「言葉と障害」~3
片岡亮太
先日、不意にこんな想像が頭をよぎりました。
僕たちの体の中には、決まった数の「ありがとうございます」や「ごめんなさい」の球が詰まっていて、その中から一つずつを取っては、誰かに手渡している。
その球は、誰かから感謝されたり謝られたりしなければ補充できない。
自分だけが「ありがとう」や「ごめん」を言っているだけの場合、足りなくなった球を補うために費やされるのは、プライドや自信など、その人をその人たらしめるために大切な心のエネルギー。
SNSでの投稿がきっかけとなり考えるようになった「障害」と「言葉」を巡るあれこれ。
実は、僕がこのテーマに目を向けた時、一番最初に書きたいと思ったことは、障害があることと、「感謝」や「謝罪」を表す言葉を使う頻度の関係についてでした。
障害と共に生活していると、日常のあらゆる場面で「ありがとうございます」とか、「ごめんなさい」に類似した言葉を口にする必要が生じます。
これは、おそらく障害種別を問わずにあてはまること。
僕もその例外ではありません。
そんな生活について考えていた時、冒頭のイメージが唐突に思い浮かんだのです。
そして、この荒唐無稽な想像、僕には不思議と腑に落ちるものがありました。
全盲である僕は、友人知人だけでなく、見知らぬ人に誘導していただくこと、親切にしていただくことが多々ありますし、点字訳のボランティアの方にお願いごとをした時や、家族に最寄りの駅まで車を出してもらった時等、独力では難しいことをサポートしてもらうシーンが数え切れないほどあります。
そのような瞬間と、感謝の言葉は常にワンセット。
また、一人で歩いていれば人にぶつかってしまうことや、白杖(はくじょう)で足を引っかけてしまうことなどが避けられないし、駅のホームやお店のレジのように、列ができている場所で、気が付かずに先に並んでいる人を抜かしていて、それを指摘された際など、意図して行った行為か否かに関係なく、謝る必要がある場面も日常茶飯事です。
実際に数えたことはないので確かなことは言えませんが、おそらく毎日最低でも10回は「ありがとうございます」や「ごめんなさい」を声に出しているでしょう。
メールやLINEのメッセージまで含めたら、その数はさらに膨れ上がります。
それは、弱視だった頃も同じ。
当時通っていた一般の小学校のクラスメイトが何かを手助けしてくれる度に、「ありがとう」と言っていたし、自分の物と間違えて人の荷物を手にしていた時や、担任の先生から、落とし物を注意された時など、「ごめん」とか「すみません」を言うのがしょっちゅうでした。
自己啓発やビジネスマナー、コミュニケーションや心の健康などに関連した本を紐解けば、「どんなに小さなことでも感謝を伝えられることは大切です」とか、「人間関係を良好に保つためには、即座に謝罪できることが大事」のような文章が多数見つかります。
ということは、障害を理由とした必然性があるとはいえ、誰かにお礼を言ったり謝ったりする機会をたくさん持てることとは、大なり小なり、人としての成長や成熟に繋がっている部分もあるのかもしれません。
ただ、「ありがとうございます」も「ごめんなさい」も一方的に口にするだけだと、やがてその言葉が「自尊心」を削っていきます。
実際僕は、子どもの頃から、「感謝し過ぎて疲れた」
そんな思いに駆られることや、「なんでしょっちゅう謝っているんだろう」と、どんよりした感情に全身が満たされていくことが時折ありました。
そういう時には大抵、「人と関わることがしんどい」という精神状態がしばらく続いたものです。
あれはもしかすると、「ありがとうございます」と「ごめんなさい」の球切れだったのかもしれません。
そう考えると納得がいきます。
舞台をはじめ、人前に立たせていただくことの多い今の僕には、本当に幸せなことですが、数十名、数百名単位の方から感謝の言葉をいただくチャンスが頻繁に訪れます。
また、仕事上のやり取りの中で、「大変失礼いたしました」のような言葉をいただくことも少なくありません。
そのように、感謝されたり謝られたりする機会が定期的に訪れている現在、以前のようにお礼や謝罪に、抵抗を感じることがなくなりました。
ちょっとしたことにも、笑顔で「ありがとうございます」と言っているし、歩きスマホをしていた人に正面からぶつかられたとしても、「ああ、ごめんなさい。失礼しました」と、スムーズに伝えられている気がします。
一概に言えることではありませんが、障害のある人とない人とで、「ありがとうございます」と「ごめんなさい」の球を消費する速度を比較したら、圧倒的に障害のある人の方が早い、僕はそう考えています。
それは、障害のある人が社会の中においてマイノリティである以上、ある程度仕方がないのかもしれません。
では、「球の補充」についてはどうでしょう?
昨今、障害を理由とした、お店や公共交通機関、各種施設の利用拒否が発生し、そこに当人や障害者団体が声を上げたことが話題になると、その内容がいわゆる「まっとうな主張」だったか、やや行き過ぎたものだったかを問わず、ネット上に溢れるのは、共感や同情の声よりも「もっと感謝しろ」とか、「迷惑をかけて、申し訳ないと思わないのか」という声です。
就職や職業選択をはじめとする社会参加に関しても、まだまだ分厚い壁が立ちはだかっているのが現状。
ややきつい書き方になりますが、今の日本において、障害のある人とは、「ありがとうございます」と「ごめんなさい」の球を消費する側に追いやられがち、そう言わざるを得ません。
障害のある人ばかりが、一方的に「ありがとうございます」と「ごめんなさい」の球を使い、補充のタイミングを持てぬままに球切れになってしまって、最終的に「自尊心」という、心の核にあるエネルギーをすり減らすことで足りない分を補うことを余儀なくされてしまうのだとしたら、それは公平な社会ではありません。
そして、そんな状況下で、「自分らしく生きる」ことを模索し続けるなんて至難の業。
だからこそ、障害の有無を問わず、誰もが当たり前に生活し、働き、活躍できる環境と社会構造を、僕たちは目指す必要があるのではないでしょうか。
もし今皆さんの周りに、元気のない人がおられたら、ぜひどんな小さなことでもいいから、「ありがとう」を伝えて、球の補充、手伝って差し上げてください。
それが元気の源になる、そんな可能性を僕は信じます。
この文章を読んでくださっている皆さん、「いつもありがとうございます!」
(完)
◆プロフィール
片岡亮太(和太鼓奏者/パーカッショニスト/社会福祉士)
静岡県三島市出身。 11歳の時に盲学校の授業で和太鼓と出会う。
2007年 上智大学文学部社会福祉学科首席卒業、社会福祉士の資格取得。
同年よりプロ奏者としての活動を開始。
2011年 ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として1年間単身ニューヨークで暮らし、ライブパフォーマンスや、コロンビア大学内の教育学専攻大学院ティーチャーズ・カレッジにて、障害学を学ぶなど研鑽を積む。
現在、国内外での演奏、講演、指導等、活動を展開。
第14回チャレンジ賞(社会福祉法人視覚障害者支援総合センター主催)、
第13回塙保己一(はなわ ほきいち)賞奨励賞(埼玉県主催)等受賞。