『泣くな、支援者』 / わたしの

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『泣くな、支援者』
わたしの

泣くな、支援者だろ。

悲しみを力に変えなさい。すぐにではなくてもいい。

しばらくしゃがんでいてもいい。横になっていてもいい。

でも、必ずいつかは起き上がるの。

あんたさ、支援者なら自分の駄目さを味わいなさいよ。

健常者とか言われて自惚れている自分の愚かさを自覚して、陳腐な鎧や偽物のプライドや思い上がりを剥ぎ取ってみなさいよ。

支援者だからって偉くなんかないの。

芸人と一緒。悲しみや苦しみ、失敗、悔恨を芸のこやしにするの!

支援のこやしにするのよ!あんたの人生を仕事に生かすの!

どんな駄目さも、クズさも、こやしにして力に変えるのよ!わかった?

雪絵なら、そう言うだろう。

哲夫は、美しい女に目がくらみ、三年付き合った雪絵を裏切った。

同棲していた雪絵を「すぐに出ていけ!」と追い出して、哲夫の心は空に舞い上がるシャガールのごとく新しい恋にのぼせ上っていたのである。

ところが、半年が経ち、一年が経つと、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

花の命は短くて、あんなに美しいと思っていた新しい女が、関係が深まるにつれて偉そうなことを抜かすようになり、だんだんと憎く、イラっとする場面も多くなり、なんだか美しさもかげってきた。

美しさがかげると、それ以外に魅力がないことも分かってきて(これはもちろん哲夫の浅はかさでまったく他者のことを見ようとしていなかったから、実は魅力的なところはたくさんあったはずなのに)、なんだこの女は、まったく面白みがないじゃないか、話すことはつまらねぇし…、

俺の予想をちっとも上回らない、なんてことを思うようになってきたのだった。

すると、三年付き合ったあげく心を踏みにじるような別れ方をした雪絵のことを今更ながらに思い出すようになっていた。

「あいつだったら…こんなとき、こんなことをしただろうな…」「あいつだったら笑って付き合ってくれたよな…」「あいつ、今、何してるのかな?」

そんな風に、美しい女と逢引きしながらも心はもはやそこにはなくて「あいつに連絡してみよう」と思い、女と別れた後雪絵に電話してみたのである。

自分のした過ちを謝ることもせず、そして向こうも「久しぶり」なんて明るく言ってくれて…。

こちらを恨んでいる素振りを少しも見せない。いい女だ。

図々しい哲夫はますます調子に乗って、会っていなかった何カ月かの話をまくしたてた。

その電話が盛り上がれば盛り上がるほど、やっぱり俺にはこいつが合っているんだなと勝手に確信して、てめえの非道さを棚に上げて、また会えるかななんて約束を取り付ける始末。

そして再開の日が訪れた。

哲夫はもう一度やり直したいと思っていた。

『子別れ』だって最後はハッピーエンド。心から謝れば許してくれるだろう。

もう一度手を取り合って、人生を共に歩んでいきたい。

言葉だけじゃいけない。誠意だ。自分の誠意を伝える必要がある。

本当におまえを一生離さない、大切にするという約束を形で示さねばならないと思い込んで、どうしたらいい?、そうだ、そうだ「結婚を申し込もう!」短絡的、独善的発想でもって、区役所を訪れて婚姻届けを握りしめて鼻息荒く帰宅したのであった。

夕刻、彼女がやってきた。久しぶりに夕食を一緒に食べた。

少し酒も飲んで、気持ちも大きくなったところで哲夫はついに話を切り出した。

「もう一回、やり直したい」

「………」

「おまえじゃなきゃダメなんだ」

「………」

何も言わない雪絵の様子を見て、いよいよ印籠をここで出すかとカバンを漁り、婚姻届けを出しながら、
「何だと思う?」と聞いた。

「………」

「見てごらん、婚姻届け。結婚してほしいんだ」

どうだこれが俺の誠意だ。すごい決意だろ。ひれ伏すだろ。

こんだけ尽くせば、許してくれる。

もう一度自分のところに戻ってきてくれるに決まってる。サプライズ。びっくりしたかな。

彼女はやさしく微笑んだ。

「そう言ってくれるのは嬉しい」

「じゃあ、いいの?」

雪絵は首をゆっくり横に振った。

「好きな人ができたんだ」

「えっ?」

「好きな人ができたの」

「えっ?」

じゃあ、どうするの?俺のこれからの人生はどうなるの。

だっておまえありきで考えてるんだよ。

もうすでにおまえが横にいる前提で輝かしい未来が待っているって確定しているんだよ。

それなのに、どうなるの?自分の人生台無しじゃん。

哲夫は本当に目の前が真っ暗になることってデフォルメではないのを体感した。

輝かしい人生が崩れていくその音も確かに聞いた。どうすんだよ!

違うだろ。そもそもおまえが捨てたんじゃないか。

勝手に思い描くな。エゴイスト。自分勝手。

自分で自分の人生を台無しにしたんだろ!誠意?馬鹿馬鹿しい。

誠意の証拠に婚姻届けって短絡的だし、ただ紙きれ一枚をもらうだけじゃないか。

背中に松茸のタトゥーでも入れてみなさいよ!って雪絵に言われてもいいはずなのに、彼女はそんなことは一切口にしなかった。

「嘘だろ?嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「嘘だろ?嘘なんでしょ?」
「嘘じゃない」
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ」
「嘘じゃないのよ」

哲夫は泣き崩れてしまった。涙は止まらなかった。声を上げて泣いた。

そこでやっと、哲夫は自分のしたことが取り返しのつかないことであることを知った。

はじめて絶望したのだった。

一晩中泣くという歌謡曲の表現は決して大げさではない。人は時に一晩中泣くのである。

泣いて泣いて、泣き疲れて眠るまで、泣いてってやつ。

次の日も、そのまた次の日も、哲夫は泣いて暮らした。

泣くな、支援者だろ。

悲しみを力に変えなさい。すぐにではなくてもいい。

しばらくしゃがんでいてもいい。横になっていてもいい。

でも、必ず起き上がるの。

その悲しみはきっと力になる。

あんたの仕事をする上でもっとも大切な、共感する心を育むから。

悲しみなさい。たくさん傷つきなさい。

支援者なら自分の駄目さを味わいなさいよ。

健常者とか言われて自惚れている自分の愚かさを自覚して、陳腐な鎧や偽物のプライドや思い上がりを剥ぎ取ってみなさいよ。

支援者だからって偉くなんかない。

支援者は芸人と一緒。悲しみや苦しみ、失敗、悔恨を芸のこやしにするの!

支援のこやしにするのよ!あんたの人生を仕事に生かすの!

どんな駄目さも、クズさも、こやしにして力に変えるのよ!わかった?

雪絵なら、きっとそう言うだろう。

哲夫がそう思えるようになったのは、雪絵と別れて十年経ったころのことだった、とさ。

おわり

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