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ALSのクライアントより / 土屋雅史

ALSのクライアントより
土屋雅史

こんにちは。土屋雅史(つちや・まさふみ)です。

現在64歳の私がALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症したのは48歳。

高校生と大学生の息子を持ち、働き盛りのサラリーマンをしているときでした。

ALSは進行性で治癒見込みはなく、体はまったく動かないのに思考や五感は正常という難病です。

私が告知を受けたころ、ALS患者の8割は「人工呼吸器を使用しない」と言われていて、私も死ぬ覚悟をしていました。

しかし、家族や友人の励ましで、発症から1年半後の49歳で人工呼吸器をつけました。

ALSは「全身の筋肉が動かなくなる病気」と言われていますが、この表現では一般の方にはピンとこないと思います。

たとえば、かゆいところがあってもかくことができない。痛いところがあっても「痛い」と言えない。喉が渇いても水の一口も飲めない。

そんな状態に置かれたら、みなさんはどう感じるでしょうか。

ほとんどの人は「死んだほうがまし」と思うでしょう。

そんな状態で生きるのはなぜかと疑問に思う人もいるでしょう。

しかし実際に過酷な立場に置かれたとき、私は「死にたくない」と思いました。

なぜだかわかりません。人間の本能なのかもしれません。

でもとにかく「自分はまだ40代だ。ここで死にたくない」、「生きたい」と思って、そして「死ぬことが怖かった」から。人工呼吸器をつけたのです。

そんな私に、当時の主治医は「ALSの介護は大変で、家族は悲惨なことになる。だから、あなたは長期入院できる病院に転院しなさい」と言いました。

私や家族は、主治医の言う通りにするしかないと思いました。

私は地元から離れた遠くの病院で、たった一人で、かゆいところもかけない、1ミリも動かない体のまま、死ぬまで過ごすしかないんだとあきらめました。

「在宅生活」ができるとは、まったく思えませんでした。

そんなとき、いつも私を励ましてくれた母が突然死しました。

私は葬儀にも行けません。

入院中の病院のベッドの上で泣いても、自分で涙を拭くこともできず、手を合わせることもできません。

このことがあって、私や家族の意識が変わりました。いつ死ぬかわからないけれど、それまでの間、本当に遠くの病院でたった一人でいるしかないのか。ほかに方法がないのだろうか、と思いました。

それから、ほかのALS患者の家族に相談したり、介護の情報を集めることにしました。

私は「まばたきだけで動く特殊なパソコン」を必死で使って、支援してくれそうな医療者にメールを出しました。

その結果、在宅生活を支援してくれる医療者、介護事業者の方と出会うことができ、今に至っているのです。

この経験から、医療者の皆様にお願いしたいのは、患者の意志や気持ちを慎重に確認してほしいということです。

「家族の負担」や「介護体制がない」というのは確かに問題でしょう。

でも家族がいない人、いても介護できない人もたくさんいて、そういう患者のためにほかに方法はないのか、少しでもいいから一緒に考えていただけるとありがたいです。

最初から「難病だから方法がない」と決めつけず、一緒に可能性や希望を探していただけると、私たち患者にとっては本当にありがたいことだと思います。

私は、在宅生活を選ぶと決めて、それを当時の主治医に伝えたときのことを思い出します。

「遠くの病院で長期入院」の予定を変えることになるので、反対されたり、怒られたりするのかと心配でした。

しかし主治医は「俺に自分の意思を言えるようになったとは君も成長したもんだ。医者冥利に尽きるというもんだ」と言い、私の再スタートを応援してくれました。

あとから考えると、人工呼吸器をつけたころ、この主治医から「強くなりなさい」と何度も言われていました。

でも私は病気を受け入れられず、悲観することも多く、主治医の「強くなりなさい」という言葉の本当の意味がわかっていなかったと思います。

そんな私が、自分の意志で在宅生活を決め、そのために必死になりました。

主治医は、そういう患者の決意を後押しするために「強くなりなさい」と言ってくれていたのではと思い、当初反発していた私も、今はただただ感謝しています。

ここからは、現在の私の在宅生活についてお話させていただきます。

現在、1週間で約40名の方に支援に入っていただいています。

内訳は、
ヘルパーさん:22時間体制で週間23名が交互に33回入ります。
訪問看護師さん:週間4日8回10名が交互に入ります。
パソコンシステム担当者さん:月2回とイレギュラー対応時は駆けつけてくれます。
訪問入浴チーム:週間2回10名が交互入ります。
在宅診療の医師:週間1回とイレギュラー対応時は駆けつけてくれます。
ケアマネさん:月2回入ります。
などです。

コミュニケーションはまばたきで全てを自分で操作するパソコン(テレビ・ビデオ・音楽・ネット・メール・その他)を習得し、会話もヘルパーさんを介してのエアー文字(50音の言葉を読み上げてもらい、まばたきで伝えたい言葉を合図する)を駆使しています。

在宅生活では「意思伝達」がポイントです。

これから在宅生活を目指す方(支える方)には、そのための環境整備を進めてほしいです。

介護体制はケアマネさんが整備してくれますが、「全部お任せ」ではなく、自分で主体的に考えたり、情報収集することも大切です。

私は思考をフル回転させ、情報を集め、質問し、疑問点はすぐ解決するようにしています。

(興味を持ったネタはすぐにネットで調べて動画で見て、メモし、パソコンに残します)

いろいろ依頼や指示することも多いので、ヘルパーさんには「百本ノック!」と言われています。

楽しいことは多いですが、つらいこと、悲しいことも多いです。特に「話せない」のは本当にストレスがたまります。

あたりまえですが、家族だってストレスがたまります。

妻は仕事を持っていて毎日忙しいので、些細なことでケンカになることもあります。

周囲の人たちから、「我慢して」や「感謝しなさい」と何万回も言われてきて、本当にそのとおりだと思います。

ただ、どんな言葉でも言われたら言われっぱなしで、自分で何かの意見を言ったり、反論したりできないと、「死んだほうがよかったな」と気持ちが折れてしまうこともあります。

そういう「心のサポート」というか、患者だけでなく、家族の気持ちにも寄り添ったり、患者と家族のそれぞれの立場を理解して支援していただけるとありがたいです。

また、在宅生活にはリスクもあります。

10年前の東日本大震災で、私の家は1週間停電しました。

電気がないので、人工呼吸器も暖房もすべて使えません。

私の場合は、家族3人で24時間、人工呼吸器の代わりに押す風船型の、アンビューバックをしていてくれたり、近所の人が自家発電機を貸してくれたり、訪問医が毎日、発電機を動かすためのガソリンを運んでくれていました。

たくさんの方の協力で命をつなぐことができましたが、これから在宅生活をする方には、イザというときの心構えや、リスクに備える情報も大切だと思います。

災害時のリスクだけでなく、家族の肉体的・精神的負担、金銭的な問題なども考える必要があります。

私の場合、年間4回90日、妻の介護負担を減らすために病院へのレスパイト入院制度を繰り返し利用しています。

金銭的問題には介護保険制度(車いす製作やレンタル物品含む)、重度訪問介護制度を利用しており、かつパソコンシステム維持向上には難病支援コミュニケーション制度で対応しています。

今では2人の息子も独立し、妻と二人暮らしです。在宅生活も12年が過ぎました。

まだまだ自分の甘さや未熟さ、改善しなくてはならないことはたくさんあると思います。

しかし、支えてくれる家族や友人、医療者、介護事業者の皆様と力を合わせ、自分なりの人生を歩んでいきたい。

一期一会を大切にしたい!

本日のご縁の機会がまた皆様と会うことのきっかけとなれたら幸いです。

プロフィール
ホームケア土屋仙台 クライアント
土屋雅史 (つちや まさふみ)

■自己紹介
いちおう仙台だから楽天ファンですがユニホームは全12球団40枚、もってます(笑)!

僕はバレーボールの日本公認審判とスキューバダイビングと、スキーのインストラクターです。ライフガードもしていました。

バレーは38年やってて、選手で国体4回でました!生まれは伊豆の伊東です(静岡県)

僕の仕事はアパレルでした。東京ディズニーランドが好きで120回行き、海外のディズニーも行ってきました。

海外が好きでアメリカにも住み、ヨーロッパも仕事で何十回もいきました。でも海は沖縄が一番きれい!ゴルフは月3回。国分町(*^-^)もよく行きました。

お酒の雰囲気が好きなO型のロマンチストでーす。(笑)

僕も何回もNHK、TBS、テレビ朝日、仙台放送にでました。福祉大で講義もしてます。2022年9月29日は呼吸器をつけての13年記念日(発症してからは16年)。在宅で頑張ってます。

難病は不幸だけど、僕を応援してくれるいっぱいの人達の輪が広がっていくのはとっても嬉しいことです。

でもこの病気はモチベーションの維持が不可欠です。パソコンは瞬きで操作してます。

ちなみに好きだった食べ物はしょうが焼き定食、お寿司、うな重、カレー、チャーハン。有村架純、リトルグリーモンスターがお気に入り。

050-3733-3443