母の友達と旅行の際に撮った写真>

2019年頃―(32歳頃〜)
一人暮らしの実現に向け、準備をはじめる

2020年(33歳)
重度訪問介護サービスを利用し、念願の一人暮らしをはじめる
この頃から病院や服薬を変え、体調が落ち着いてくる

2022年12月現在(35歳)

<別事業所のアテンダントさんと…>

<重度訪問介護サービス利用後、動きが良くなった最近の調理中。>


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