クライアントインタビュー
立野雄三(たちのゆうぞう)さん(ホームケア土屋長崎)
立野さんの人生に見る、
「イヤといえない」「人見知り」…
そんな性格の乗りこなし方
立野雄三(たちのゆうぞう)さん プロフィール
▽Zoomインタビュー参加者:
- 話し手:立野 雄三さん
- 現地コーディネーター:ホームケア土屋 長崎 コーディネーター 鈴木 暸さん
- インタビュアー:本社 社長室 野上麻衣
1.風船バレー、朝の散歩ーーこんな時間を過ごしています
◆風船バレーを19年 ――長崎の“バット★ストーム”
―今日は朝からどんな一日を過ごされてましたか?
立野 今日は午前中、訪問リハビリでリハビリを受けて。お昼から買い物に行って、帰ってきてこのインタビューを受けてますね。
―立野さんが、元々ご興味あることや、最近こんなことにハマってますというのがあったら教えていただきたいです。
立野 そうですね、ハマってるのは、元々スポーツは好きなんですが、もう19年ぐらい風船バレーボールという競技をやっています。
―風船バレー、どんなスポーツなんでしょうか。
立野 風船バレーは、障害のあるメンバーもないメンバーも、一緒になってする競技なんです。僕のいるチームは、障害がないメンバーも福祉職が多いので、コロナ禍になって練習しないでおこうかという話をしてたんですが、最近またはじめました。今は月に2回ぐらいは練習に参加しています。
―コーディネーターの鈴木瞭さんもご同行されることはあるんですか。
鈴木 はい、同行したことあります。
―一緒にやったり……
鈴木 一緒にやりたいんですけど、なかなか出来ないですかね。観てて、本当に白熱したバトルをされているので(笑)
―結構ハードなスポーツなんですね。
鈴木 観てて、本当に迫力がすごいです。
―お休みの日は、風船バレーの他にはどんなところに外出されるんですか。
立野 そうですね。買い物に行ったり、あとは土屋さんには土曜日から夜勤に入ってもらうんですが、日曜日の朝は必ずコンビニまでお散歩に行くのが、最近の日課になってまして。そこでパンをかったり、雑誌を買ったりしてます。
―風船バレーをはじめて19年と仰っていましたが、始められたきっかけは?
立野 今も風船バレーのチームメイトであり、一番仲のいい友達なんですが、彼とは大学で出会っていて。その友達が卒業論文で障害者スポーツを取り上げたんです。初めは私ではなくて、その友達の方が風船バレーに参加していました。
彼が「立野くんも誘ってみたい」と声をかけてくれたんですが、僕は「風船といえば、ふわふわ〜っていうイメージはある」なんて返したら「いやいや、立野くん、違うんだ。風船バレーはもっとガチなスポーツなんだ」と。
それで、実際に体験して「面白い」思い、その友達や数人の仲間達とチームをつくることになったんですよね。
―風船バレーの魅力というのはどんなところですか?先ほど、鈴木さんも「すごい迫力」と仰っていたんですが。
立野 やっぱり、一番いいのは障害のある人とない人が一緒に居ないとできないスポーツである、というところなんです。僕たちは、スポーツとして風船バレーをしているんですけれども、レクリエーションとしてもすることができるスポーツなので、どっちでもできるし、誰でもできる。
ルールの中に「みんなでパスを回して返さないといけない」というルールがあります。マニアックな話になるんですが、風船バレーボールでアタッカーに強くて良いアタックを打つためには、アタッカーの技倆はもちろんですが、いいパスをみんなで回さなきゃいけない。
その時、僕たちのチームは、障害のない人がアタックを打つことが多いんです。「なんで障害のある人が打たないのか」なんてご批判を受けたりもするんですが、「そうじゃないんだ」と僕たちは言っていて。「僕たちがパスを回して、セッターが上手くトスをあげて、そこからアタッカーがアタックを決めてくれる!」っていう思いが、僕たちにはあるんです。僕たちはそれぞれに、自分ができる仕事をして、みんなで力を合わせて点数を取る。
―パスを回して打つまで、みんなで協力し合っているから、みんなで打ってるんだということなんですね。
立野 そうですね。レシーブもいろいろ考えてやっているので。みんなで共有できるところが非常に魅力的だなと思ってやっていますね。
―かなり激しそうですが……
立野 試合の時は、障害のないプレイヤーが2人から3人入ることができるんです。メンバーの中でも僕は結構、重度なので、彼らに介助してもらいながら、ボールに触ったりするんですよね。自分で動ける人は自分で動く、みたいな感じで力を合わせてやってます。
―チーム名はあるんですか?
立野 「バット★ストーム長崎」です。
―かっこいい!チームのティーシャツがあったり。
立野 はい、ユニフォームがあります(笑)
◆立野さんは「癒しスポット」
―コーディネーターの鈴木さんから見た立野さんってどんな方ですか?というのを聞かせていただきたいなと思います。本人を前に、言いにくいかもしれませんが(笑)。
鈴木 はい。もうすごく気さくな方ですね。親しみやすくて、話しやすいんです。支援中もよく、コミュニケーションを取りながら、いろいろ話をしながら支援に入っているんですけれど、笑顔がすごい素敵で。支援中、癒されてるんですよ。私の中で「癒しスポット」と呼んでます(笑)。
―過ごす中で、「立野さんのここ、笑っちゃいました」なんてエピソードってありますか?
鈴木 先ほど話に上がった風船バレーに行かれた時のことなんですが、ちょうどその時は、サッカーのワールドカップが盛り上がった時期(2022年12月)だったんですよ。
前日に立野さんが、日本代表の青いユニフォームを買ってですね。それを着て風船バレーの会場に行って、一人だけ日本代表のユニフォームで戦っていたのが個人的にすごく面白かったです。試合も盛り上がったんですが、私の中では立野さんの姿に目がいってしまって……なぜか一人、完全に日本代表でした(笑)。
―(笑)。先ほど、「立野さんが癒しスポット」とも仰っていたんですが、立野さんと過ごす中で楽しみにしてる時間ってどんなものですか?
鈴木 楽しみにしてる時間は、そうですね。外出支援で、よく一緒にお出かけするんです。天気のいい日に、車椅子を押して、ずっと話しながら。私は立野さんの支援現場に夜勤明けの早朝に入るんですが、2人で外出する朝の時間がすごく気持ち良いし、すがすがしい気持ちになるんです。私の中でもすごく楽しみな時間ではありますね。
―鈴木さんは、土曜日の夜から夜勤で支援に入って、日曜の朝、そのまま続きで入られてるんですね。
鈴木 そうですそうです。日曜の朝、6時7時ぐらいに。
―じゃあまだ、街の空気が澄んでる時間帯に。
鈴木 そうです。朝日を浴びながら(笑)。
2.人見知りの僕の“ターニングポイント”
◆ターニングポイント その1〜乗馬との出会い
―立野さんは子どもの頃は、どんなお子さんでしたか?
立野 今、野上さんともこうやって初めてお会いして、お話できてるんですけれども、ちっちゃい頃はーー今もそうなんですがーー本当に、人見知りでですね。初対面の人とは全然話せないし、僕には2歳上の姉がいるんですが、姉に怒られたぐらいでしゅんとしちゃう小心者だったんです(笑)。
地域の保育所に通った後、隣の市にある特別支援学校に小・中・高と通っていたんですよね。僕は人生で2回ぐらいターニングポイントがあった、と思っていて、その1つ目が、中学2年生の時に乗馬療法に仲間から誘われた時なんです。僕は、基本的に動物が苦手で「行かない」と言っていたんですけども、そこで母の必殺技が出ました。「見るだけだから」って(笑)。
ここから皆さん想像がつくと思うんですが、「まぁ、見るだけならいいだろう」と見に行ったら、案の定「乗ってみたら」っていう話になる。乗馬の所長さんからも「雄三君、乗ってみる?」なんて言われて、状況的に断れないですよね。まだ人見知りの僕ですし、仲間や仲間のお母さんたちが見ていたのでね。「じゃあ、乗ります」なんて言って、乗ったはいいんですが、緊張して足も開かない。それで、馬に鞍がついていたんですが、「この蔵じゃだめだから変えよう」という話になって。「よし、1回降りれる」と思ったら「乗ったままでいいよ」と言われ、乗っていたら馬がスッと動いて。一歩も歩いてないのに落馬したという(笑)。
―(笑)
立野 心の中では「もう乗りたくない」と思っていたんですが、またここで所長さんにですね。にこやかな笑顔で「雄三くん、もう一回乗ろうか」と言われまして(笑)。
この時、自分がどれだけプライドが高いか分かりますよね。「乗りたくない」と思っているのに、「はい」と言ってしまったんです(笑)。そこから馬に乗るようになって、いろいろなリラックス方法を知って。最初は2人で乗って馬を引いてもらっていたのが、段々と手綱が握れるようになって、一人で乗れるようになって。その後も大学の途中までやって、走らせるぐらいまでは自分でできるようになりました。
その経験は自分にとって大きな自信にもなったし、そこのスタッフの方が20代の人が多くて――その時、僕は14歳ぐらいだったんですがーー、僕を「雄ちゃん、雄ちゃん」って呼んでくれて、「雄ちゃん、彼女できたね」「雄ちゃん、18歳になったらもうお酒飲んでよかけん。一緒に飲みに行こうね」なんてよく声をかけてくれました。
それまで、何かを進めるのは必ず親と一緒だったのが、僕が馬に乗ってる間は、親は見てるだけなので、親が知らない自分だけの空間もできました。それは自分にとって精神的な成長の面で大きかったなぁとも思ったし、馬に乗ることは、障害のない人でもあまり経験できないことなので、いろいろ自信がつきました。そこが第一のターニングポイントだと思ってます。
◆大学での「劇的ビフォーアフター」
―中学・高校は、諫早の養護学校に通われて、その後、長崎の大学の福祉学科に行かれたとお聞きしてます。どういうきっかけや理由があって行かれたんでしょうか?
立野 あんまり「こういうことをしたい」という理由はなかったんですが、僕より重度な障害の方で、言葉での会話ができない方が友達や後輩にいて。100%ではないけれども、その友達の気持ちを少しでも代弁できないかなと思って福祉系に進もうと思ったんです。
僕は障害があるので「通うことができるか」という話になったんですが、その大学に行っていた先輩が多かったので、「立野くん、ここ受けてみれば」っていう話になって。その時ちょうど自己推薦っていう枠があって、ラッキーでした(笑)。
通信教育という選択もあったんですが、母親も「家で勉強するよりは学校に行って1人でも友達を多く作ってくれたらなぁ」という思いがあったので、じゃあ受けてみようかということで、そこに行くことになりました。
―自由な校風の大学だったみたいですね。中高とは全然違う雰囲気の中で、大学時代を過ごされたのかな……なんて思ったんですが、どんな友人と出会ったんでしょうか。
立野 まず友達づくりが、結構苦労しました。通っていた養護学校からその大学に進んだのは、僕1人だったので、もちろん友達もいないですし、普通学校に行ったこともなかったので「どういう会話をしたらいいんだろうか」と不安だったんですけれども、あることをきっかけに友達ができるようになるんです。さて野上さん、ここで問題です。
―えっ!はい。
立野 私は何をしたことがきっかけで、友達と話すことができたでしょうか?
―何をきっかけ……きっと車椅子で入れないところがあったり、段差があったり、その時に「ちょっと手伝って」みたいにお話しされたのでは……
立野 僕は人見知りなので、そんなふうに声はかけられなかったんです。ちなみに、介助の方が付いていてくれていたので、移動支援は介助の方がしてくれていたんですよ。
何をきっかけに話したかと言うと、僕が介助の方に頼んで講義と講義の間にですね……髪を染めたんです。実は茶髪にしようと思っていたんですが、ブリーチを多く使いすぎて金髪になってしまって。
―(笑)
立野 朝、真っ黒だったのに、昼から金髪になってたので「立野くんどうしたの?」みたいな感じでまわりの人が話しかけてくれるようになりました(笑)。それがきっかけですね。
―大学の中で染めたんですか?
立野 それは言えないですけどね(笑)。
―声はかけるのは苦手だけど、自ら色を発したんですね(笑)
立野 茶髪ぐらいしたいなって思っていたのが金髪になってしまって、そりゃみんな驚くよね、と。
―なんて言っていました?皆さん。
立野 「どうした?立野くん」「なんで金髪?」とか(笑)。
そこから楽しいキャンパスライフが始まって、僕に接してくれる人が段々増えてきたんです。仲間は何も言いませんけれども、金髪にして、多分「あぁ、こいつも俺たちと一緒のことするんだな」と思ってくれたのかな、と思うんですよね。
―大学というと、サークル活動をされたり、みんなでお酒飲んだりされたと思うんですが。
立野 そうですね。ボランティアサークルに入って、今度は自分がサポートする側に立てたことは大きな経験になったなと思います。
お酒は、もちろん飲みますよね、学生だから(笑)。これも僕のネタなんですが、大体、歓送迎会をするような居酒屋って、狭まくて急な階段があって、二階に座敷があるパターンが多い。で、僕は抱えられて、その階段を上っていくわけです。行きはいいです、みんなシラフですから。帰りですよ、問題は。「立野を抱えなきゃいけないから、俺は飲まない」なんてやつなんていませんから(笑)
みんな飲んで、フラフラな状態で下りを迎えるわけです。私の友達は運動神経がいいやつばかりだったので落ちることはなかったんですが、友達が「雄三、これ、俺がこけたらそういうことになるぞ」と。いつも講演でお話させてもらう時は、私にとっては“命がけの飲み会”だったという話をさせていただくんです(笑)。
3.障害を乗り越えない。
◆障害と楽しく付き合う
―今、立野さんは、仕事やボランティアで相談支援の活動や、ピアカウンセリング(※)をされています。ピアカウンセリングについて勉強されたり、当事者活動に関わるようになったきっかけや経緯を聞かせていただいていいですか?
立野 これも自分が率先してはじめたわけではないんです。私が住んでいる市で、「身体に障害がある人たちが集まって、障害のあるなし関係なく新しく何かできないか」という話をしていて、グループをつくることになりました。その時に、なぜかわからないですけど、一番年下の私が代表になることになって「ピアカウンセリングをしようか」という話になったんですよ。
ピアカウンセリングは前から聞いたことはあったんですが、自分もいろいろなことを気にする方だし、「人の悩みまで背負えない」と思っていたので、実を言うと「カウンセリングには関わらないでおこうかな」と思っていたんです。ピアカウンセリングを勉強していた人がいたので、その方に任せようかと思っていたのですが、その方が参加ができなくなって、僕がやることになりました。
それで、「熊本と北九州はピアカウンセリングが盛んだから聞いてみたら」と聞いたので連絡を入れたら、「ちょうど講座があるから来てみないか」ということになって。当時はまだ、僕の介助をヘルパーさんにお願いしていなかったので、母と熊本へ行くことになったんです。
「どんなことするんやろうな」と思って行ったんですが、受講生同士でお互い、ピアカウンセリングをしながら、その手法を学んでいくという講座でした。講座は2泊3日だったんですが、2日目3日目になってくると体は疲れていくけれど、精神的には全然疲れない。僕はそれまで障害がある人たちだけのグループってものすごく違和感があって、苦手だったんですが、ピアカウンセリングは妙に心地よくて、「あぁ、こういうことは必要なんだなぁ」と。それから「自分の地元でもしたいな」という思いもあり、学んでいったのがこれまでのところにつながってますね。
―先ほどの乗馬のお話の時も“お母さんの必殺技”と仰っていましたが(笑)、立野さんはいろんな方の「やってみない?」というお誘いを積極的に受け入れて、それが今の活動や生き方に繋がっているんですね。
立野 多分、ものすごくラッキーなんでしょうね。っていうか、「いや」って言えないで、今がある(笑)。
―「障害がある人ばかりが集まる場に違和感があった」とも仰っていたんですが、ピアカウンセリングを勉強されたり、ご自身でも行なっていく中で、立野さんは自身の障害をどんなふうに受け入れられたのかを聞かせてもらえますか。
立野 そうですね。障害の受容に関してはよく聞かれるんですけども。これは個人的な意見で、その人たちを否定するものではないんですが、障害を乗り越えたっていう人がよくいらっしゃるんですが、僕自身は「障害は乗り越えきれないな」という考えをしてます。いつも障害がそばにある生活を、ずっと、この命が終わるまでするんだろうなと考えていて、それで不自由なことや「ああしたい、こうしたい」ができない場面が人生の中で度々表れると思うんですよね。
父親が10年前に亡くなったんですが、その時に、息子ながら、お棺も担げなかったし、骨も拾えなかったんです。それに、相手がいるわけではないんですが、結婚もしたいと思っていて、例えば将来、子どもが生まれたとして、その子がある程度、成長するまで抱っこすることは難しいだろうなぁとも思う。まぁ、そこらへんは、ずっと付きまとうんだろうな、という思いがあります。
でも、それをずっとマイナスのイメージで捉えると人生が嫌になってしまう。だから「うまく付き合う」というか。さっき父親の話をしたのでね。その話に例えると、じゃあ、僕の代わりに、僕の気持ちをわかってくれる人に、父親の骨を代わりに拾ってもらうことができるなとは思っていて。そう思えたのはなんでしょうね……多分、周りの人たちが「できないことがあったら手伝うよ」という姿勢で僕を見守ってくれてるからだろうなと思うんですよね。
なので、障害を受容しているのか、していないのかはよくわからないんですが、まぁ同じ「付き合う」のであれば、楽しく付き合おうよっていう感じです。だからこそ、飲み会の話も、友達には申し訳ないけれども、笑いのネタにして自分のものにしてるし(笑)。元々の僕はものすごくネガティブな面があるんですが、できるだけポジティブに考えられるようにしていきたいなぁと心がけて生きてます。
―立野さんの中で、やっぱり人との出会いというのがターニングポイントになっているんですね。これまでで、「この人と出会って自分が変わったな」とか「自分をつくってもらえたな」みたいな方はいらっしゃいますか?
立野 先ほどお話しした乗馬の話がターニングポイントの1ポイント目だったら、2ポイント目は大学生活だと思うんですよね。大学生活の中で、今も風船バレーも一緒にやっている友達が、僕の人生のキーマンだと思っています。彼とは、入学が4月だったにも関わらず、大学の友達の中でも、二人で話をしたのが一番遅くて、その年の10月ぐらいだったんですよ。まさかその時はこんなに長く付き合うと思っていませんでした。
ある時ですね。初めてうちに泊まって、遊んでいたんですよね。その時、僕は素直に嬉しかったので、「ありがとう」と言ったら彼が怒り出しました。「お前、ありがとうとか言うなよ」って。「俺はお前が障害者やけん、とかかわいそうやけんっていうて泊まりよっちゃないから。俺はお前といて楽しいけん、ここにおるだけや」と怒られました。今、彼にその話をするとーー多分、照れ隠しだと思うんですけどー―「覚えとらん」って言いますけど(笑)。
そうやって言ってくれる友達が大学の中には何人かいて、みんな、“身体障害者の立野くん“ではなくて、”1人の友達としての立野くん“という感じで付き合ってくれた。そこが自分の人生の大部分です。今こうやってお話させてもらっている部分も含めて、自分をつくってくれた時代なのかな、って感じます。
※ピアカウンセリング…1970年代初め、アメリカで始まった障害を持つ人の自立生活運動の中で始まった手法。「ピア」とは、仲間という意味で、お互いに平等な立場で話を聞き合い、サポートをし合いながら、地域での自立生活を実現する手助けをします。
4.障害や役割の前に「一人の人間」であること
◆立野さんの心配り
―今同席してくださってるコーディネーターの鈴木さんに質問なんですが、これまで立野さんと過ごしたり、外出された中で“立野さんらしさ”を感じたエピソードを教えてもらえますか。
鈴木 エピソード、そうですね。立野さんは、普段からすごく気を遣ってくださる方なんです。例えば、寒かったら「そこのヒーター使っていいよ」とか、暑かったら「その扇風機、使っていいからね」とか、ヘルパーに対しての心配りも素晴らしくてですね。
この気遣いエピソードの中で……言っていいのかな(笑)、私の中でちょっと笑ってしまったことがあるんですけれど、立野さんがオセロを持っていて、オセロをしたことがあるんですよ。
で、私は弱くて、すぐに負けたんですよね(笑)。立野さんにとっては多分、相手にならないぐらい。でも私が負けちゃったことに立野さんがすごく気遣ってくださって。
立野 いやいやいや……
鈴木 でも、その後に、「予想外のところに打つからすごく悩んだ」みたいな感じで言ってくださって、私に対してすごく気を遣ってくださるんだなぁと内心思いながら。
立野 そんなことないですよ。
鈴木 その気遣いが素晴らしいなと思いました。立野さん、その時、「あぁ、悩んだー」って言ってくれて(笑)。
―立野さんにはなんというか、じわっとくる優しさが。
鈴木 ありますね。
立野 褒めていただいて光栄です(笑)。
―では続いて、ホームケア土屋 長崎の中川龍嗣さんから預かった質問です。中川さんからは「同い年だし、男性同士だし」ということもあって「結婚願望はありますか」というダイレクトな質問をいただきました。先ほどお話にも出ていたんですが、いかがですか?
立野 いやぁ、中川さん、答えにくい質問を投げかけてきましたね(笑)。
そうですね。まぁまぁ、できたらしたいなと思ってます。家族もつくりたいし、それは結婚っていう形じゃなくてもいいと思っていて。自分と、一緒に人生を歩んでくれるパートナーがいてくれればと思いますが、まだ現れておりません(笑)。そこらへんはまだ、現実的に想像できないですね。
―あの、もう一回ぐらい金髪に染めて(笑)
立野 アピールしないと(笑)
―鈴木さんから、立野さんに聞いてみたいことはありますか?
鈴木 立野さんがホームケア土屋を利用し始めて、3年ほど経つんですが、「今まで土屋を利用してよかったな」と思ったり、思い出に残ってるところがあれば、聞かせていただきたいなと思います。
立野 土屋さんを利用させてもらうようになってから、土曜日の夜勤に入ってもらえる時間は、自分にとってものすごく自由な時間になってます。その時間で深夜番組を見たり、アイドルの映像を見たり、「〇〇したい」とアテンダントの方に伝えることもできるので。
平日は僕も仕事もあるし、支援の時間も決まっているんですが、土曜日の夜は自由です。何時に寝て何時に起きても自由なので、そこがものすごく良かった。
これを言うと、おべんちゃらを言うようですが(笑)、皆さん良い方なので、私のわがままに答えていただいているのが本当にありがたいです。
5.人との縁が切れないように、生きていきたい
◆その人にとっての、自立のタイミングがある
―今、立野さんは40歳ということで、40代、そしてこれから、立野さんはどんな風に暮らしたり、どんな仕事や活動をしていきたいですか。
立野 まずは健康第一に(笑)、と思ってます。
まぁ、それは大丈夫として40代、難しいところです。母と一緒に住んでいますが、母ももう年齢が年齢なので、今後のこともいろいろ考えなければいけないし、自分の仕事もどうやってキャパを超えないように進めていくかもそうですね。それとも繋がりますが、自分の体もどうなるかわからないし、いろんな不安はありますが、そこらへんは「なるようになるだろう」という考えをしないと前に進めないので。
今、土屋さんを始め、いろんな人が僕を支えてくれています。そこはもう甘えるというか、頼って生活できたらいいなと思っていますし、変化があったら変化があったでね。その時、その時で対応出来るだろうという楽観的な考えをしているんです。その中で良いパートナーが見つかればいいのかなぁっていう感じで、今から考えてますね。
―立野さんが今でも、これからでも、生活の中で何か軸にしているもの、軸になっているものってどんなものなんでしょうか。
立野 なんでしょうね。俺の支えになってるもの……。やっぱり人との縁が切れないように生きたいと思ってますね。今までの生活も、これからの生活もそうだと思うんですが、いろんな人と関わっていくでしょうし、いろんな人と出会っていくでしょうし、今まで関わってくれた人もいっぱいいらっしゃるので、その人たちと、できたら支え合いながら「自分の人生よかったな」と思えるような人生を過ごしていけたらいいのかなって思ってます。
―最後に、これから重度訪問介護の制度を使って、生活をはじめたり、活動をされたりを考えている当事者の方たちに向けて、何かメッセージがあったら教えてください。
立野 僕が学生だった頃は訪問介護自体もそうですし、重度訪問介護のサービスもまだなかったですから、親からの自立がしたくてもできなかったという現状がありました。
でも今は、いろんなサービスがあるので、そういう制度を使って、当事者の方も早く自立ができるようになったなと思ってます。でも、だからといって早く自立しなさいというわけではないんです。その人にとっての、自立のタイミングっていうのがあるんですよね。
自分の好きなところに行ったり、好きなものを買ったりができるようになったのは、ものすごくよかったと思います。ただそれができるようになったり、いい支えをもらえるようになるには、それを支えてくれる人と、いい人間関係をつくることが大事かなと思っているんです。
僕は今もずっと、長崎の土屋ケアカレッジで行なっている統合過程の研修で講師をさせてもらっています。そこでは、これから支援現場に入る新人アテンダントさんの方たちにお話をさせてもらっているのですが、やっぱりアテンダントをしてくれる方も人間なので、支援の現場でも「人と人との関係をつくることが一番重要なのかな」と思っているんです。
クライアントも僕たちも「給料が発生するんだから、そういう関係性のことは考えなくていい」んじゃなくて、「人間関係を良くすることで、いろんな人が助けてくれるよ」ということを言いたい。それも含めて、いろんな人たちと関わって良い人間関係をつくって、その先に楽しい人生が待ってると思う。いろんな人がその人のタイミングで、自立した生活を実現してもいいんじゃないかなと思います。
6.インタビューを終えて
インタビュー中、立野さんから滲み出ていたのは、まわりの人への細やかな心配りでした。“人見知りだった”立野さんが、人と出会い、他者とのかかわりの場に立った時、自身と他者の想いが混ざり合い、たっぷりのユーモアと共に生きる方へと動きはじめたのかもしれません。
そんな立野さんの生き方に触れ、後日、改めてメールで質問を投げかけてみました。
―家族の形は今、どんどん自由に変わっていってるように感じます。立野さんが想う「これからこんな家族と暮らしていけたらいいな」という家族像はどんなものですか?
立野 家族の形についてですが、個人的には、相互的に人生の中で大切な存在であり、ずっと側にいたい、また側にいて欲しいと思える人は「家族」と言って良いのではないかと考えます。
そこには、様々な関係性があっていいと思いますし、これじゃなきゃダメということはないと、私は考えます。
<ホームケア土屋 長崎 コーディネーター・鈴木瞭さんからのメッセージ>
アテンダントとクライアントの関係ではありますが、今では何かそれ以上の素晴らしい関係を築けているのではないかなと日々感じています。
これからも一緒に風船バレーや様々な場所に外出したり、夜勤時にはオセロ(立野様に勝てたことがない)で勝負したり、色々な事を支援(共有)できたらと思います。立野様の生活が少しでも不自由のない明るく楽しくなれるように私たち土屋がいつでもサポートしますので、これからもよろしくお願いします。
<ホームケア土屋 長崎 エリアマネージャー・中川龍嗣さんからのメッセージ>
私としても、コーディネーターとして、初めて支援開始から携わらせてもらい、様々な経験をさせてもらった方でもあり、同い年という事もあり、時折プライベートな話をさせてもらったりなど、楽しみながら関わらせてもらってます。
まだまだ制限がある中ではありますが、外出やイベントへの参加など立野様が日々楽しんで生活して行けるよう、微力ながらこれからも応援させていただきます。