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『日常生活の神話』 / わたしの

『日常生活の神話』
わたしの

ものごとが緩やかにまとまり出してきた。

神話、縄文、遊びの力、夢の力、ブリコラージュ…。

私がずっと慣れ親しんできたものたち。

暗い森の奥のかがり火。ざらついた土器の縁を這う蛇。いかづち。氾濫する大河。常世の国。

そこらに転がっているもので森羅万象を理解しようとする人類が発明した知恵。

それが神話であり、ブリコラージュと呼ばれるものだ。

それは、科学的アプローチとは違う方法。

神話的アプローチ。

「手持ちのもの」だけで、ものごとを説明しようとすること。

科学的アプローチでは仮説→実験→検証という具合に思考し、答えを導き出していく。

客観的な観察というのも科学では重要になってくる。

しかし神話の方法はそうではない。

「手持ちのもの」で答えを導き出していくのである。

「手持ちのもの」とは何かというと読んで字のごとく、自分の持っているものである。

身の回りにあるもの。自分が理解していること。知っていること。

例えば「人間の死」をどう理解すればいいのか。

神話的アプローチでは、自分の身の回りにある現象「手持ちのもの」と重ね合わせていく。

身近にあったもの、焚火が燃えることと結びつけ、薪が燃えて徐々に白くなっていくことが「老い」、燃え尽き、火が消えることが「死」であると考えていくのが神話の方法である。

これをブリコラージュ的方法とも呼ぶ。

生命はどこからきたのか、空や海の果てには何があるのか、国はどのように生まれたのか、農耕はどのようにはじまったのかなどを説明するために人々はこの方法を使ってきた。

それが「神話」として残っている。

国はどうやって生まれたか。

泥沼を棒でかき回して、泥が盛り上がったところが島になった。

それでいいではないか。死ぬのは、火が消えるからだ。

ヤカンというのは何でヤカンと呼ばれるのか。

矢があたって「カンッ」だから、ヤカン。それでいいではないか。

夢についても同じことが言える。夢とは何か。

人間は日中に起こったことに対して無意識下で感じたものを眠っている間に処理し、その処理の過程で残った断片のイメージが夢であると言われている。

無意識を処理するときに夢は現実で起こった具体的なものを使わないそうだ。

過去の似ている状況や、象徴する何かに託して処理するために、夢は突拍子もなく、非現実的なものに感じてしまうらしい。

心の片隅にあるかけらを寄せ集めて、それが夢になる。

友だちと喧嘩して、投げかけられた胸に刺さる言葉はもしかしたら有刺鉄線としてあらわれてくるかもしれない。

先の見えない不安はバスに乗り遅れたり、家に帰るための道が見つからないという状況になるかもしれない。

さて、人間が言葉を操るということはどういうことなのだろう。

何かを思う。何かを音声言語で表現したいと思う。

そして頭の中のたくさんの語彙の中から、その状況に沿った言葉をピックアップして発する。

バリエーションの中から、何を基準にして選ぶのだろうか?

語彙だけではなく、選んだ語彙をどの順番で発するのか?

あるいは何を言葉としてアウトプットし、何を表現せずにとどめるのか?

ある自閉症の青年を私は思い出すのである。

彼は思いを伝えるために自分の頭の中にストックされているアニメや本のセリフを使って、表現を試みる。

一番状況に適したアニメのキャラクターのセリフや本の一行を探し出して発信するのであった。

まさに「手持ちのもの」である。

言葉とはそもそもブリコラージュであり、神話的手法である。

これは子育てをしている人は日常で体験していることではなかろうか。

言葉を覚えたての幼児は限られた言葉を使って表現しようとする。

ある子どもは絆創膏のことを「アーブーブシール」と表現した。

「アーブーブ」とは「大丈夫」の意味で、親が傷に絆創膏を貼りながら「大丈夫、大丈夫」と言ったのだろう。

自分の手持ちの語彙「大丈夫」と「シール」を使って絆創膏を上手に表現する。

それにしても「大丈夫シール」というネーミングは、かわいい。

また、例えば、予防接種で、診察室に入った途端「アーウァイ!アーウァイ!」と泣き叫んでいた子どもがいた。
「アーウァイ!」とは「バイバイ」のことらしい。

診察室に入った瞬間、覚えたての「アーウァイ!」という表現を使って「怖いよ!」「この状況いやだ!」「帰りたい!」と大人に伝えている場面だった。

幼児は手持ちの少ない語彙を一生懸命組み合わせて、複雑な表現をしようとする。

語彙という手持ちのカードで表現できないときは、「泣く」「暴れる」という手持ちのカードを使う。

そんなときは何か複雑なことを伝えたいけれど、伝えきれない歯がゆさをたっぷりと受け止めてあげたくなる。

子どもは言葉を覚えるから使うのではない。

使いたいからなんとなくまねごとをはじめるのである。要するに「話したい」という意欲が一番先だ。

話したいから「手持ちのもの」を使いはじめ、使いながら、試し、調整して他の言葉も取り入れて覚えていくというのが本当の順番のようだ。

だから言葉を覚えさせることに躍起になる必要はない。

言葉を覚えるのは後でもいい。

伝えたい、しゃべりたい、表現したいという意欲がもっとも大切だということがよく分かる。

ある感情を表現するために(思いを処理するためと言ってもいいかもしれない)身の回りにある、手持ちのものを使って実現・解消しようとしているような場面を目撃することも少なくはない。

苛立ちを解消するために、キッチンのシンクを洗い続けることだってそうだ。

不安を流し去りたいと願う人はトイレットペーパーをぐるぐるにまるめて便器に放り込み、それを流すことで果たそうとする。

しかし周囲の人間にとってみれば、シンクを激しく洗い、周囲をびしょびしょにする困った行動としてだけ見えるだろう。

わざとトイレを詰まらせようとしているとか、いたずらに行っているとしか見えないだろう。

なのでそこに『どんな意味があるのか』と、探ろうとしなければ、その行動は表面上の理解でそれまでになってしまう。

まわりを困らせる人としてしか理解されないかもしれない。

そう、神話も「アーウァイ!」のような子どもの表現もトイレを詰まらせる行動も、そこに『どんな意味があるのだろう』と想像しなければ、それまでなのだ。

我々は、行動や言葉の裏側にある意味を探ることが求められている。

考古学者のように。神話研究者のように。

おわり

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