「ぐるぐるのし戦法」と初めての世界。
鶴﨑彩乃
私は、つるさきあやのと申します。
知ってるよ。と思われた方々。しばし、お付き合いください。
私の名前は漢字にすると、画数が多いのである。
文字を書くことに時間がかかる私には、とても辛い。
しかし、「あなたの名前って宝塚歌劇団の人みたいよね。」などと言って頂くことも何度かあり、自分の名前がきっかけで新しい縁ができたりするため、それは率直に嬉しいし、ありがたい。
それでも、「名前の画数が多いぜ問題」は、私を悩ませるものだった。
私が初めて「あ」というひらがなが書けるようになったのは、小学校1年生。
当時お世話になっていた作業療法士の先生からは、「字を書けるようになるのは難しいかも…。」と言われていたが、
「えぇ〜いやだぁ。そんなの。せっかく小学校行くから。おねえちゃんになるのにぃ!」
と話し合いという名のギャン泣きをブチかまし、優しい先生をホトホト困らせたのち、
「よしっ!ぐるぐるのし戦法や」
と言われた。言われた瞬間ははてなマークがたくさん浮んだが、勢いで始めてみることになった。
「ぐるぐるのし戦法」について、説明しよう。
ただひたすらに横書きでつながった輪っかとひらがなの「の」・「し」を書き続けるというものである。
こんなことで字が書けるようになるのかと半信半疑だったが、私にはピッタリの戦法だったようで、少しずつ少しずつ書ける文字が増えていった。
その後、腱鞘炎を数度経験したため、折にふれて文字の書き方を改良し、中学3年生の頃には「鶴﨑彩乃」と割ときれいに書けるようになった。
普段の字は「ミミズが這ってるような字」というと、ミミズに怒られそうなぐらい汚いが、名前だけはそこそこキレイに書ける。
そんなこんなで、ぐるぐるのし戦法で、書字という敵と戦っているときに新たな転機が訪れる。
きっかけは、1回目の腱鞘炎。
字を練習しすぎて、自分で車いすを漕げなくなった私に母が電動車いすを勧めてくれたのだ。
当時は、「ビューティフルライフ」というドラマが流行り、可愛く漕ぎやすい車いすが登場し始めたころで、私も乗ってはみたものの
「なんか乗りにくいなぁ。」
とは感じていたが、車いす=自分で漕ぐものと思っていたため、電動車いすという発想すらなかった。
そんなとき、母から「電動車いすにして、字を書く練習に集中しない?あーちゃんが自分で漕ぎたいっていうなら、それでもいいけど。」と言いながら、講習会のチラシを机の上に置いた。
小学生が電動車いすに乗るということが、まだ珍しいときにそれを親側から提案して来るあたり、うちの革命家は恐ろしい。
講習会当日、障害当事者にコーチしてもらいながらお試しで電動車いすに初めて乗った。
スティックを前に倒し、モーターとタイヤがシュルルと音を立てて動き始めたとき、私の世界がそれまでとは段違いに大きくなった。
コーチの方は、徐々に速度を上げていくつもりだったようだが、キラキラしている私の顔を見て早い速度を、試させてもらえた。
施設内で十分に安全が確保された状態だったとはいえ、あんなにガンガンドンドンしてたのによく笑顔で見守ってもらえたな。と感謝している。
本当に楽しかった講習会が終了し、母に楽しかったことを報告すると「見てたでぇ。暴走族。」と頭をクシャッと撫でられた。
その後、母は電動車いすの申請を当時、私達が住んでいた街に提出してくれた。
私は、幼かったため分からなかったが、大きな反発もあったそうだ。
大きくなってから聞きました。
「そのときどうしたの?」と私が尋ねると、
「反対してくれた人もあなただけじゃなくて、周りの人も危ないから。とか、ちゃんとした理由があると思う。だからちゃんと安全に扱えるよってスキルを身につけて、周りの人への信頼も勝ち取った上で自分のやりたいことに集中できた方がいいやん。」
と母は笑顔で言った。
そして、「楽しい方を選びなさい。」と凛とした声で言った。
文字を書くことでは、努力することを。
電動車いすの件では固定観念にとらわれず、色々なことに柔軟に考えていくこと。
どちらも人生の新しい扉の開け方を学んだ出来事だったと思う。
これからも自分らしく歩んでいけたらいいなと思うし、誰にとってもやりたいことがやりやすい世の中になってほしい。
プロフィール
鶴﨑彩乃(つるさき あやの)
1991年7月28日生まれ
脳性麻痺のため、幼少期から電動車いすで生活しており、神戸学院大学総合リハビリテーション学部社会リハビリテーション学科を卒業しています。
社会福祉士・精神保健福祉士の資格を持っています。
大学を卒業してから現在まで、ひとり暮らしを継続中です。
趣味は、日本史(戦国~明治初期)・漫画・アニメ。結構なガチオタです。