日本語の名前がついている車はない―香西秀信という人―
牧之瀬雄亮
春になると世の中に学校というものがあることを「あ、そうだった」と思い出す。
私の中では小〜中学校は教師をおちょくる場という認識でいたので、教師とは教条主義のつまらない存在という感覚でそのまま大学に行った。
大学大教室の、腑抜けた雰囲気の中で、あっさりと場に同調して腑抜けていた私の前に立った香西秀信その人は、今まであった教師たちと違っていた。
投げかけられた問いに、私が指名され、問いの構造から「アです」と答え、「なぜそう思うかね」と訊かれ、「よく聞いていなかったんでなんとなく」という返しをしたのと「眼鏡が合わんからよく見えん」というようなことも言ったと記憶している。
我ながら随分失礼な態度だと思うが、当時の私を弁護すれば、私は自分が体験していた教育というもの自体にどこか落胆しており、家からの期待がまとわりつくことのストレスを跳ね除け棄てる度胸も、自分が何をすればよいか判らないモヤに二重に覆われて、反面その身動きの取れなさに不機嫌に安んじているという惨めさにあったので、そのぐらいの手抜きをさせてほしいという甘えだったと思う。
しかし、香西秀信氏は、自分に対して大層無礼な学生に対し「眼鏡が合わんなら前の席に来る必要があるし、話を聞いていないならもう一度説明を乞う必要がある」と、至極真っ当に私の具体的状況に踏み込んできた。
これまで会った教師はそういうことを指摘するとき、大声や一般論を用いていたから嫌いだったが、香西秀信氏は違った。
もちろん内心怒りはあったとは思うが淡々と、私の子供じみた態度を具体的に改善する方法を挙げていた。
私はその態度に虚を突かれたし、逃げ場がないと思った。
高校の頃、60過ぎの柔道講師と組まされたときの感覚に似ていた。
私は、継いで壇上から飛んできた「真面目に訊かないのであれば今帰っても良い、しかし単位はやれないかもしれない。まあ出席日数で換算するが」という香西氏の言葉に「すみませんでした」と謝り、その場は収まり、また周囲も含めた授業が始まった。
「よし、4年間だらけて授業を受けよう」と心に決めていた私の目論見には鋭い針で小さいけれど確かに穴が開き、心中穏やかでなかった。
そして満期退学するまでの8年、私の中では香西秀信という平家蟹のような顔の教員は警戒対象であった。
後にわかるが、香西先生は修辞学の専門家で、元大阪市長橋下徹氏や、2ちゃんねるの生みの親ひろゆき氏など、相手を言いまかす、俗に言えば「論破する」達人だった。
今思えば逃げずに香西先生に学生時代に「論破」されまくって、鍛えておけばよかったと思う。全く不徳の致すところである。
あの頃の私は自我がいつも緊張しており、「負け=無価値」と捉えていたので到底それはかなわなかったが、今であればあの香西秀信の阿修羅とアリストテレスが憑依したようなレトリック千本ノックを、腰を据えて受けられるのだが。
香西先生は東北の地震の後ごろに亡くなってしまった。
以来香西先生の分け御霊のようなものが私に棲まい、様様な事物に反証を促す。
私が出席した数少ない香西先生のゼミで得たメディアリテラシーは私のかなり根深い部分をなしている。ニュースには演出がある。
その目を持たせて下さったことに私は非常に感謝しているし、「お前のような留年生を救うのが教師の仕事だ」と普段言っておきながら、満期退学の折にトイレで並んで要足しをする際「はっはっは、自業自得だ」と笑って下さったのはある種の呪いにも似た送辞であったと私は思っている。
大学3年か4年ぐらいの初夏の頃、私は同級生が持つ研究室を決める資格を単位不足によって持たず、学生控室でぶらぶらしていた私のところに香西先生がやおら現れ、言うのは、「マッキー(私のこと)、君は四人囃子というバンド知っとるか」と云われた。
「ハァ、名前は知っとりますが聴いたことはまだありません、第一売ってないですよ」と答えた。
「じゃあこっちに来い」と私を先生の研究室に招き入れ、ほとんど唯一CD化されたあまり出回っていない四人囃子の『’73 Live』を取り出し、「音質は良くないが曲は伝わるだろう」と手渡してくれた。
学校にいる間も出てからも、一度も返却を催促されたことはなかった。
亡くなるまでに、後に発売された紙ジャケ高音質版を、香西先生はお聴きになったろうか。
私はフジロックで四人囃子の生演奏を聴きましたと報告さえしなかったのではないか。
故人となった佐久間正英(JUDY & MARYのプロデューサーとしても知られる)のベースの音は交通事故のような衝撃波だった。
大体四人囃子など2000年台初頭の若者の間で当時知っている者や興味を持つ者もそういない中、感想など言い合うことも純粋に先生はしたかったろうし、またそれを私の授業に寄りつく契機にもしたかったのだろうと思うと、その心遣いに応えなかった自分の不感症を情けなく思うのだ。
表題は、香西先生が新しい生徒に言う一つの決めフレーズで、「日本車なのに日本の言葉で名付けられた車がない。あれば言うように」という、福田恆存よろしく正字正かなで板書する言語的保守学者からの、私たちの根深い欧米コンプレックスを顕然させる寸鉄だが、実はこれには逃げ場がある。
トヨタにはカムリ(冠)、光岡自動車には我流とか大蛇という車がある。古くは二輪だが「陸王」というバイクがある。
冠を「かむり」と読むことができ、車名の「CAMRI」を表面的なアルファベット表記でなく音として捉え、日本語、やまとことばの「かむり」であると察することができるか否かは、質問を投げかけられたものが言語にいかに敏感か、または鈍感かを測る、よく練られた問いである。
概ねそこで話は流れるのだが、場の調子によっては「ロックバンドの名前も〜」と次ぐことがあり、その先には「四人囃子」と言われるのを待っていた香西秀信少年がいたかと思うと、私はついぞその誘いに乗らず、香西先生の死と共に、香西先生の中にいた四人囃子の話をしたがっていた香西少年にも会えなくなってしまった。
車に積んであるCDの中で何故か、井上陽水とキングクリムゾンを息子が好むので、他に何か気にいるのを探そうと頭の中を巡った時、四人囃子の代表曲『一触即発』を思い出し、ひとり聴いたこともあって、思い出が巡ったのだった。
『一触即発』を聴くと、硬質な筋肉が、人体を離れてうようよ勝手に動き出して集まって形造った牙城の玉座に、嬉しさのない顔で若い誰でもないし誰でもある男が力なく座っている情景を思い浮かべます。
先生。あの世で修辞学の巨人たちと宜しくやってますか。
香西先生の本は、議論のスキルアップや、そもそもの思考力の鍛錬、つまり仕事の精度の向上にはとてもおすすめなので、ここに香西先生の著書のAmazonリンクを貼って、先生からの恩義へのわずかばかりのお礼にいたします。
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プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ
宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。
思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。