ステップアップ講座『明日は何曜日?』 序 / わたしの

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ステップアップ講座『明日は何曜日?』 序
わたしの

子ども〜認知症〜知的障害

明日は何曜日?
みなさんは分かりますか?

ある子どもが…そう…その子は3歳です。毎日のように質問をしてきます。

「明日、保育園?」

お母さんは答えます。

「明日は月曜日だから保育園よ」

「月曜日って何?」

「保育園がはじまる日よ」

「…はじまる?」

お母さんは頭をフル回転させて、どうしたら子どもに伝わるのか、分かりやすい説明の言葉を探します。

「ほら、保育園のお布団に布団カバーを付ける日」

「あっ、お昼寝のお布団を用意する日?」

「そうそう!」

次の日、また子どもが質問します。

「明日、保育園?」

「明日は火曜日よ」

「火曜日って保育園?」

「月曜日から金曜日が保育園で、土曜日と日曜日はお休みよ」

そして、土曜日の朝になって子どもは聞きます。

「今日、保育園?」

「土曜日はどうだっけ?」

「………」分からないようです。

どうして分からないのかというと、この子は、まだ曜日の概念を理解していないからです。

3歳だと、曜日の概念を理解していない子どもが大半だと思います。

意識しなくても自然と頭に浮かぶくらい当たり前に、月曜日の次に火曜日がきて、火曜日の次に水曜日がくることを我々の多くは知っています。

日曜日までくると、また月曜日に戻るということを理解しているでしょう。

曜日以外のことも注目してみましょう。

例えば「数字」や「文字」です。

3歳ですと、数字や文字もまだうまく読めませんし、使えません。

それが数字や文字だということは分かっているようです。

「いち、さん、じゅう、なな!」といった具合に、数を数える真似はします。

しかし、「いちはどれ?」と質問してもよく分からないようです。

「いち」が「1つ」を表していることもまだ分かっていません。

文字もそうで、それがどうやら大人が使いこなすとても魅力的な記号(魔法のような)ということはうすうす分かっているようですが、それぞれの文字と文字の区別はまだまだ曖昧です。

もちろん子どもによって遅い早いはあるでしょうが、子どもによっては3歳の後半になってやっと自分の名前の文字だけは区別がつき、指で指し示すことができますし、完全ではないですがそれっぽいものを書くこともできるようになってきます。

服や靴やカバン…どこにでも自分の名前が書いてあるので、自分の名前は観察する機会も多いです。

だから気づいたんでしょう。

大人が使う魅力的な記号の中に自分の名前の記号が混ざっていることを。それを寄せ集めるとどうやら名前になるらしい、と。

あいうえおの表をつらつらと読むことができますが、例えば「し」を指さして「これは?」と聞いても答えられません。

「おえういあ」のように、反対から読むこともできません。

つまり字を読んでいるのではなくて、音で覚えているのです。

やがて雑誌や絵本などを眺めながら、そこに書かれているものが「文字」か「文字ではない」かを選別するようになり、その「文字」の部分はなんて書いてあるのかということを気にし始めます。

「なんて書いてあるの?」と聞くので、そこを読んで答えます。

これが例えば、2歳の子どもであれば、文字とそれ以外の見分けが付いていないので、本を読むときも「文字なんて知るか!」って感じで自信満々で目を向けています。

ところが、3歳になると「文字」が書かれていることは分かっていますので、そこになんて書いてあるのか気になりますし、読んであげても意味が分からないことも多く、打ちひしがれることもあるようです。

「読めない」・「分からない」と直面するのです。

そして「おもしろくない!」と言って自暴自棄になる場面もでてきます。

そこが「天真爛漫な2歳」とは大きく違う部分でしょう。

繰り返しになりますが、2歳児は「分からないことが分からない」から自信満々です。

そんな2歳児の世界に降りていって、同じものを見て、一緒に遊びたいと私は願ってきました。

しかし、自分の子どもが3歳(4歳になりかかっていた)のある日、一緒にお蕎麦屋さんに行ったんですね。

「きつねうどん」とか「もりそば」とか短冊状の紙に書かれたメニューがお蕎麦屋さんの壁にずらっと貼られていたんです。

それを見て「なんて書いてあるの?」と聞かれました。

私はそのとき、はじめてこの子がメニューを読めていなかったんだという極々当たり前のことに気づかされました。よくよく考えれば読めるわけがないのです。

しかし、これまでは「なんて書いてあるの?」という質問をされることがありませんでした。

席についてから注文まで、流れるようにスムーズに進んでいたのです。

口は達者なので「つめたいおそばがいい」とか「おいしそう」とか言っていました。

器用に箸やスプーンを使って食べ、最後はお店の人に「ごちそうさま」「おいしかったです」とあいさつしていました。

そんな何度も行っているお蕎麦屋さんではじめて「なんて書いてあるの?」と聞かれたとき、私はびっくりしてしまいました。そして、はっとしたのです。

子どもは私と同じようには世界を見ていない。
至極当たり前のことです。

でも、その当たり前のことに人はなかなか気づけません。

文字や数字など概念のない世界への想像力が自分には足りていなかったと思いました。

もし足りていたとしても、その世界へ降りていくことなんて不可能であることを知りました。

本当に子どもと同じものを見ていたのか?同じように感じていたのか?自問自答しました。

少しだけ考えすすめたことを書かせてもらうならば、上記のように私が子どもと一緒に経験を重ねることを「間主観的な関わり」と言います。私はどこかで「間主観的な関わり」とは「同じようにものを見る」ことだと思っていたようなのです。

ところが、よくよく考えてみるとそうではないことに気が付きました。

「同じように見る」のではなくて、「同じものを見て、それぞれが感じたものを交換し合う」ことなのです。

「ちがい」を感じ合うことと言ってもよいかもしれません。

「同じように見る」ことを目指せば、それは無理が生じます。

どこかで「同じように見よ」ということに反転し、いつのまにか「間主観」ではなくて、現在の教育でも陥りがちな一方的な押し付けになってしまう恐れがあります。

つづく

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