転職たくさんしてきましたけど、何か聞きたいことありますか?(前編)
中村誠司
介護職は転職先に選べるか!?
「選べばいいんじゃないかな。」としか答えようがない問いであるが、あえてこの問いに真摯に向き合ってみようと思う。
転職。我ながら、ふりかえれば転職を繰り返している人生である。
高校を中退して社会に飛び出したのが 18 歳のとき。
学生時代にもバイトはしていたが、初めての就職はパチンコ屋であった。
正社員として雇っていただいたのだが、同僚のベテランの社員が同じ給料で働いていることに衝撃を受けたことを覚えている。
どうやら役職がつかなければ給料は増えないということのようだが、ベテランさんたちは平社員のほうが居心地が良いのでこのままのんびりやりたいとのことであった。
私はすぐに辞めてしまったので、偉そうなことは言えないのだが、それはそれでちょっとやだなぁと思ったことを覚えている。
パチンコ屋を辞めてすぐ水商売の世界に入った。(まだ未成年であったが、おおらかな時代のことである)
時を少し戻そう。
私は、幼少の頃より演じることが好きだった。
いつか舞台役者としてメシを食っていくのだと、プロの役者になるのだと、自分の人生にはそれしかないのだと、舞台の上で生き、舞台の上で死ぬのだと、そう固く心に誓って学校を辞めて家を飛び出すに至る。若気の至り、ここに極まれりである。
学生のころから部活動(演劇部)だけでなく、地元の劇団にも参加して舞台に立っていたこともあり、正社員として就職してしまうと舞台が遠ざかっていく感覚に襲われ、パチンコ屋もすぐに辞めてしまったのであった。
さて、水商売の世界に飛び込んだのであるが、私が選んだ次なる職場はショーパブであった。
いわゆるニューハーフのお店で、ダンスやコミックのショーをお客様に楽しんでいただくお店である。
お店ではボーイさんの仕事を覚え、やがて接客も覚え、ホストとしてデビューするのであるが、ショータイムが始まると体がうずいてしかたがない。
なにより、心がうずいてしかたがなかった。
そこにはエンターテイメントがあったのだ。舞台人の血が騒いでしかたなかった。
そんな私を見て、ママが「あなたもステージに立ちなさい」と声をかけてくるまで、全く時間は必要としなかった。
熊本の狭い繁華街の小さなお店の小さなステージ、そこが私にとってのプロのショーダンサーとして、プロのエンターティナーとしてのデビューであった。
プロとして仕事をさせていただき、お金を稼がせていただくという意識を、私はそのお店で、ママから、同じステージに立つダンサーから、そのお店のお客様から学んだ。
そのプロ意識は転職を繰り返しても、今に至っても、私の中に消えることなく変わらず持ち続けている。
お店のステージに立ち続けると、やがて人気が出てくる。
ありがたいことに、私もお客様に覚えていただき、夜の街でも少しだけ有名になったといえるほどの人気をいただくようになった。
外国人のニューハーフダンサーのお店で、男役で、ホストとして、地元の若者ががむしゃらにがんばっている。変わり者だが応援したいと、そのように思っていただいたのか、お客様にはいつも喜んでいただいていた。
お店が満席となる日も珍しくなくなっていた。(入店当初は閑古鳥が鳴いていました) 若い私はすこし天狗になりました。
いや、自信に満ちあふれておりました。
そして、このように考え始めるのです。次のステージへ行きたい、と。
10 代の終わりからお世話になったショーパブを卒業し、次なるステージを求めて東京へと飛んだ。21 歳の青年は目を輝かせてやる気にあふれていた。
しかし、東京へ来てみたものの、どうやってプロの役者になればいいのかわからない。
養成所へ通うほどのお金もない。
しかし、私は即戦力だ。まちがいなく即戦力だ。どこか募集を出している劇団があるはずだ。いや、あるに違いない。門を叩きさえすればよいのだ。それでオッケーなのだ。
と、求人情報誌をコンビニで買い、募集が出ていないか探した。
時は 90 年代も終わり、2000 年を迎えようかという時代である。
だが、現在のようにインターネットで誰でも簡単に情報を集めるなどいうことは出来なかった時代である。インターネットよりも、まだまだ紙、本の時代であった。
いま振り返れば、求人情報誌でオーディションを探すなどバカだなぁと思うところであるが、そこは流石「東京」であった。
劇団が募集を出していたのである。
全国の小学校や中学校、また高校などの学校教育機関で芸術鑑賞会を行わせていただく会社がその劇団であった。
芸術鑑賞会として、学校の体育館などでミュージカルなどのお芝居を上演するその劇団に、私はすぐに電話した。すぐにオーディションを受け、すぐに所属する。
短期間でいくつもの演目を覚え、全国の子どもたちにお芝居を届けるべく、旅に出た。
プロの舞台役者として生きるという夢は、実はこのときに叶えてしまったのである。
夢は叶った。とても充実していた。とても楽しかった。毎日芝居のことだけ考えて過ごした。芝居への情熱を仲間たちと共有した。お芝居を見てくれた子供たちからの感想文が嬉しかった。毎日のように舞台に立ち続け、全国を旅回りながら子どもたちにお芝居を届ける生活は、私にとって幸せそのものであった。ただ、貧乏なことに目をつぶれば…。
人生は分かれ道の連続である。
幸せだった劇団での生活を送っていた私の前にも、人生の分かれ道はおとずれる。
縁あって所帯を持つことになったときのことだ。
家族を養うために、私は劇団を辞め再び就職することとなった。
はじめは、舞台演劇での経験を活かせる仕事についた。
渋谷にあるとても大きなホテルの宴会場で、音響や照明、映像の仕込みやオペレーターとして操作をする仕事だ。
時は 2002 年、日韓ワールドカップで盛り上がったこの年、すこしだけ、大きなイベントの仕事も任せてもらえたりと頑張ってはいたのだが、舞台に近くても遠い裏方の仕事に心が耐えられず転職する。
次の仕事は飲食店。東京、神奈川と沖縄に展開している、安さが売りの焼き肉店の店長候補として入社。
ほぼ毎日、常時満席、行列の絶えないお店で仕込みの時間から閉店の時間まで働き、夢の中でもオーダー待ちのお客様対応とスタッフへの指示出しをするようになり、一年ほどで退職に至った。
飲食店を辞めてしまったが、稼がなければ家族を養うことはできない。
登録派遣のアルバイトで事務所移転や建築現場での手元作業をしながらなんとか生活を維持していたのだが、仕事で稼ぐことばかりに意識が向いていたのがいけなかったのだろう、ある日家に帰ると誰もいなかった。
翌日は私の誕生日ならびにクリスマスだったのだが、ひとりで過ごすことになった。
家族を失い、家族のために稼ぐ目的を失った私は住む家をも失くし、ホームレス生活を経験する。
離婚の報を知った兄に探し出され、保護された私は、熊本の実家に身を寄せることになる。
この頃がいつ頃の話であったかはあまり覚えていない。
熊本に戻り、飲食店アルバイトや登録派遣のアルバイト、劇団時代の知人のイベント会社の仕事を手伝うなどしてしばらくは過ごした。
車の免許がなかったので、アルバイト以外の仕事を熊本で見つけることはできなかった。
実家で過ごし、心と体を休めることができたのだろう。少しだけ舞台役者としての活動を熊本で行う。
フリーランスといえばフリーランスではあるが、いわゆるとっぱらいで舞台関係の仕事を受ける。
朗読イベント、デッサンモデル、忍者ショー、CM 出演、もちろん舞台役者として演劇にも出演する。
同時に、水商売にも戻ってしまう。お金が必要だったのと、比較的休みをとりやすいというのが、理由のひとつだった。
しかし、残念なことにホストとして水商売をすると、舞台の仕事との縁は離れていった。
そして、熊本のホストは安かった。飲み代が安いのだから給料も安いのは当然だった。
30 代を目前にして、熊本での生活に限界を覚える。
もういちど、東京に行こう。せっかくだから歌舞伎町で一度だけホストをやってみよう。
それで水商売は終わりにしよう。
2 度目の上京。今度は熊本から逃げるように。
20 代最後の思い出作りのつもりで、東京は新宿歌舞伎町の有名な老舗ホストクラブに入店することになるのだが、続きは次回、(後編)に続く。
プロフィール
中村誠司 ホームケア土屋 福岡
中村誠司(介護福祉士) ホームケア土屋福岡 コーディネーター
誕生日 1997/12/25
2018年 1 月、東京在住中に非常勤として前職に応募し、重度訪問介護の門をたたく。
当時面接していただいた小黒さん(現弊社副社長)と出会い、同年 3 月に常勤となり、4 月より名古屋へ、さらに 5 月から九州へと渡る。
株式会社土屋発足後も引き続き九州福岡にて勤務。