「ぶつかる自由」
片岡亮太
先日、稽古部屋として使用している実家の自室で、鉄パイプ製の和太鼓の台に思い切り額をぶつけました。
六畳の室内に、大量の和太鼓や各種パーカッション、台や撥(ばち)、さらに電子ピアノや机も置いているので、練習内容によっては、部屋の中に足の踏み場がなくなることがよくあります。
そのため、楽器につまずいたり、顔や手足を何かに打ち付けてしまうことは日常茶飯事。
視覚障害者であるがゆえの宿命とも呼ぶべき痛みに苦笑いしながら、おでこをさすっていた時、不意に、これまで数えきれないほど繰り返してきた、物にぶつかる経験と、それに伴う心の動きの変遷がよみがえってきました。
弱視だった10歳までの間、視力が低いうえに、左目しか見えておらず、両目で距離感を図ることができなかった僕は、何もないと思い、お店のガラス戸や校庭の鉄棒等に顔から突進することが多々ありました。
幼かったことや、一般の幼稚園と小学校に通っていた影響で、視覚障害についての認識が希薄だったあの頃。
「ぶつかる」ことは、周囲との差を意識することと同義。
「なぜ自分だけが?」
悔しさに似た感情を抱きながら、驚きと痛みで泣いていたことをよく覚えています。
その後、突然の網膜剥離によって、ほとんど光も感じないほどの全盲になってからは、勝手知ったる我が家でさえも、半開きになっているドアに気づかず激突したり、壁との距離感がつかめず、頭を打ってしまうことが増え、ぶつかることが心に与える衝撃も大きくなりました。
盲学校(現、視覚特別支援学校)への転校を機に、手探りや白杖(はくじょう)の効果的な使用法を学んだことで、ある程度危険を回避することができるようになってからも、街路樹や、白杖では察知できないトラックのサイドミラーなどに眉間をぶつけ、「見えていたらこんなことはなかった」と、失明が僕にもたらした痛みを、恨めしさとみじめさが混ざったような感情で受け止めることが度々。
変化が生じたのは、全国から集まった友人たちと共に、都内で寄宿舎生活をしていた高校時代。
地元の小さな盲学校とは異なり、弱視から全盲まで、多様な視力を持つ数十人の仲間たちと過ごし、出会い頭に友達とぶち当たって、それが会話のきっかけになったり、日常的に一人で外出し、買い物等へ出かけるようになり、小さな擦り傷やたんこぶをあちこちに作りながら歩くことに抵抗がなくなるうち、いつの間にか、何かにぶつかって心がざわつくことはなくなっていました。
大学への進学を機に一人暮らしを始め、通学のため、ほぼ毎日1時間以上一人で歩くようになると、白杖の使い方が熟達し、さらには、音の響きや空気の流れの変化を感じ取ることによって、停車している車や大きな電柱などなら、よけられることを発見し、痛い思いをすることは激減。
このようにして、年を追うごとに「ぶつかる」こととの付き合い方もうまくなっていきました。
ところが、どれだけ感覚を研ぎ澄ませても、全ての障害物を避けられるわけではないことと同様、どうしてもぬぐい切れないものがありました。
それは羞恥心。
学内や街中、駅等で、柱や看板にぶつかった僕を見た人から、「大丈夫ですか?」と声をかけられると、どんなに痛くて、見る見るうちに患部が赤く腫れあがっていたとしても、平然とした顔をしていました。
きっと、障害のない人が大多数を占める中で生き抜くならば、強くいなければいけない、同情や心配の対象になってはいけない、そのような頑なな気持ちがあったのでしょう。
失明から20年以上が経ち、演奏や講演を通じて、視覚障害と共に生きているからこそ得られた見地から言葉を発信している現在、僕にとっての障害とは、かつてのように欠損や他者との違いを象徴するものではなく、そこから生じる種々の困難やネガティブな感情も含め、僕の人生を唯一無二のものに彩る存在のように感じています。
そんな最近は、冒頭の稽古部屋での出来事はもちろん、外出時の移動中であっても、何かにぶつかれば「いてっ」、「おっと」、「ワオッ!」等、衝突の驚きや痛みに対して無意識に声が出ます。
単に年齢に伴い、恥ずかしいという感情が麻痺しているだけかもしれませんが、僕は、「ぶつかる」という、障害者であるために発生する面倒ごとを、過度に悲観するわけでも、逆に、なかったことのように取り繕うわけでもなく、率直に反応できている今の自分が好きです。
そしてそうなれるまでに至れた、これまでの日々と経験、重ねてきたたくさんの傷やこぶを誇りに思います。
2011年、コロンビア大学の大学院で、障害の有無や人種の違いなど、多様な児童・生徒が共に学ぶ「統合教育」を切り口に「障害学」を学んでいた時、「サクセスフル・パーティシペーション」や、「フル・パーティシペーション」という言葉がよく使われていました。
障害がある子供たちにとって、成功的で完全な参加を可能とする授業や学校の在り方とは何か。
つたない英語力での理解ではありますが、日本語で言うならばそのような意味の議論。
その中にいて思ったことは、学校だけでなく、社会の中で生きていくうえで、もしも「成功的な参加」があるのだとしたら、それは、失敗を恐れることなく挑戦できたり、安心して、転んだことや壁にぶつかったことを「痛い」と言葉にできたうえで、そこからまた歩き出せる状況ではないかということ。
近年、電車の利用時に、当たり前に誘導を申し出てくださる駅員さんが増え、移動における安心と安全が確保しやすくなりました。
でも一方で、「今日は大丈夫です」という僕に、「それでは何かがあった時、困ります」と迷いなく返答する人も増えています。
物理的、法的、精神的障壁を除去していくことは、多様な人材が活躍できる社会の実現において不可欠であり、今後一層推進されるべきです。
けれど、バリアフリーやユニバーサルデザイン、種々の支援策が、ユーザー自身の選択権を奪い、転ばぬ先の杖どころか、「転ばせない」手段として機能してしまうのだとしたら、僕たちはそれを、社会参加の成功と呼べるのでしょうか?
多くのバリアが取り払われた先に見える世界には、痛みを排除した「ぶつかれない不自由」ではなく、自らの意思で道を選び、成功と失敗を繰り返しながら、その人らしい生き方を模索できる、「ぶつかる自由」が広がっていることを僕は願います。
プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。