【岸田美智子さん 大阪 脳性麻痺】

目次

クライアントインタビュー 
岸田美智子さん(ホームケア土屋 大阪)

1999年から一人暮らしをはじめ、今年で24年になるという岸田美智子さん。これまでも、そして今もパワフルに地元・大阪でさまざまな障害者運動や地域での自立生活に積極的に取り組んでいます。

このインタビューでは、前半は岸田さんが紡いできた家族や地域の中でのエピソードを、後半では、岸田さんの豊富な経験から考える障害者の自立や、優生思想について尋ねます。

元気に、根気よく、時にのん気にーー深刻な話題を交えながらも、のほほんとした笑いが交差する、まさに岸田さんの歩みのようなインタビュー。

今回は、岸田さんが長年活動を共にし、現在も週4日ほど通う、大阪・長居の「ピア・エンジン」にてお話を伺いました。

岸田美智子さん プロフィール

▽Zoomインタビュー参加者:

  • 話し手:岸田美智子さん
  • 現地コーディネーター:ホームケア土屋 大阪 松岡沙季
  • インタビュアー:本社 社長室 野上麻衣

普段の生活

―今日は2時間半のインタビューになりますので、休憩が必要なときは、いつでも教えてください。

岸田 休憩大好き(笑)。

―はい(笑)、ありがとうございます。今日は、岸田さんが働かれているピア・エンジンでインタビューを受けていただいているんですが、普段はどんな仕事や活動をされているんでしょうか。

岸田 はい。地域の人たちに障害者の生の声を届けたり、啓発活動をすることが多いです。紙芝居とか。小学校に行ったり、小・中・高・大学で講演してます。それは私ひとりじゃなくて、障害当事者の方と一緒に行なってます。
あとは、生活介護事業所 ライフ・ネットワーク 、ウィルーーそこの生活介護を利用してるメンバーが30人ぐらいいてライフワークやウィルの生活介護のプログラムを考えたりしてます。7年前に入所施設で起こった19名が殺された障害者殺傷事件(相模原施設障害者殺傷事件)がありましたが、この事件のことを風化させないために毎月26日前後の命日にアピール活動を行なって、優生思想の怖さを伝えたりもしています。

―学校では、どんな講演をされているんですか。

岸田 以前はここから近い大阪市立大学に行って講演をしてました。「障害者と人権」っていう授業をちょっと昔に手伝っていたことがあって、その流れで今も大学で講演をしてます。4年ぐらい前から体調が悪くなったので、最近はあんまり行かなくなったけど。

―普段の生活で「こんなことしてます」とか「こんな趣味があります」があったら教えてください。

岸田 外出が好きです。

―どんなところに行かれるんですか。

岸田 最近は本物を見に行こうと思ってます。ちょっとお金かかるけど。

松岡 なんの本物ですか?

岸田 小田和正のコンサートに行ったんです。火曜日に行ってきたばかりで。あと、DRUM TAOも好きです。あとは、蟹のコースを食べに行ったり。あとは、劇団四季の『オペラ座の怪人』を見たり。

―いいですね。ご近所でよく行かれる場所はありますか。

岸田 大阪の我孫子に住んでるので、食べるところがいっぱいあるから、お店屋さんーー『あずま寿司』っていうお寿司屋さんが、値段がリーズナブルで、いっぱい出てくるんです。回るやつじゃなくて、握ってくれるやつです(笑)。そこが値段も安くて、味も美味しいので、まあまあ行きます。

―ちなみに、お寿司のネタは何がお好きなんですか。

岸田 ハマチ以外は何でもいけます。

松岡さんから見た「岸田さん」

―今日はコーディネーターの松岡沙季さんが同席してくださってます。松岡さんは岸田さんと関わられてどれくらいになるんですか。

松岡 私が岸田さんと関わらせていただいたのは、コーディネーターになってからになりまして、ちょうど2年ぐらいです。

―今は、どれくらい岸田さんの支援に関わられているんでしょうか。

松岡 土屋の支援時間は、だいたい月50時間ぐらいですね。夜の10時から朝の8時までの夜勤です。

―岸田さんのどんなところに魅力を感じるか、−−ご本人を前に恥ずかしいかもしれませんが(笑)、聞かせてください。

松岡 そうですね(笑)。自分の思ってることをはっきりおっしゃってくださるのと、それでもこちら側に気を使って、気にされてたりするので、すごく優しい方です。

―岸田さんと一緒に過ごされてる中で、印象に残ったことや「岸田さんらしいな」というエピソードがあったら教えてください。

松岡 岸田さんらしいかどうかは、わからないんですが、岸田さんは紙芝居もされていて、それがすごく面白いんですよね。まだYOU TUBEに上がってないんですけど(笑)。あ、でも今、もう上がっていますか?

―その紙芝居は「みっこ&たまちゃんねる」(*1)という動画ですか。

松岡 そうです。そうです。

―私もまだ見てないので、後で拝見させていただきます。

岸田 見てくださーい!

―はい。ではもうひとつ質問ですが、岸田さんを「人生の先輩としてかっこいいな」と思った出来事やエピソードがあったら教えてください。

松岡 やっぱり人間関係のところですね。「どういうふうに伝えたら相手が分かってくれるかな」とか、「こう言ったら自分の気持ちを素直に受け取ってもらえるんじゃないか」ということをいつも考えておられて。あまり当たりの強い言葉は使わないようにしてらっしゃる。そういうところがすごいなって思っています。

子どもの頃 ―自立の芽

たばこ屋さんの店番をする岸田さんこと、“みっちゃん”

たばこ屋さんの店番をする岸田さんこと、“みっちゃん”

―岸田さんは子どもの頃、どんなお子さんだったんでしょうか。

岸田 あんまりなんかね。ちょっと変な子だったみたい。授業中に「わかったら手あげなさい」って先生に言われても、手を挙げなかった。手を挙げないからわからないのかな、と先生は思ったみたいだけど、ちゃんと答えをわかっていたので、「なんで手を挙げないの」ってよく通信簿に書かれていました。

―その時は、なんで手を挙げなかったんですか。

岸田 その時は、なんでかわからんかったけど、今考えたら「恥ずかしかったのかな」とか、「自分はもうええわ」って思ってたりしたんかなぁって。

―少し恥ずかしがり屋のところがあったんですね。

岸田 そうですね。でもね、中学生ぐらいの時に放送部に入ってました。それで先生に突撃インタビューに行ったりしてました。校内放送を作るのが面白かった。

中学・高校と今で言う支援学校に行ってて、高校を卒業するときーーあとから同窓会の時に先生に言われたんですけどーー支援学校の進路指導の先生に「先生のこと、あてにしてないわー」って言ったって(笑)。私は全然覚えてないんだけど、未だに言われる(笑)。

知らんけど、そんな偉そうなこと言ってました。

―当時から、「自分でやっていくんだ」みたいな思いがあったんでしょうかね。

岸田 かもしれないですね。「自分は自分や」と思い込んでた。

―岸田さんのご家族や、生まれ育ったお家はどんなところでしたか。

岸田 兄弟はお兄ちゃんだけで。あとはおじいちゃんとおばあちゃんと両親の家族でした。
昔っからたばこ屋さんをやっていて、もっと昔は油も売ってた、というのが思い出に残ってます。

あと、おじいちゃんがおんぶして、映画によく連れて行ってくれてました。わけわからん映画だった(笑)。よくおじいちゃんの横に座って見てた。チャンバラ映画が多かったです。

―事前に読んでいた資料の中にも、おじいちゃんやおばあちゃんが「孫娘の私を、どこに行くにも抱っこして連れて行ってくれた」というくだりがありました。

岸田 お客さんが来られた時に、姿を隠さずに紹介してくれました。私は恥ずかしいから、お客さんが来たら自分で隠れてた。

―「映画館に行く道中でお菓子を買ってもらうのが楽しかった」とも書いてありましたね。

岸田 それがあったから一緒に行ってた(笑)。サイコロキャラメルとか、マーブルチョコとか、ミルキーとか、サイコロの飴ちゃんとか、それからパラソルっていうチョコレート。いつもお菓子を買ってから映画に行くから、それが欲しくって「一緒に行く行く」って。

―子どもの頃の話を、少し違う角度から質問してみたいと思うんですが、岸田さんは「子どもから大人になった瞬間」って覚えていますか。

岸田 そうですねぇ。この質問がよくわからない。子どもから大人ってどういう感覚ですか?

―そうですね。私の場合だと、母親に対して「この人と私は違う人なんだ」って分かった瞬間が小学校4年生の頃にありました。それまでは「全部自分のことを分かってくれてる人」と勝手に思い込んでいたんですが、その時は意見が全然合わなくて「この人と私は違う人だ」と知ったのが自分にとっての大人になった瞬間だった……という記憶があります。自立と関係することだと思うんですが、岸田さんにもそういう瞬間があったら聞いてみたいと思って、この質問を考えました。

岸田 答えが合ってるかどうかはわからないですけれど、ちっちゃい頃から両親の方が先に亡くなると思ってたから「自分で何でもできないとダメだ」と思ってました。だから自立も考えたし、外出もしてきたんだと思います。

初めてボランティアさんと外出したのが高校一年生ぐらいの時です。その時に2泊3日のキャンプに行って。お風呂介助にボランティアさんが来てくれて、親より上手かったから、「ええー!」と思って(笑)。

心配したけど、「そういうもんなんやなぁ」って。そこから他人の介助を受け入れて、生きていく自信になった。

―100通!来たお手紙には、皆さんにお返事を書いて。

岸田 大変やった(笑)。わざわざ会いに来てくれた人もいて。下関からヒッチハイクで会いに来てくれました。

岸田さんは、4歳のころ、おじいちゃんに連れられて行った映画館で、横に座っていた男の子から「気持ち悪い」と言われたことがあったと言います。岸田さんは、その体験についてこんなふうに書いています。

「今から考えるとこの体験がきっかけで自分が障害者だと認識していったと思います。(略)
でも、私の家族や地域の一部の人たちが障害をマイナスとはとらえず、積極的に関わってくれていたことが“おおきな力”となったと思います。現在の私が、もし障害受容ができているとすれば、家族と地域の人たちとの関係が大きかったのだと思います」
(N P Oちゅうぶ通信「ナビゲーション」857号2009.11.22発行 岸田美智子エッセイより)

ここからは、岸田さんがこれまで書かれてきた言葉をもとに質問をしていきます。

岸田さんのまわり ―家族と地域と、人との出会い

―岸田さんは、ご家族、地域の方たちにどんなふうに囲まれて育ってきたのかを聞かせてください。

岸田 はい。さっき言ったみたいに、私のちっちゃい頃は、障害を持ってる子どもがいたら、隠したりっていうのが普通やったと思うんやけど、私の家族はそういうことは一切なくて、当たり前のようにお客さんが来たら、私を紹介してくれた。「おりや」って言われても、私が「嫌や」って言って隠れるぐらい。

今は、それが「良い環境やったんやなぁ」って思えるけど、その頃は嫌やった。その頃は、お兄ちゃんとお兄ちゃんの友達と、男の子と一緒に遊んで、戦争ごっこをよくやってたんですよ。お兄ちゃんがやっていたので。

私は3年遅れて小学校に入ったんですけど、その3年間、ずっと家にいたから、本を読むことが好きになって。その時に読んだ本で、文章を書く力を付けたんやなって思うんですよ。

小学校に行く前に殆どの字を読んでました。お母さんも、自分が教えてもないのに「なんで覚えてるの?」ってびっくりしてました。一人で積み木で遊んだりして、字を覚えました。そんな感じです。

―小学校に行かれるようになったのも、ご近所の方のお話でって仰ってましたね。

岸田 はい、そうです。私の家は、昔からたばこ屋さんをしてて、その店番をおじいちゃんとおばあちゃんとお母さんがやっていたんです。けど、忙しいから「美智子、座っといて。店番やって」って言われて、いやいややっていた。でね、お客さんが来たら「ちょっと待ってくださいね」って誰か呼ぶ。そういう役割をやらされていたんです。

たばこ屋さんって地域の人が買いに来てくださるから、「ここにこんな子がおるんやな」っていうのが地域の人に広まって。私がずっと家にいてるから、両親に「なんで学校行かしてあげないの」って、あるおばあちゃんがひと言、言ってくれて。

「うちの子は寝たきりやけど行ってるよ」って、そのおばあちゃんが言うたらしくて、その言葉を聞いて両親も「うちの子何もできひんと思ってたけど、学校行けるんや」と思ったらしくて。その頃、小学校に入学するのにもテストがあって、両親がそれを受けさせようと思ってくれて、私が小学校に行けたわけです。

―小学校に行って、驚いたことはありますか。

岸田 いろんな障害者の方がいることにまずびっくりした。あと、入学式に知能検査があって。例えば犬のカードがあって、「どこが足りないですか?」っていうのを聞かれたりする。びっくりしたことはそれぐらいですね。

―その後、中学・高校に進まれて「学校を変えていこう」「社会を変えていこう」といった、社会に向けての行動や運動をされるようになっていきます。そのきっかけについて教えてください。

岸田 いっぱいありすぎて。高校も特別支援学校だったんですけど、高校入学の時に、となりの校舎に移るだけなのに試験があった。私の時は、45人入学試験を受けたんですけど、15人ぐらい落とされてしまって。それが知的(障害)の人。重度障害とか身体障害の人もいました。

私よりももっと重い障害を持った人が試験に落とされていたっていうのを入学した後に気が付いて。「みんな一緒に行きたいのに、なんで行けないの?」って思ったから、「支援学校やのになんで?こんなんでいいの?」って校長先生のところに行ったりもしました。

っていうのと牧口さん。「1、2」って書いて、牧口一二(まきぐちいちじ)さん(*2)。今はもう80歳ぐらいの方で、この方に出会ったことが大きいと思う。「障害のプラス面」っていう部分を教えてくれた。その考え方が私の中でストンと落ちたっていう感じです。

―冒頭の文章に戻りますが、今、岸田さんにとって「障害を受容する」ということは、どんなことだと考えられていますか。

岸田 障害の受容って永遠のテーマだと思うんです。一瞬一瞬、できたり、できなかったりをウロウロしてる……っていうのが、一番いいんだと思う。

食生活と自立 ―安全な食生活が健康な体をつくる

岸田さんは「障害者の自立生活運動の視点から養護学校生活を振り返ってみて、やはりどうしても納得できない体験があった」(※)と書いています。それは、小学校高学年から始まる家庭科や美術の授業が、動作や作業の「訓練」という時間に置き換わってしまったことでした。

「重度障害者の私には、家庭科や美術は必要ないと先生方は考えておられたようで、それよりも訓練が必要だと判断されていたようです」

「でも、地域で一人暮らしを始めた今の私は、いろいろなメニューをヘルパーさんと毎日作っているので、食材を選ぶ力や栄養についてなど、家庭科の授業はもっともっと必要だったと思っています」(※含め、「岸田美智子自分史」より 社会福祉法人あいえる協会 ピアエンジン提供)

―岸田さんは、食生活と自立については、今、どんなふうに考えていますか。

岸田 大きなテーマですね。今の若い子たちはあんまり考えてないように思います。健常者も含めて。今はなんでも売ってるし、料理できなくても生きていける時代やから、それでいいと私は思うけど。

水俣病っていう薬害があって、ヒ素ミルク中毒になった友達がいます。工場がヒ素を流した影響で障害者になってしまったーーという社会問題があって、それで障害者になってしまった人は「社会でつくられるものが怖い」と思ってるし、医療にしても、患者の声や障害者の声を聞いてくれない医療関係者が多いから、自分で確かめていかないと危ないところが多いと思ってるところがある。

だから健康な体をつくるには、安全な食生活しかないと思ってます。なるべく自分で選んだ食材で、味付けも自分の好きな味付けで、体に悪くない味付けでやっていきたいなといつも思ってます。

―ご自身の体に合った味付けはどんなふうに調整をされているんですか。

岸田 今は一人暮らしをしてるんですが、自立してから思うんですけれど「やっぱりお母さんがつくった料理が美味かったなぁ」って。お母さんの作り方をなるべく真似しようと思って、自立する前にお母さんが料理を教えてくれたわけじゃないけれど、それを見ていたのでなるべくその通りにつくってみようと思ってます。

―ちなみに、どんなメニューがあるんでしょうか?

岸田 しいたけの煮物とか、おせちづくりとか。あとはお好み焼き。お好み焼きは、一切水を使わない。お好み焼きの粉も使わない。卵と、長芋と、小麦粉で調整する。みんな結構、おいしいって言ってくれます。

―「料理をつくる」という行為は、当事者とヘルパーさんとの関係性によって、やり方もかなり変わってくるのでは、と思います。岸田さんがヘルパーさんとのやり取りの中で考えられていること、感じられていることを教えてください。

岸田 いっぱいあるので、何を言ったらいいか。ヘルパーさん一人一人によって違うと思うし、味付けも好みも違うと思う。「この人には、このメニューが一番美味しくつくってもらえるんだ」っていうのがだんだん分かってくるから、なるべくそこに近いようなメニューを頼むようにしてます。

もちろん、私のやり方――切り方とか、調味料をどれぐらい入れるかとかーーは伝えるけど、伝えてもヘルパーさんによってやっぱり違ってくるので、その違いを生かせるようなメニューを選んでる。

―たくさんの自己決定があった上で生活や自由は成り立ってると思うのですが、岸田さんは「自由」ということについてはどんな考えを持っていますか。

岸田 自由と束縛は絶対、両方ともあると思う。障害受容と一緒で、どっちかだけっていうのはないと思うので。自由にも責任はあると思うし、そういうのも含めて、自分の決定に一番近い決定を選んでいけたらいきたいです、いけたらいいなぁっていう。それが自由だと思います。

子宮摘出問題と優生思想 ―差別が見えなくなっている

1984年、岸田さんは「私は女」(岸田 美智子・金 満里 編 1995年に長征社より再刊)という本を発刊します。

この本は、女性障害者の性と生、子宮摘出問題をテーマに全国の重度女性障害者21名に岸田さん自らインタビューを行ない、まとめたものです。

友人が入所施設に入所する際、子宮摘出を強要された問題について岸田さんが書いた文章を出版社の人がたまたま読んでくれたことが、本を出版するきっかけでした。

―エッセイの中で「この本が私の原点になってる」と仰っていたんですが、どんな点でそう思われているのかを教えてください。

岸田 私が高校を卒業した頃は、さっき言った牧口さんの「障害のプラス面」っていう考え方に衝撃を受けて納得した体験があって。その後に友達がどんどん入所施設に入っていって。今もそうだけど。入所施設のあり方の問題に直面した時に出会った問題が、女性障害者への強制的な子宮摘出問題だった。

実際に今でもあるかどうかはわからないけれど、当時、千葉にベデスタホームっていう入所施設に訪問に行った時に女性障害者の方がいてはって、話した時に、申し訳ないけれど、女性とは思わなくて。男性だと思って喋っていたら、女性障害者やった。

なんでそうなったかというと「入所施設に入る時に子宮を取ってこないと入れてくれない」っていう条件があって、子宮を取ったら、ホルモンの関係で顔がゴツゴツしてきたり、ひげが生えてきたりしたそうです。

私はそれを聞いた時に障害者っていうだけで体にメスを入れられることに衝撃を受けて、「やっぱり障害者は声を出さなければ殺されていく側の人間なんやなぁ」っていうのを思ったっていうのが今でも私の原点になってます。

―岸田さんがこの本を出されてから40年近く経っていますが、差別意識や優生思想は今も意識下で進んでいる部分があるように感じます。岸田さんが関わられてきた運動や時代の移り変わりから、今、岸田さんが問題に思っていること、困っていることを聞かせてください。

岸田 今も「障害者が殺される側」っていうのは変わってないと思ってます。例えば、出生前診断で障害児ということがわかったら、ほとんどの妊婦さんは中絶してしまう現実があるからです。つい3年前は、コロナで社会が閉塞的になって、やっぱり医療現場で老人や障害者が後回しにされるということがありました。

トリアージーー命の選別が実際に起こってるということも聞いてます。相模原殺傷事件で19人が殺された事件でわかるように、2022年12月にも北海道のあすなろ福祉会で知的障害者の方が「結婚したかったら出ていけ」と言われる虐待があった(*2)。次々、次々と起こる虐待の流れは今も変わってない。

今は、制度ができてから、なんとなく街の中で暮らせるようになって、障害者もちょっと我慢すれば制度があって地域で生活ができるので、声を上げにくくなってる。中途半端に満足してしまっている面もあるし、差別が見えなくなってる。だから余計に危ないと思う。そんなことを最近よく感じるようになりました。

―今、「差別が見えなくなってる」と仰ったんですが、以前は今とどう違っていたんでしょうか。

岸田 私が高校生の時―今から3、40年前―は、乗り物にも乗れなくて、外出したくてもヘルパーさんがいないし、制度がないし、街を見ると階段だらけで車椅子トイレとか一切なかったし、エレベーターもなかった。

だから外出するのが命がけだったし、それだけで意味があったけれど、逆に今は、ある程度我慢すれば、ヘルパーさんの制度がある。エレベーターとかエスカレーターとか車椅子トイレとかもまだ充分じゃないけど、今はどこにでもあるから。行ける範囲内にはある。そのことで、本来の問題を感じなくなってるような気がします。

―外側の環境がある程度整ったことで、本人の中にある違和感が表には出ずに、自分でも気づきにくくなってるということですか。

岸田 はい。

―先ほど、牧口一二さんのお名前が出たり、学校を卒業されてから「誰でも乗れる地下鉄を作る会」等の運動に参加されてきた岸田さんですが、これまでを振り返った時に岸田さんの中で聴こえてくる「忘れられない言葉や声」はありますか?

岸田 やっぱり牧口さんの「ちがうことこそ万歳」っていう、「障害を個性だ」っていう言葉に惹かれます。それから私が家から出られるようになったのはボランティアの方が毎日、私の介助をやってくれていたから。

その人から社会や社会問題を教わった記憶があって、その方は交通事故で急に亡くなっちゃったんだけど、その人が私にくれた言葉で「元気に、根気よく、のん気に」っていう言葉が好きです。

誰でも乗れる地下鉄を作る会」難波・高島屋前での署名活動の様子

私は思い切り生きるから、あなたも思い切り生きて。わからなかったら、「支援」やってみて。

―松岡さんから質問を二つほどいただいたので、尋ねてみたいと思います。一つ目が「今後、岸田さんが土屋に求めるものはどんなことですか」。いかがでしょうか。

岸田 いっぱいあるよー(笑)。

この間、泊まりのアテンダントさんが熱が出ちゃって、そういう時が一番困るなぁって。でも松岡さんが一緒にいてくれて助かった。普段入ってるヘルパーさんの体調の変化に対応できる、体制づくりを考えてほしい、と常々思う。ヘルパーさんというのは、障害者と社会の架け橋になるものだと思う。

重度の障害者が街に出た時に色々な問題にぶつかるので、ぶつかった時に利用者さんの立場に立って、社会を変えていくメッセージを、地域に届ける手伝いをしてほしい。

―では二つ目で、「これから岸田さんが行ってみたいところ、訪ねてみたいところはどんなところですか」。こちらはいかがでしょう。

岸田 これもいっぱいあるけど(笑)。91年頃にスウェーデンに行ったんだけど、もう一度スウェーデンに行きたいと思ってるんです。あと、淡路島の「ハロースマイルキティー」。キティーちゃんの食べ物ですかね。

―ハロースマイルキティーというのは?

松岡 キティーちゃんの建物とかレストランがあるところなんですよ。

―キティちゃんがお好きなんですね、岸田さん。

岸田 はい。あと、三重にある「なばなの里」というところに行きたい。おいしいもの巡りもしたい。そんな感じです。

松岡 「なばなの里」はイルミネーションが綺麗なところで、そこに行きたいそうです。

―いいですねぇ。では最後の質問です。今後、人生をこんな風に過ごしていきたいという思いがありましたら、聞かせてください。

岸田 今のままでいいと思ってるから。地域で最後まで生きれたらいいなって思ってるんですけど、永代供養を、親が反対したけど自分でやっちゃった。

長居公園の中にある、バリアフリーのお寺さん。そこはバリアフリーにできていて、誰でも行けるし、すごくいいなって日頃から思ってたから。終着駅はそこに決めようと思って、契約しました。あとは自由に生きていこうと思うんですよ。

あとは、最近ぶち当たった問題で、トイレに大人用のベッドがまだまだ少ない。「一個でも大人用ベッドを増やしていける運動ができたらいいなぁ」と思います。

もう今もやってるんですけど、インテックス大阪(国際展示場)っていう、バリアフリーで、関西で一番大きな、生活用品の展覧会の会場にも、トイレの大人用のベッドがなくて。いっぱい言って、来年にはつくるようになったんですね。そんなことをこれからも多分やっていくと思います。

―障害の当事者の方たちに向けて、ヘルパーの方たちに向けて、岸田さんからのメッセージをお聞かせください。

岸田 障害者は自分の思ったことをどんどん実行して欲しいし、いろんなところとか、社会に飛び込んで欲しい。ただ地域で生きてるだけじゃ、もうだめだと思う。もっと自分がやりたいことが何なのかを見つけて欲しいというのがあるし、他の障害者がどんな生活をしているのかにももっと興味を持ってほしい。「おかしいなぁ」と思ったら声をあげてほしいと思います。

それから、さっき言ったように、障害者が生きるために、ヘルパーさんたちには障害者が社会に出た時に、それをお手伝いするための架け橋になってほしい。健常者も、今の社会についてもっと興味を持って、意識して、捉え直してほしい。人間が、なんかおかしくなってると思うんです。

AIとか、人間が一体これからどんなことをするのかをきっちり考えてほしいし、考えていかないと、どんどん危ない方向に行ってると思う。便利さや綺麗さだけを求めて生きていたら、どんどんおかしくなって、今の社会があるわけだから。その根っこにあるのが、障害や障害者の問題だと思う。そういうことをしっかり考えてほしいと思います。

命の大切さや平和などについて考えて、障害者も含めて意識してほしいと思います。

*1
みっこ&たまチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCo99_X0g4HiBkZuM0FHsRaw

*2
牧口一二(まきぐち いちじ)さん
1937年大阪生まれの障害者運動家、グラフィックデザイナー、作家。1歳の頃に脊髄性小児マヒ(ポリオ)になり、車椅子歩行となる。障害者の社会進出や自立をテーマに様々な運動を展開。岸田さんは、1976年ごろから牧口さんが代表の「誰でも乗れる地下鉄を作る会」の運動に関わる。著書に「何が不自由で、どちらが自由か;ちがうことこそばんざい」(河合文化教育研究所)等

*3
2022年12月、北海道の社会福祉法人「あすなろ福祉会」が運営するグループホームで、結婚や同棲を希望する知的障害を持つ方が、同会から提案されて不妊・避妊手術を受けていたことが発覚した問題。

ホームケア大阪 コーディネーター・松岡沙季さんからのメッセージ

ホームケア大阪 コーディネーター・松岡沙季さんからのメッセージ

岸田様の支援にはコーディネーターになってから入らせてもらい、いろいろなお話をさせていただきました。支援に入っているときに岸田様がいかれたスウェーデンの写真を見せてもらったり、一緒に外出をしたりもして、楽しい時間を過ごさせていただきました。

みっこ&たまちゃんねるのファンなので次の動画を楽しみに待っています。
いろいろ活動的に過ごされている岸田様ですので今後も変わらず元気に楽しく過ごしていただけることを応援しています。

取材協力 社会福祉法人あいえる協会
    (ピア・エンジン ヘルプセンター・ホップ)

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