クライアントとして土屋に望むことは何ですか?
青木健太
某企業のコマーシャルで「そこに愛はあるんか」というキャッチフレーズがある。
私はこの言葉をアテンダントの方に問いたい。
私は後天性の障害ですが、受傷するまでは自分が介護をされるとは思いもしなかった。
それに受傷しなければ介護というものと向き合う事もなかったと思う。
食事介助や排泄介助、何をするにしても介助が必要となった今思うのは、どんなに近しい人間でも快適な介護を提供するのは困難だと感じる。
しかし一方で、クライアントとしてはストレスが無く、思った事を言葉にしなくてもアテンダントが先に行動して欲しいと思う。
ただ行き過ぎた配慮は正直ありがた迷惑と感じることもある。
もし自分が介護をする側であれば言われた事をやり、言われなければ行動しないであろう。
しかし介護をされる側からすると高いクオリティを求めてしまう。
そう、ワガママであり矛盾しているのです。
アテンダントとクライアントは対等であり、どちらかが上の立場になってしまうと良い関係は築けないと思っている。
しかしながら自分の思い通りにいかないとストレスが溜まる。
例を挙げるとすれば、掃除機のかけ方でも同じ部屋を掃除するにしても5分で終わる人や20分程時間をかけて掃除する人もいる。
「もっと丁寧に」などの指摘はしない。
それがその人なりの仕事の仕方だと思うからです。
その他に家電やお手洗い、消耗品など使用の際に何も言わない人と、一声かけてから使用する人がいる。
後者は嫌な気はしない。
アテンダントといえど他人である。
長時間同じ時間を過ごすからこそ些細なコミュニケーションを大切にし、少しずつ距離を縮めていくことが必要だと思う。
それは逆も同じで、当たり前のようになってしまっている事にもお礼やお願いの言葉は忘れないよう心掛けている。
慣れてしまい言い忘れてしまう事は当然ある。
しかし慣れるからこそ一声が必要だと思うのです。
塵も積もれば山となるというように、小さな積み重ねが関係を構築していく。
積み重ねるのは一生だが、崩れるのは一瞬だ。
クライアントが高いクオリティを求め過ぎだと言う方もいるでしょう。
その人の事を理解するのは極めて難しく、自分でさえも自分が分からなくなる時がある。
しかしそこに”愛”があれば良い関係を構築できるのではないかと考える。
前述した通り、逆もまた然りだ。
仕方なく仕事だから介護をしている方も少なからずいるとは思いますが、そういう方々にもお願いしたい。
作業的にならず、少しの愛を持って接して欲しい。