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【片岡晶彦さん 高知 脳性麻痺】

クライアントインタビュー 
片岡晶彦さん(ホームケア土屋 高知)

インタビュー前、一冊の本が届きました。タイトルは「脳性まひだよ、さぁ大変  私の七転び八転び人生」。
20年という歳月をかけて、2021年に出版された片岡晶彦さん初めての著書です。

思考がぎゅっと凝縮された言葉の中にある片岡さんの“声”は、時に深く心に染み込み、時に豪快な笑いを誘い、そしていつの間にか――私たちは煙に巻かれています。エピソードの一つひとつには、個人として正直に生きる覚悟が滲み出ていました。

2018年に脳梗塞で倒れてからも“ファイトを燃やし”、現在はポインターで会話をされる片岡さん。著書の中の言葉を紹介しながら、文書にてお話を伺います。

片岡晶彦さん プロフィール

<文書インタビュー 2023.9.21>

1.早寝早起き、それなりに元気なおじん。

―最近は一日、もしくは一週間をどんな風に過ごされていますか。

早寝早起き、それなりに元気なおじん。外出(必要時以外)は呼吸器からの離脱が前提なので先が不明。
今の小さな部屋が、多くの時間の相手だが、心は色んな所へ行っている。

―テレビ番組や映画、音楽等でお好きなものがありましたら教えてください。

TVは基本、気に入ったものを録画して見るが、ニュース解説や社会ドキュメント、旅行物。バラエティは見ない。映画は、アクションものと社会もの、サスペンス。記憶をたどって集めたのが670タイトルを超えた。ホームシアターもどきのしかけで見ている。現在インターネットの操作をしたくて、その準備中。

興味あること;社会的モラルの変化。例えば、ジャニーズや諸宗教に対するマスコミの扱いなど。

―片岡さんのまわりには今、どんなものがあり、どんな風景が見えていますか?

部屋がほとんどの生活の場所なので、今までの記憶が中心の生活。退屈してないのが不思議だが、そうでもないのは、今までの体験などを記憶しているためと、いろいろな変化を自分なりに考えることが忙しいため退屈しない。

―幼少期や若い頃、ご自身の中で転機となった出来事や出会いがありましたら、3つほど、お聞かせください。

最初は、8歳でひらがなが理解できたこと。
次が、養護学校の先生は無理といったが大学に進学したこと。自立、自活生活の基本となった。
最後に、倒れても(*脳梗塞で)それなりの思考力が残っていたこと。

昔、遠慮のない少し目上の友人に、「君には一人前のモノが3つある」と言われたことがある。
「自分で酒を飲むこと(リラックス効果があり、好き酒品は悪くないつもり)」、「体格と年齢の割に食が進むこと」、「言語障害があるくせに、営業マン、ソーシャルワーカー、大学の非常勤講師と言葉を操る仕事をしてきた」。

すべて口に依存して生計と生活をしてきた。それを一気に失えば相当な衝撃だ。
人間は平等だとよく言われる。それは常に何らかの条件を付けたうえでの平等だ。元々不平等なのを糊塗する言葉だとつくづく思う。人間、上や下を見るのはよくない。

今こそ自分が試されている。ある意味、これまでは助走だったのではないか。
今までも不可能と言われて、ファイトを燃やし、その中で得難い友をはじめとした収穫物があって、ある意味、手ごたえのある半生であったではないか。

これで短絡的になって晩節を汚すな。真のプライドとは何かを模索するのも、人生の最終版の課題としていこう。

――『倒れる』
(*脳梗塞で倒れられた2018年3月の手記)

<1968年5月 生家で>

<1960年7月 3歳の時>

2.自己否定に陥らないために必要なもの

人間は生きて行く上で、その時代背景を無視することはできない。その意味で、私より、年長、すなわち戦前、戦中、戦後、そして高度経済成長期と、障害者にとって大変な時代背景の中で生きてきた勲章として、個の頑張りを強調しているからだ。

頑張ると人は疲れる。まして、さほど強くない私は、幾分かその個人的な頑張りが実感として共感できる分、なおさら疲れる。
最近知り合った年上の友人に、「上質なユーモアは他人を傷つけない。そのためへの一番の近道は自分を笑いものにすることだ。

似ていてもジョークには風刺が必要なので、センスが問われる」といった話を聞いた。
そこで、私の現在までの体験や、それを通じての感想めいたものを散発的に書いてみようと思った。

―『まえがき』より

・・・

―本を書こうと思われたきっかけについてお聞かせください。著書のあとがきでは「前書きを書いてから20年以上の時間がたち」と書かれていましたが、書き終えた時、その思いはどんなふうに変わっていましたか。

きっかけは、今まで障害者の著書を読んだが、しんどかったので、楽しいものにしたかった。
生活に追われて、筆が進まなかったのを言い訳にしたい。

出版後;編集者と意見の齟齬があり、前書きのようにいかなかったのが少し残念。元と違い幼稚ととらえられがちな目次設定にも不満。

―本を読み終えた時、「この本自体が、片岡さんのユーモアとジョークの壮大な実験なのでは?」と感じました。特に「まえがき」にこの本の全てが表れているように思いますが、片岡さんの人生において、笑いやユーモアとはどんなふうに関わっていますか。

自己否定に陥らないためには、何かが必要。それが私はユーモア。

昔から、悲壮感がないと指摘される。ノー天気な性格もある。もう一つは泣くのはプライドが許さない向きもある。
全体として私は、今まで受けてきた教育とそこで得た友人達に救われている。

―「ヨタヨタ、ケタケタ」という言葉は、本の表紙にも文中にも何度か使われていました。この言葉を気に入っていらっしゃるのはどんなところですか。

それは、編集者が気に入ったもので、私はあまり好きでない。

―「私の好きな言葉」のページには、長宏さん(おさ・ひろし/元日本患者同盟会長、朝日訴訟の闘士)やニーチェの言葉に混ざって、ご自身の言葉「“人間を介して自分の実像を知る” ―片岡晶彦(寝たきりになった障害者)」とありました。これはどんなご経験から生まれてきた言葉ですか?

自分もそうだけど、他人の観察は時としてかなり鋭いものであり、それをよく感じているから。

―片岡さんが自分らしく生きるために必要なものとは、どんなものですか?

自分らしく生きるためには声が必要。今は猫をかぶっている。
(*現在、呼吸器からの離脱に向け療養中)

・・・

ある時、ベビーカーとおむつを卒業して間もないくらいの男の子が床に這いつくばって、手足をばたつかしていた。
そこは玩具売り場でも、お菓子売り場でもない。身なりもこざっぱりしている。

体格の良い母親が抱き上げようとするのを、頑強に抵抗している。
自我の目覚めの始まりを、興味深く見ていると、母親が申し訳なさそうに話しかけてきた。

何かと思っていると、私の電動車いすに乗りたがっているとのこと。少し驚くが万一、けがをさせることもあると断ると「かまわない」との確認を取り、子どもを膝に乗せる。

当時は左手も少し使えたので、はしゃぎ気味の子どもを強めに抱え、耳元で、しっかりここにつかまっているように、それと操作をする右手には触れない男同士の約束をしたうえで場をひと回り。
途中安全を確認したうえで、重力を体感させる悪戯も(これはバカ受け)。
恐縮する母親に満面の笑みの子どもを返した。

――『最強?』

<1978年10月 学校にて>

<1986年8月 職場にて>

3.個人の確立と他者との関係

初めのうちはやや抵抗感というか勇気が要った。しかし風呂の誘惑の前にはちいさなプライドなど言ってはいられない。そう自分に言い聞かせて銭湯に通った。

このことから、人はよほど非常識なことでないかぎり、こちらが場所と状況と相手を間違えずに物事を頼めば、断る人の方が少ないのに気が付いた。

さらに、手を貸してもらったのがキッカケで知り合いになれたりする。私の銭湯通いは結構楽しいものにすることが出来た。
この、その時々に少しだけ他人の手を借りるという方法は、その後、私の生活を広げてくれた。
しかし、本当に広がったのは私の生活ではなく、手を貸してくれた人の心でもあると思いたい。

――『お風呂』
(*県外で一人暮らしを始めた20代の頃の手記)

・・・

―著書の中で、「人間は最終的にひとりだ」とも書かれています。その上であえて、片岡さんにとって“他者と生きる”とはどんなことでしょうか。

人の間と書き人間とあるように、他者との関係を持って生きていくのが人だと思うが、同時に個人の確立が市民社会の前提と思う。他者との関係を求めるのは、生まれた瞬間から、人は孤独なものなので他人との関りを求めるのではないかと思う。

―これまで幾人ものヘルパーが片岡さんとご一緒したかと思います。印象的なヘルパー、気になったヘルパー、どんな点が心に残ったかお聞かせください。

特にないが、いろいろな方がいてその後ろにある生活歴を想像した時、面白いと思う。

―ヘルパーやこれから片岡さんと関わる人に向けて、片岡さんはどんなものを求めていますか?また、Z世代という言葉もありますが、片岡さんのこれまでの人間観察から年代の差によってヘルパーになる方、向いている方などのお考えをお聞かせください。

介護に向かない人はいないと思う。ただ、個人間のものなので合う合わないがあると思う。

人が文字に書いた最古の物の1つに「近頃の若者は何を考えているのか分からない」とある。これは人類の進歩の裏面を表した言葉と思う。世代ごとの認識の違いは当然あるが、その事を理解した上なら、あとは対象者との相性ではないかと感じる。

求める事;人が生きるには、階層性があることを理解していることが最低必要だと思う。
まずは、生理的に生きていることについて介護することが重要。その上に社会的なものや経済的なものがあり、一番上にその人の人となり物の捉え方、いわば、哲学があるように思う。

上部に行く程介護の質が変わる。また、「してあげる」の感覚より、仕事としての一つのプライドと位置づけを持っていて欲しい。

―このインタビューは、さまざまな障害を持つ方が自身の生き方を広げるきっかけとしても読んでいただけたら、と考えています。障害を持つ方へのメッセージがありましたら教えてください。

それぞれの違いがあるが、日常生活に援助を受けることに、卑屈にならず生活してほしい。

―著書のあとがきに書かれていた“新しい挑戦”とは?今、片岡さんはどんなことを考えていらっしゃるのでしょうか。

なにが今出来るかを見つけるのが新しい挑戦。

・・・

寝たきりの生活も2年目を迎えようとしている。
スタッフの尽力により、特殊なやり方でささやき声を短時間出せるようになった。

言語障害がある癖に、元々話し好きのお喋りというあまり男らしくない性分なので、S T(スピーチセラピスト?)の方が付き合ってくれるのをいいことに、これまでのストレス解消とばかり、くだらない話をしていたところ、「あなたには悲壮感がない」と指摘された。

少し、さぁ大変。
同じことを指摘された経験は何度かある。
いずれも、成人を過ぎてのことなのだが、どのように受け取るべきか逡巡した。

このような時、友人はありがたいときがある。しかるべき友はくだらない話をしっかり受け止めてくれる。

――『悲壮感』(2021年7月の手記)

<1987年4月 私が運転席に座ると皆、注目した。>

<文書インタビュー追記/2023.10.16>

―笑いやユーモアについて
「今まで受けてきた教育、そこで得た友人達に救われている」と仰っていました。印象に残っている具体的なエピソードなどありましたら、お聞かせください。

複雑すぎて、一言では言えない。

―「人間は最終的にひとりだ」と仰っていた片岡さんの孤独を支えた、勇気づけた音楽、映画、散文などありましたらお聞かせください。

ハードボイルド物の小説や映画

―社会的モラルの変化について
ジャニーズ問題の報道の仕方も含め、ここ数年で日本人は大きな価値観の変化を余儀なくされていると思います。「個の頑張りを強調」されてきた戦前〜高度経済成長期を経て、現在の社会的モラルの変化は、どんな時代背景のもとで起こっていると思われますか。

権力と闘った事が少ない国民性がひずみの原因では?と思う。

アテンダント・小松美智代さんへの質問

―片岡さんとは現在、どんな時間を過ごしていますか?片岡さんからユーモアを感じた瞬間や、印象に残っているエピソード等ありましたら教えてください。

何年もお一人で自立して暮らされてきた方なので、それまでと同様に基本、静かな時間の中で過ごされ、お考えの邪魔にならないよう心掛けています。

時に話しかけられれば思う事を素直にお伝えしたり、楽しいお話なら共に爆笑したり、理解できないお言葉があれば教えを乞うたりしています。

また、歴史的な話題も多く、分からない事は「お宿題にさせて下さい(冷や汗!)。」と次回の課題をいただいたりしています。(いや~なにせ、歴史に限らず1を問えば100の知識で返され、情報量が半端ない。アニメのキャラクター名の由来から、分断支配といった統治法などにつき詳細に述べられる。

また、物の見方や考え方についても教えて下さり、「へ〜!(今までの私の考えって何だったの?)」と驚く事が多くあります。博識で才能ほとばしるような方のお側で、多分野における学びの道を邁進中です。

ユーモアについては、毎回オチのあるお話を伺い、そのたびに健康的な笑いを提供していただいております。(立場逆転?)

ある時、エビ料理で有名な店はどこにあるかという話題になりました(後に、高知市から車で東へ40分程の場所にある店が美味しいとのこと)。店の場所をお尋ねしてみました。地理的にも詳しい方なので、さぞ、懇切丁寧なお返事があるかと思いきや、ポインターで指し示された文字は、いたってシンプル……。

堂々とのたまうは、「ヒガシニイケバアル」と。日頃の饒舌さはどこへやら。あまりのギャップに絶句、つい噴き出してしまいました(諸事情がおありだったのでしょう)。

<小松さんより追記 2023.10.16>

今回、片岡さんへのインタビューを通して、障害を持つ方々に対しての考えが一転した二つのお言葉を紹介申し上げます。

①「動機が強くないと、障害者の自立・生活は難しい」(見方を変えれば、物心ついてから
今まで、社会制度や世の偏見に、どれほど長く孤独で過酷な闘いを強いられていることか?片岡さんは、知恵という鋭い武器を携えた誇り高き戦士なのかもしれません)

②片岡さんのご友人のお言葉より『好きで障害者をしていないなら人の手を借りるのも恥ずかしい事ではない』(そこに重度訪問介護の存在意義もあるのでは?)

高知事業所 管理者・畑山一樹さんへの質問

―片岡さんとはどんな時間を過ごしてきましたか?ユーモアを感じた瞬間や、印象に残っているエピソード等ありましたら教えてください。

初めて片岡さんにお会いさせていただいたのは、病院でした。ご退院の準備が着々と進んでいる中でご挨拶と研修のご協力をして頂きました。素直な片岡さんのファーストコンタクトは難しそうな方なのかな…怒られないようにしようという気持ちでしたが、すぐにその印象はなくなりました。

僕が言わせていただくのはおこがましいですが、社会人としてのマナー(挨拶気遣い)はもちろんの事、安心感を与えてくれる笑顔、お言葉がそこにはありました。
実際に現場に入らせていただいた時にはこんなにも「ありがとう、お疲れ様」というお言葉があるんだと感じました。

さて本題に移ります。ユーモアのある場面ですが、支援時には毎回、ユーモアを感じており、具体的に申しますと、笑顔、話のネタが尽きない(教養あるお言葉)です。

支援の中で分からない単語が多くあり、毎回勉強させていただいてました。片岡さんからしたら話のネタの中の単語一つの意味ですが、畑山はその単語の意味もお尋ねしていたので、コミュニケーションに疲労を感じさせてしまっていたのかもしれません…

支援に入らせていただく前に、これを聞いてみよう、等と考えていた時もありました。
今のご時世、スマホで調べれば一発です。が、片岡さんから見た視点や考え方を聞いてみようという気持ちが強くありました。

・・・

ときに不自由な自分の体を、ときに笑いの種にしている。
自分を笑い物にするのはユーモアの常道とはいえ、初めはかなり違和感があった。
ふと、彼に「もし五体満足だったら何がしたいか」と聞いてみた。

しばらくの沈黙の後、「やりたいこと、やってみたいことは山の様にある。でも、今思い付くことはすぐ当たり前になることばかりだ」といつものようにケタケタと笑ったのち、「ないものねだりをするのは子どものすること」と言われ感慨深かった。
「こんな人もいる」と思うと改めて、「人間とはやはり素晴らしい生き物だ」と、年甲斐もなく胸を熱くした。

――『出会い』

・・・

<略歴>

片岡晶彦(かたおか・あきひこ)

1957年4月19日、高知県吾川郡の旧・吾北村(現・いの町)上八川に生まれる。
3歳時に脳性まひの診断を受ける。同時に障害者手帳1種1級の一番重いのを取得。
1965年、無理やり(かなり先進的な形で)村の小学校に入学する。

1966年、高知県立の療育施設「子鹿園重度病棟」に入る。同時に隣接の若草養護学校(肢体不自由の養護学校)分室に入学。小学2年生、9歳のとき。ここで不安定ながら、歩けるようになる。ちなみに、肢体不自由と知的障害の養護学校が義務化したのは1979年。

1977年、若草養護学校高等部卒業。2年先輩で自分より障害の重度の人の短大進学に触発されて日本福祉大学に入学。若草養護学校高等部では初の4年生大学進学。

1981年、日本福祉大学卒業、その後、保険会社勤務を経て病院ソーシャルワーカー、大学非常勤講師をする。
2018年3月2日、脳梗塞を発症、寝たきりで人工呼吸器のついた状態になる。
2021年7月12日、自宅生活を24時間介護にて始め、現在に至る。
2022年「脳性まひだよ、さあ大変 私の七転び八転び人生」出版。

・・・

インタビュー協力:ホームケア土屋 高知 アテンダント 小松 美智代
構成:本社 社長室 野上麻衣


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