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幽霊の季節 / 牧之瀬雄亮

幽霊の季節
牧之瀬雄亮

夏至の盛りの太陽が、さっさと梅雨の雲を溶かしてしまったようで、東京の西の方は身も蓋もない夏の盛りです。

八月まで暑いようでいて、その実夏至は通り過ぎているので、実際お盆のころには秋の気配が暑さの中にしっかり潜んでおり、一見、眩しく明るいようで暗い、映画の『スタンドバイミー』や、近頃のはやりで言えば『ストレンジャー・シングス』のような、屈託のないやわらかな笑いの、縦にも横にも無限に感じられた夏休みが、また大人社会と同調して収斂の気配や、これからこれを繰り返していくのだという奥行きも感じられたりする、時間感覚のあやふやなあの期間が、また来るのだなと、私自身もどこか期待をしているわけです。

こういう時期に怪談が滑り込みやすいのは、そういういわれもあるだろうな、などと、ぼんやりしています。

いつの時代にも、こどもの周りには怪談や妖怪や、架空の生き物の話があるようで、先日も息子に、どこで聞いたのか、「とうちゃんは『耳なし芳一』しってるか」と尋ねられ、「知ってる」と答えると、「芳一は耳をいかにして奪われたか」ということを尋ねるので、それも答えると、顔の奥で血相を変えて「なんで」というので、頭からおしりまで、平板な調子で話したところ、こどもながらに、「しゃれにならんはなしじゃねえか」と思ったようでした。

私が幼いころの怪談で、印象的であったものと言えば、紙芝居やNHKの人形劇で見た『杜子春』『蜘蛛の糸』、『まんが日本昔話』の怪談物、そして第二期『ゲゲゲの鬼太郎』(夢子ちゃん出ないやつ)などだったと思います。

そういうものと交通事故的に出会っていたと思います。

特に親戚のお姉さんが読んでいるホラー漫画などは、チラ見するだけで恐ろしく、その雑誌が自分の近くにあるだけで呪われるんじゃないかと思うほどでした。

今、こどもらと時代が四つほど違うので、現代キッズがどんなものに接するのかと見てみますと、妖怪的な変な生き物が出る話では、『ポケモン』『妖怪ウォッチ』という、まあなんとも朗らかなものが並びますが、「朗らか快活だけでは不十分だ」と、現代っ子らの無意識が求めるのか、このところの『仮面ライダー』では、加藤諦三大先生的な、登場人物ごとに、その人物の社会的・外向けのペルソナで覆い隠そうとしている内面心理をえぐって顕在化させるという、この頃の大人ならすぐ逃げ出しそうなアプローチがなされていたり、なかなか手の込んだものもあります。

養老孟司さんや、武田邦彦さん、いわゆる気のいい爺様たちの話を聞いていると、現代の人々は「死から遠い」と言います。

確かに、自分が生まれた田舎にいれば、一族郎党親戚友人連中がおりますから、その中には生まれそうな人から死にそうな人までいるわけで、さらにいえば単純に、自分に届く「死のニュース」が多いわけです。

私も幼いころ、祖父母の縁者が亡くなって、家に私一人置くわけにもいかず、葬式の家に連れて行かれて、同じように連れてこられたこどもらと、鯉に石を投げたり、葬式料理をつまんだりして、こどもの私には、一体誰が死んだのか分からないまま、酒を飲む男衆と、得手不得手を上手に組み合わせて台所を回す女衆のエネルギーに、半ば圧倒されながら過ごしたものだったと思います。

大人たちもこどもが葬式の場でうろちょろしていることに慣れていたし、それが自然でした。

誰それが車にはねられて死んだ、誰それがマムシに噛まれた、そんな井戸端会議ネットワークの、原理的に言えば伝言によって運ばれる死のニュースは、リアリティもあったし、温かみもあったと記憶しています。

時には死んだ人間の家族に対して、連絡網のどこかの段階で誰かが載せた慰めの気持ちが乗って、それごと伝言されていくこともあったし、その逆もまたあったと思います。

そして「死のニュース」のような新規情報以外にも、自分の住まいの近所どこそこに、「ここは誰それがなんたらして死んだところじゃ」とか「あそこの山で滑ってびっこになった」とか、一見恐怖を伴う情報ですが、現実的にいいことと悪いことというのは起こることに区別がないはずですから、都会にいると「危険がいっぱいなんだ、田舎は」と思うかもしれませんが、これは認知のゆがみのなせる業で、都会にいたっては車はいっぱい走っていて田舎より危ないし、電磁波の影響もあるでしょうね。都会にだって人間関係のもつれはあるのです。

田舎の人にとっては、そんな「情報」は生活の線引きのようなものなのだと感じます。

では都会は何故、危険がないように「見える」のかと言えば、これはもう商売の為だろう、という結論になります。

賃貸や中古の不動産を手に入れようとするとき、「誰かが死んだ場所」というのは一様に忌避される傾向は、やや弱まってきたと思いますが、今でもあるでしょう。

なぜなら江戸時代から考えて、誰かが大きなけがをしたり死んだ物件や土地もあるでしょうが、わざわざそれを不動産情報に載せていないことを考えれば、危険や死の情報は「あるかもしれないがないものとする」というような扱いなのだということは言えると思います。

マイナス要素を極端に嫌う人でも、マイナス要素に気付かないのであれば気にしようがありません。

都会は死が遠いかというと、人数が多い分、死の数は当然多いはずだけれど、見ないようにできることが多い、見ないようにしている。というのが本当のところなんでしょう。

田舎で鉄道自殺などあれば、「どこそこの誰それで、私は同級生だった」とか、そういうこともわかりますが、都会の「人身事故」では、「“ジンシン”で電車が止まって違う路線で職場に行った」なんてことになります。

東京の西には“療育病棟”というものが数多くあり、そこで息を引き取る人々の死は、おそらく電話か何かで伝えられることになるのだと思います。死に至るまでの道程は、都心では起こらないようになっています。

まして生活の中ではなおさらです。

さらに言えば、死の瞬間だけが死ではないわけで、生まれたときから死の可能性を内包して私たちは生きているのです。

明日死なない保証などどこにもないのです。

小腸の細胞などは、一週間もあればまっさら、新しいものに入れ替わってしまいます。

入れ替わるということは、あったものが死んで、次のものが生まれているということです。

都会には何があるのでしょうか。

実はそのとき流行りの「認識」がうろついているというだけなのではないでしょうか。

いわんや、それが、「都会特有の幽霊」といえるでしょう。この幽霊、テレビや新聞に憑依して地方にも行くらしいですけど。

老後二千万円問題なんて言いますが、食べるものと雨風しのげるところと着るものがあれば、よしんばそれらを自前で作ることができれば、そんなもの問題ですらないのは自明のことで、むしろやるべきは認知症予防や、相互に助け合えるコミュニティづくりではないか。と思います。

インフレが起きたら「老後5千万円問題!」あるいは「老後100兆円問題!!」とかになるんでしょうか。ワハハ。

田舎に対してはケチのつけられ方の蓄積があるのでしょうね。歴史がある。

都会人の中に長い間共有されてきた反田舎の応答集という引き出しもある。

私のこどものころ、方言を笑うというコントを、よく見た記憶があります。

それも都会の幽霊の一つなのだろう。と思います。

この夏、自分にどんな幽霊が憑いているのか、よく観察したいと思います。

プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)

1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。

思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

050-3733-3443