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社会性、経済性、そして人間性について
伊藤一孝(ホームケア土屋 三重)

「お金を儲けるのは、悪いことですか!」

ある経済事件での記者会見席上、こう叫んだファンドマネージャーがいた。「物言う株主」として知られ、それまでの数年間は「ITバブル」「ファンドブーム」などの追い風もあり、我が世の春を謳歌していたことだろう。

もう15年も前のことだ。だが、彼はこの発言を残して、いったん表舞台を去った。

お金を儲けること。このこと自体が「悪」であるわけはない。

私を含むヨノナカのほとんどの人間は、労働の対価として「金」を獲得し、そのことで口に糊して生きている。このことは厳然たる事実だ。

しかしその一方で、私たちは「金のことを口にするのは、はしたない」という「DNA」とでもいうべき感覚を有している。かように、こうした「本音と建前」が介在するヨノナカに私たちは生きている。

およそ15年前、当時はまだtwitterなどのSNSは、今ほど社会に浸透していなかった。この発言は、当時もそれなりにマスコミから叩かれてはいたが、今のIT環境であれば、間違いなく市民をも巻き込み「大炎上」だったことだろう。

時代は平成から令和に変わり、コロナ禍を経験することで人々の価値観も15年前とはずいぶん変化してきていると思う。

だが、令和に生きる今の私たちの感覚でも、この発言にはどうにも違和感が残る。

ヨノナカの違和感。それはそもそもの疑惑が、インサイダー取引という非合法で卑怯なものだったということ。

また、「儲ける」という言葉が「稼ぐ」という言葉から受けるポジティブなイメージとは違い、「濡れ手に粟」を想起させたからに他ならない。「出る杭は打たれる」というわかりやすい空気ではなかったことを記憶している。

冒頭に記したとおり、私自身には「儲けること=悪」という単純な構図は浮かばない。

だが、私も当時のヨノナカと同様に、彼の発言には違和感を覚えた。その違和感は、彼の「商売観」だ。

ファンドマネージャーという仕事は、投資家から預かった資産を運用する業務を指す。

また、単に運用を担うだけではなく、株主として戦略立案などの株主提案を行うことで、投資先企業の「もっと良く」を担う人もいる。

そのことにより健全に株価を押し上げ適正な利ザヤを稼ぐわけだ。

「物言う株主」を標榜していた彼の「志」は、本当はそこにあったに違いないと信じたい。だが残念なことに彼の「志」はヨノナカには伝わらなかった。

言葉から透けて見えた彼の「商売観」は「金儲け=目的」だった。

まったくの私見であり、いささか性善説すぎる考えではあるが、ありとあらゆる商売は「ヨノナカの課題解決」を「目的」にしていると思っている。

わかりやすいのは医療関係者だ。病気や怪我で「困っている」患者に適切な治療や看護を行うことで治していく。

では八百屋はどうか。ヨノナカの「もっと安く」「もっと安全な」「もっとおいしい」大根を食べたいという「課題=ニーズ」にどのように応えていくかで、店の評価が定まっていく。

商社、メーカー、金融、サービス業……、全ての商売はヨノナカをあるいは特定の個人や集団を「もっと良く」するために存在しているのだ。

これこそが「事業目的」である。決して「金儲け」が「事業目的」などではない。

何故なら、本来「金儲け」は「事業目的」を達成するための「手段」に過ぎないからだ。

冒頭で紹介したファンドマネージャーは、多少小難しい言い方になるが「金儲けという手段が目的化」してしまった。

そして、そのことがヨノナカから反発を受けたということだ。金を儲ける「ため」なら「手段」は選ばない。

ヨノナカは、そんな本末転倒した考え方に違和感を覚えたのだ。

株式会社土屋の事業とて「課題解決」という構造は同様だ。

社内ではよく「社会問題の解決」という言葉が飛び交うが、社会問題というテーマと向き合うからといって、決して特別な考えで動いているわけではない。

障害者・高齢者福祉に対してさまざまな行政サービスを駆使し、あるいは未知の方策をつうじて「社会的弱者」と称される方々の「もっと良く生きる」という課題をいかにクリアにしていくか。そのために存在しているといってもいい。

また、「もっと良く生きる」という課題を見つめる視線の延長線上には株式会社土屋に集う全従業員がいる。これこそが事業の目的である。

だからこそ、「目指せ売上100億円!」「IPOの実現」が事業の目的ではないことは明白だ。繰り返すがこれらは「手段」でしかない。

長々と「目的」と「手段」の違いやそれぞれの意味について書き連ねてきたが、大切なことは「目的」と「手段」は「バランスという視点でとらえること」だ。

極端な例えをするなら、こういうことだ。会社の利益の全てを事業の目的達成のために「無計画」に投下し続けていたらどうなるか。

金融機関からは相手にされなくなり、確実に事業も雇用も維持できなくなっていく。投資分は回収できなくなり、やがて事業縮小、あるいは倒産となる。

もちろん事業の目的達成は道半ばとなる。

NETFLIXで「全裸監督」というドラマが配信されている。その続編である「全裸監督2」では、衛星チャンネル構築という「夢」に向かって邁進し過ぎるあまり「無計画」に金を使い過ぎて破綻した主人公が象徴的に描かれている。

一方、やみくもに「売上を上げろ!」と「手段を目的化」してしまった場合はどうか。

ホームケア土屋を例にするならば、こういうことだ。新規拡大を急ぐあまり、細かな初期設定や現場管理がおろそかになり、結果として各現場でのサービス水準は低下。

アテンダントは疲弊し、現場維持が困難になる。

新規現場を構築したくても、「土屋=サービスレベルが低い」という評価ではケアマネや相談員、行政も土屋のアテンドには二の足を踏むようになる。

もちろん上記2例は振り切った話ではあるが、目的と手段のバランスを欠いた場合、陥りやすい点であることは間違いない。

実際、事業目的という企業の根幹を大切にするか。経済活動の拡充を優先させるべきか。この二者は対立構造で語られることも少なくない。

しかし、経営や事業運営で大切なことは「バランス」だ。

前職では、内定者や新入社員、中間管理職向けのセミナー等で話をする機会も少なからずあったが、こうした話題になった際、決まって以下の例えで説明をしてきたものだ。

「あなたは、お母さんとお父さんのどちらが大切と思いますか?」。

もちろん、それぞれの家庭環境や親子関係、あるいは年齢により「どちら」の比重には、幾ばくかの感覚的差異が生じるとは思うが、概念としては、母も父も、「大切さ」という指標ではイーブンであることに誰しもが異論はないはずだ。

そして母と父が、それぞれの役割を全うし、連携しあうことで家族の発展が約束される。とはいえ、現実の家庭は、経営と同じで、なかなか思惑どおりにはいかないものだけど。

最後に今回のお題のひとつである「人間性」について触れてみたい。

「人間性」。

さまざまな場面で何気なく使われる言葉であるが、その意味や解釈は人により案外バラバラだったりもする。

広辞苑で引いてみると、こうある。「人間としての本性。人間らしさ」。ますますわからなくなる。

「人間性」という言葉は、人により考え方や捉え方は違うものだ。

さまざまな概念のなかから何を「人間らしい」と判断するかは、面白いくらいに個人差がある。

私は「人間性」とは「相手を思う心」と定義している。

ここでいう「相手」とは目の前にいる存在に限定しない。出会ったことのない相手、あるいはもう出会うことのない相手も含まれる。

つまり「ヨノナカ全般」を思う心と換言してもいい。

ビジネスの世界では「鳥の目」「虫の目」という言葉を使うことがある。「鳥の目」とは文字とおり高所から全体を俯瞰する視点を指す。

一方「虫の目」とは、細部を見つめる視点のことだ。この二つの他にも、「魚の目」「蝙蝠の目」といった例えもある。いずれも視点の違いを表すものだ。

こうしたさまざまな視点から「相手を思う」。「人間性」は「高い」「低い」で論じられることが多いが、私にとっての「人間性が高い人」とは、冷静に、かつ複眼的に「相手を思うことができる人」。

一方「人間性が低い人」とは、己の主義・主張あるいは利益を守ることに腐心するという視点でしか物事をとらえることができない人、となる。

昨今、SNSなどで、一方的かつ徹底的に「私刑」とでもいうべき制裁を加えることに酔いしれる人たちがいる。

こうした人たちは、私の定義では「人間性が低い」と言わざるを得ない。

とはいえ今の私は、聖人君子などではなく、自らが定義する人間性の高さからはほど遠いが。死ぬまでにはもう少し近づけるかな、どうだかな……。

事業目的という企業の根幹を大切にするか。経済活動の拡充を優先させるべきか。

このバランスを考えながら一方では「ヨノナカを思い」、事業の目的を達成させていくために粘り強く計画を立て、戦略を練り、実現に向けて汗をかく。

それができる人間になりたいと願って生きてきた。

長いこと社会人として生かされてきたけれど、「社会性」「経済性」「人間性」、いずれも奥が深すぎて、なかなか攻略できない自分に惑う今日この頃である。

プロフィール
伊藤 一孝
ホームケア土屋 三重

050-3733-3443