『看取りを経て考える死生観4~高齢者介護の現場から~』
わたしの
土橋:「看取り」を経験する中で、人はいつか死ぬんだ、明日もどうなるか分からないんだ、ということのリアリティーを感じたということですか?
澄:「死生観」って難しいですよね。うー、やりたいことをやってやりたくないことはやらなくていいと思えたということも、例えば、病院で働いている友だちと福祉や介護について話をするんですけど、選択肢がたくさんある中で、人は毎日選択をして生きているじゃないですか?
でも、それがだんだん高齢になって身体的にできなくなって、自分で選べなくなってきたときに、それをお医者さんが決めるのか家族が決めるのかってとっても難しいじゃないですか?老衰して話せない、伝えられないというときに。人の意思決定の支援ってどの現場でも難しいと思うんです。
土橋:とっても難しいことだね。
澄:高齢の分野で言うと、ある人が食べることがすごい好きで、人生において食を楽しみに生きてきて、その人は「口でご飯が食べられなくなったらもう何もしないで死にたい」って病院で言うんだそうです。そういう人が結構いるそうです。
だけど、実際にその人が話せなくなったときに病院では例えば胃ろう(手術によってお腹に開けた穴にチューブを通し、直接、胃に食べ物を流し込むこと)など、いろんな選択肢があるんですね。それを家族が決めてしまうことも多いそうです。
土橋:そうなんだね。
澄:家族の気持ちもよくわかります。もし、私が最初から病院勤務だったら「何が何でも生かす」という死生観というのか、価値観になっていたと思うんです。
私の友だちも特別養護老人ホーム(特養)の福祉の現場で働いてから、病院勤務になったんですけど、特養で働いた経験があってよかったってずっと言っています。
福祉的な視点であれば、その人が食べたくないというのであれば、90歳を超えて胃に穴をあけるなどの大掛かりな手術をするのではなく、好きなものを食べて痛みなく穏やかに点滴も入れずに最期を迎えてもらおうという、その支援ができる特色が福祉にはあります。
もちろん場所によって、考え方によっては違うとは思うんですけど。
土橋:考えさせられますね。
澄:福祉の仕事によって大切な生き方を得られたなって思います。そしてさらにそれを担当している利用者に返していくこともできるんです。
例えば、「野菜をなんとか食べさせなきゃ」って思うよりも「好きなもの食べよっか」って思って、ご家族に「なんか餃子食べたいみたいです」って言ったら「じゃあ買ってきます」って買ってきてくれたりするんです。
本人が100歳近くになって食べたくないもの、昔は好きだったけど今は食べたくないもの、それを意思表示しているのに「これ食べないと、長生きできないよ」とは言えないし、違うと思うんです。
それができる仕事っていいなって思うんです。
土橋:そういう価値観を持っている人がまわりにいることがいいよね。
澄:そうだし、職員のそのような仕事の姿勢をご家族が見てくれているので。
土橋:自分がどこで死ぬのかって本当に想像がつかないんだけど、でも最期の時に自分を理解してくれたり、ありのままでいいよ、食べたくなければ食べなくてもいいよって言ってくれる人がまわりにいる状況で死にたいな。
澄:そうですね。煙草吸いたいなら吸えばいい。寿命が縮まっても、それが気持ちいいなら吸えばいいとかあるじゃないですか。
例えば若いカップルの喧嘩でも「彼氏が煙草吸うのが嫌だ」って話もよく聞くんですが、吸いたいから吸ってるんだし、本人が気にしないんならいいんじゃん?と思うから、自分に迷惑がかからないなら好きなように生きてって自分はなったし…。
土橋:なった?
澄:なりました。
土橋:前はそうではなかった?
澄:以前は、彼氏が私に隠れて吸っているのを知ったとき「これは無理だ」ってなったんですよ。
土橋:うん。
澄:例えば、じゃあ結婚して子どもできたときにパッとやめてくれないじゃんって。やめられないくせに、その場しのぎで「そのときがきたらやめるよ」とか…言うのはいいけど…まあ…「やだ!」って言ってました。
寿命が縮むし、お金もかかるしって今考えれば一般論を押し付けてたなって思うんです。
今は、吸いたきゃ吸えばいいし、飲みたきゃ飲んで二日酔いになってもいいんじゃん?ってなってます。私に迷惑かけなければって。
土橋:ある種リバタリアニズムでもあるのかな?そこに直結していくのだとしたら、とても興味深いですね。「今を生きる」ということとリバタリアニズムとの関連性ですね。お話を聞いていて、自分の中でその二つが背中合わせになりました。今後の自分の課題になるかもしれません。すみません、話を戻します。
澄:私の中で変化がありました。福祉の仕事を3年間する中で。親にも老後の話をするようになりました。施設に入るんだったら東京から行きやすいところにしてねって。
土橋:価値観の変化、いろんな変化があったんだね。
澄:まわりの人との付き合い方も変わりました。
土橋:ここまでお話を聞かせてくれてありがとうございました。最後に介護士を目指している人に一言もらえますか?
澄:人の人生百年のうちの最期のイベントって「死」だし「看取られ」だと思うんですよね。縁もゆかりもなかった方の人生最大の節目に立ち会えるということはなかなか経験できないことだと思うんです。もし介護、特養という道を通らなかったら自分の家族の老後について考えなかったと思います。福祉のいろんな制度を使う人の老後とか、障害のある方の老後とか考えるきっかけになりましたね。
とにかく、今、めちゃめちゃ生き急いでいてすごい充実しています。
土橋:おー、充実してるんですね。
澄:働き始めた頃は友だちになんの仕事をしてるの?って聞かれても、あまり介護をやってるって言えなくて「医療・福祉系」って答えていたんです(笑)。そのときは、利用者に自分が何かできたっていう実績…というか確信がなかったんですね。でもやっと最近「介護やってる」って言えるようになったんです。大きな変化ですね。
土橋:いいエピソードだね。
澄:全然端的に一言ではないんですが。
土橋:本当に今日は長い時間ありがとうございました。これからの活躍に期待していますし、応援しています。またお話聞かせてください。そのときはお互いがどんな成長をしているか、楽しみにしています。
澄:ありがとうございました。