クライアントインタビュー
中村 薫さん(ホームケア土屋 富山)
私が歩んできた「中村薫」という人生。
また今日も、そうして暮らしています
中村 薫さん プロフィール
誰もがこれまで幾度となく言われ、時には誰かに言ってきたであろう「他人の視点に立って」「相手の気持ちになって」という言葉。
きっとそうできれば世界はもっとまろやかに、和やかになるような気がするものの、この言葉が消えていないということは、まだそれは「自明の事」として受け入れられているわけではないということでしょう。
さて、それは何故なのか、中村さんの人生を振り返りつつ、少し立ち止まってみませんか?
<第一章>人生編
「私が普通だ」と思っていた
私は1958年に富山県魚津市で生まれましたが、出生後すぐに黄疸が出て、熱もすごく高くて、その熱で脳性麻痺になったらしいです。そこからは、普通に暮らしてました。歩くことはできんけど、普通が私だと思ってたから。歩けんでも、これが普通やと思ってたから。
でも、小学校に上がる7歳の時点で富山の実家を離れ、石川県小松市にある学園に行きました。私には1歳半違いの弟がいて、その時は『弟がお母さんの作ったあったかいもんを食べられたり、地域の学校に行くのに、どうして私だけ、親から離れて違う地域の学校に、県をまたいでまで行って』とか思ったんやけど、後になって聞いたら、私みたいな重症な障害児が通える学校がなくって、石川県のその学園にだけ、受け入れてもらえたからって。
富山の養護学校は、自分でご飯食べれたり、おしっこできたり、身辺自立ができる軽い障害の子は入れたんやけど、私はおしっこもできんだし、着替えもできんだし、お風呂も入れんだし。
地域の学校にも行ったんやって。そしたら、そこの校長先生が、『学校には入れんけど、頭いいのにもったいないね』って、石川の学園を紹介してくださったんやって。母親は私に『勉強させたかった』って。今で言うリハビリ訓練もさせたかったし、石川の学園に行った方がいいかねと思ったらしくて、父親と相談して学園に入れたらしいです。
今でも覚えとるのが、学園に入って間もない頃、母が迎えに来てくれて電車で帰省した時のことで、電車にいた人たちが私をじっと見てはるんですよ。じろじろ見られたって感じで。
その頃、私は自分が障害者という自覚もなかったし、母親に『なんでみんな私のこと見るの?』って聞いたら、母親が『薫が赤い服着て可愛いからだよ』って。
私は純粋に『ふーん、そうなんだ』って思ったんやけど、大人になって考えたら、『障害者で、7つにもなって母親に怒られながら送られてんのが気になったんだろうな』って思って、その時の母の答えが今でも心に残ってて、母親には感謝の気持ちしかありません。
普通の女子学生、『私らに生きていく意味はあるんだろうか』って考えとった
学園では勉強はあんまり教えてもらえんかったけど、一応、世の中を渡っていけるほどの勉強はしました。寮生活で、小学校、中学校とそこにいて、面会日には母に頼んでおやつをこっそり持って来てもらって、仲のいい友達に『あんたに半分あげるから、食べさせて』って言って隠れて食べたり。
でも学園には高等部がなくって、みんなの親が石川県庁とかに行って頑張って作ったらしいです。だから中学終了から2年遅れで高等部に入ったんですが、その間は学園で手芸をやったり、なんやかんや作業をやっとった。
その頃は10代後半で、一人の男子を好きになって、仲のいい友達と争ったり。よくある話(笑)実は私、手が使えんで、足でなんでもするんですけど、襟巻を1年かけて足で一生懸命編んで、その子にあげようとしたら、他の友達が『あんた、あの子とあの子が付き合ってんの、知らんだけ?』って言われて、ショックでその襟巻を他の子にあげた(笑)
ほんで、その子と付き合ってた女の子と絶交してんけど、仲良すぎたから、その女の子に『私、やっぱりあの男の子と別れるから、絶交やめて』って言われて、『じゃあ、いいよ』って(笑)
そんな普通の女子学生で、ただその頃、『私らに生きていく意味はあるんだろうか』って考えとった。よく学校の先生に『障害者は可愛く、皆の言うことに“はい、はい”って言って生きとりゃいい』って言われてた覚えがあるんですよ。
『でも、それっておかしくない?』ってずっと思ってて、誰でも自分の意見を言ったっていいし、それとリンクして『私って生きてる意味あるんかな』って、その頃はよく思っとった。
なんで弟だけ、お母さんの作った美味しいあったかいご飯を食べれるんだ
21歳で学園を卒業して、富山市にある施設(更生本部)に入ったんですよ。そこはリハビリしながら社会復帰する施設で、でも私は重症だから、みんなに付いていけんで、ご飯も半分しか食べれんで。だから犬食いをやっとったんですけど、首が疲れてできにくくなって、養護本部っていう所に移って、そこに40歳までおったんです。
でも40歳の時、その施設で社会見学があって、どこで見学するかという話になった中で、ある人が『私、コンビニ行ったことないし、コンビニに行きたい』って言ったんです。私は親が元気やったから、1週間に1回は家へ帰っとったんですよ。
だからコンビニも何回も行ったことあるし、『コンビニなんて社会見学に行っても10分ほどで見終わるし、面白くないよ』って言ったら、『あんた家に帰るし、知っとるからそんなことを言う』って言われて、その時に『ああ、私も親が高齢になって、実家に帰れなくなったら、施設しか知らんと生きていかなあかんのかな』と思ったら、施設におるのが嫌になって、出たいっていう気持ちが強くなったんです。
それで施設を退所して、グループホームに入居させてもらったんやけど、グループホームって介護者が24時間おらんで、夜中には誰もおらんなる。その時はまだちょっと元気で、おトイレ行ってもドアを開けて、自分で便器の乗り移りができたし、ウォシュレットで洗ったり乾かすこともできて、でも下着を上げることは絶対できんから、ドアを開けるとそのままサーッと部屋に入ってベッドに上がって、足しか動かんから、足で蹴って布団の中で下着を上げとったんです。
でも、春にグループホームに入って、そこからだんだん寒くなってきて、そんなことしてたら風邪ひくし寒いし、身体が寒いと心まで寒くなってきて、『もうダメやわ』と思って、また実家の近くにある施設に入ったんです。けど、やっぱり施設は嫌で、親に『出たい』って言ったら、『もし施設を出るんやったら親子の縁切る』って言われたんで、『ちょっと待って。私の話も聞いてくれんけ?』って。
『学園におるときに、公衆電話からお母さんに電話何回もかけたよね。その時に、弟が電話の向こうで“お母さん、ご飯まだけ、腹減った”って言っとるのが聞こえたよ。その時、私どう思ったと思う?私ね、言わんだけどね、なんで私だけ親と離れて学園で、ぬるいおつゆと、もう冷め切っとったご飯食べて、弟だけなんでお母さんの作った美味しいあったかいご飯を食べれるんだって思ったんよ。でもこれ言ったら、お母さん悲しむやろ。悲しむから言わんだけどさ、実はそういうこと何度もあったがやで』って。
そしたら母は考え込んで、『分かった。じゃあ、お母さんとお父さんと一緒に住もう』って言ってくれて、そこから家を改造したりして、ヘルパーさんにも入ってもらって、実家で生活を始めたんです。それで、実家で4年くらい暮らしたんやけど、そしたら今度、母がくも膜下出血で倒れて、そん時にしばらくは実家で一人暮らしをしたんだけど、『何か違うな』って。
私の実家にはエレベーターがあって、親がいなくなれば、私の年金だけでエレベーターや家を管理できんと思ったんですよ。そうしたお金のこともあったし、富山市の友達に聞いたら、富山市では魚津市と制度が全く違って、重度訪問介護もここでは8時間しか与えられんけど、富山市ではもっと長い時間の支援が受けられるし、『富山市でアパートかなんか借りて住むのが絶対いいよな』と思って、実家を離れて富山市に出てきました。
~Q&A~ 一人暮らしについて―大変だったこと、替えのきかないもの
Q:一人暮らしをしてみて、大変だったことは何ですか?
A:重度訪問介護の時間数が1日12時間なんですよ。で、ヘルパーさんがいないときにおしっこしたくなったり、しちゃったりするとき、一番困る。
それに今年65歳になったんで、介護保険優先になって、夜中の1時と4時半に20分ずつスポットで介護保険で入ってもらってるんですね。でも段々、夜中も必要かなと思うようになってきたから、日中は全部、重度訪問介護(重訪)なんで、そのうち、夜中も重訪をお願いしようかなと考え始めています。事業所があればですけど。
Q:一人暮らしをして良かったと思うことは何ですか?
A:食に関することばっかりなんやけど、食って大事よね。具合悪い時に施設やったら、急に『おじや作って』とか、『おかゆ食べたい』とかが叶わないことで、でも一人暮らしやったら『今日は食欲ないし、ご飯だけでいいわ』と思ってもできるでしょ。それが一番いいことかな。
それと、自分の好きな時間に起きられる、寝れるみたいな感じがいいかなと。食料の買い物も、1週間に2回くらいしか行っとらんけど、施設やったらできんことやから、自分の目で見て買えるのはいいなと思えることの一つですかね。
<第2章>私と、「わたしの絵」もう一つの人生編
私と、「わたしの絵」の歩み
私、油絵を描くんですよ。足で描きます。以前から色鉛筆とかクレヨンとかで絵を描いてて、中学校の時は水彩で模写したりしてましたが、施設にいる頃に絵画クラブに入って油絵を始めました。モネとかゴッホとかが好きですけど、写実は難しいんで、出かけていって写真を撮ってもらって、帰ってきてそれを見ながら描いてます。
油絵を描き出して、もう40年になるんですけど、絵を描くときは何も考えてない、無。絵のことしか考えていない。だから好きなのかもしれない。去年は病院にいる母に、画集を作ってプレゼントしました。
~画集より~
1枚の絵を描くのに3ヶ月から4ヶ月、長くかかる絵は何年も費やして仕上げた絵もあります。この絵1枚1枚が私の可愛い子供なのです。
65歳を目の前にして何かを残したいと思いました。油絵を描きだして40年が経ちます。両手が利かない私は右足に筆を持ち描いています。そんな私の横にはいつも母がいてくれて、足に筆を持たせてくれたり、絵の具を出してくれたり、「薫は絵が上手い!頑張れ!」と、母はいつも私の応援団長です。
病になり私の横には母はいませんが、出来上がった絵を見せると、「OK グ~!」とジェスチャーをしてくれる母です。母には感謝しかありません。母は昔も今もこれからも私の応援団長です。今はヘルパーさんに手伝ってもらい、アクリル絵の具やクレヨンで描いています。つたない絵が連なった画集ですが、この画集を大好きな私の応援団長である母に捧げたいと思います。
<第3章>希求編
何気ない一言が、小さな声をかき消すことがある
私、いつも『同性介護じゃないと嫌』って言うとるんですよ。それは年齢を重ねていっても変わらんと、今のところ思ってるんですけど。やっぱり同性介護がいいですね。
ただ、ちょっと前までは、『絶対、同性介護をするべき』と思っとったけど、私みたいに絶対に同性介護でなければ嫌っていう人もおれば、『いやいや、異性介護の方がいいわ』っていう人もおられるんでしょう。それを否定せんでもいいかな、って思うようになってきた。ただ、病院に入院しても、本人が同性介護を望むのであれば、病院側もそれを重視してほしいな。
一昨年、大親友が亡くなったんですよ。そのちょっと前に入院したとき、看護師さんが男性で、異性介護だったんだって。病院から帰ってきて、ヘルパーさんに『異性介護、嫌やったわ』って言ったら、そのヘルパーさんに『異性介護、私やったら絶対いらんわ』しか言ってもらえんかったんやて。そんな風に言われたから、『絶対誰にも、異性介護、嫌やったって言わんとこ』と思ってんて。
私はそれを聞いて、『辛かったよね。なんでもっと早く言わんかったんけ』って言ったら、『だってヘルパーさんに言ったら、それしか言われんかったし、誰にも言えんと思って』って泣いて。
だから私も『よく分かるよ。嫌やったね』って言ったら、『分かってもらえる?』って。『当たり前やん、分かっとるよ』って言って、二人で泣いたことがあった。
私らはやってもらわんかったら生きていけんだと思うんやけど、そういう裏にある背景も考えて欲しかったと思うわね。『辛かったね』とか、そういう一言があれば、その人も慰められたと思う。
「乗り越える」って何?私は私の体で生きている
よくみなさん、『障害を乗り越えた』って仰るけど、何を乗り越えるんでしょう。乗り越えてないし、障害は現在進行形。
ぶっちゃけ、トイレしたい時にトイレできんし、『あ、嫌やな』と思うことはありますよ。ありますけど、中途障害と私らみたいに生まれてすぐなった障害者では考え方も違うと思うんですよ。
私らは、『人間はこういうものや』と思って育ってきたし、逆に歩けるってどういうことかって分からんくらいやし。乗り越えたとかじゃなく、『これが私です。この障害を持って私は私やし』って思いますね。その上で生きてる。
人生とか生きるとか、最近はそんな重いことは考えてないけど、生きていく上で、健常者ばっかりじゃなくて、私らのような障害者も生きてるんだってことを分かってもらえる人を一人でも増やすことが、私らの生まれ出てきた役目かなって思います。
だから活動もするし、自分一人でもどんどん行けるところは行って、なんでもしようって。こないだも一人でドラッグストアに行って、『買い物の支援をお願いできますか』ってお願いして、やってもらったんやけど、ちっちゃいことでもいいから、存在をアピールしてます。迷惑じゃない程度に(笑)
推しもいます(笑)富山県で、銀行員やりながら、歌を歌ってる人なんですよ。その人が大好きで、近くに来られた時に歌を聞きに行ったりしてます。
~Q&A~ ふとした場面で思う事。あなたは他人の視点に「本当に」立つことができるか
Q:「ここは変えて欲しい」と思っていることはありますか?
A:私よく美術館行くんですよ。美術館で、私の目線より少し高い位置にある机の中に絵が飾ってあって、ちょっとだけ斜めになっているんですが、見えないんですよね。立ってみるにはまことに見やすいと思うけど、私なんかにはまったくちょっとしか見えん。高いです。で、もうちょっと斜めだったら見えるけど、そんなに斜めにもなってないし。
1回係員の人に言ったんやけど、『上のもんに言います』だけで終わってて、これどうにかできんかなって今、思っとんやけど。立ってみるわけにもいかんし、でも見たいし。
あとは、鉄道。新幹線を予約して乗るのは分かるんですけど、学校行ったり勤務に向かう、健常者は予約せんでもいいような地方鉄道にも、私たちは予約せなあかんですよ。それもおかしいなと思ってますね。
重度訪問介護では、土屋さんは利用者本位で思ってくださるから、いいんじゃないかと思うけど、事業所によっては重度訪問介護に慣れてなくて、ヘルパーさん本位で動くこともなきにしもあらずで。重度訪問介護を分かってほしいですね。
Q:今後については?
A:もう高齢者になってきて肩も痛いし、首も痛いんですけど、なるべく今の生活を維持できたらなって思っています。健康には気を付けて、栄養面も自分で考えてちゃんとしていけたらなって。
仲のいい友人も亡くなったし、周りでもぼちぼち病院に行ったりしておられるから、健康にはほんとに気を付けて、今の生活を維持できる期間を長くしたいなとは思ってます。