『アールブリュットの先へ〜障害者アートを考える〜2』
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【 アールブリュットの先へ〜障害者アートを考える〜1 / わたしの | 重度訪問介護のホームケア土屋 】
◇
土橋:Tさんの行為は、まさに謎ですね。
大和:深淵です。
一般的な回路ではもちろん解明できません。
しかしアートという回路でも解明はできません。アートだとしてしまえれば楽なんでしょうけどね。
「Tさんのあの行為はなんですか?」
「あれはアートです」
と、答えられれば「あ、そうか」ですっきりするのかもしれませんね。
土橋:そこはすごい興味深いところですね。
Tさん本人はアートをしている意識はないんですものね。
大和:おそらく。分からないのです。
土橋:ごめんなさい、変な言い方になってしまうかもしれないですが…アートディレクターでありながら、大和さんはどこかアートという回路で解明しようとすることの躊躇のようなものを先ほどの発言から感じたのですが…。
大和:そのとおりなんです。
◇
土橋:知的障害者施設における創作活動の一線を走ってきて、現在の一つのムーブメントでもある「アールブリュット」にもお詳しい大和さんに、そのあたりをもう少し詳しく教えていただきたいのですが。
大和:私が関わっている施設でもアールブリュット展に参加しようとしていますが、提出しようとしているのはTさんの庭に描いている線のようなものではありません。
「意識的に表現したもの」です。
各施設から送られてくるものも「意識的表現」が多いです。
それがいいとか悪いとか一概には決められませんが、ジャン・デュブュッフェが求めていた本来のアールブリュットとは意味合いがズレてきているのかもしれません。
土橋:説明を入れさせていただきますと、ジャン・デュブュッフェというのはフランスの画家で「アールブリュット」という言葉を作った人ですよね。
大和:そうですね。そのような概念を作ったと言ってもいいですが。
芸術の中に取り入れようとしたんです。
「アールブリュット」というのは「生の芸術」という意味で、ジャン・デュブュッフェは当初、絵の教育を受けていない人が独学で創作したものを指してそう呼んでいたんですよね。
精神病院や刑務所などで人知れず創作されていたものに光を当てるという形で。
「アールブリュット」の始まりはまさにそれです。
日本では「アールブリュット」という言葉が輸入されるまで、もともと「アウトサイダーアート」と呼ばれていました。
ところが、これが福祉の業界に入ってきたときに、「アウトサイダー」とは何事かという声があったんですよ。
障害者はアウトサイダーなのか、と。
そこで「アウトサイダーアート」に変わる名称が必要だったんでしょうね。
土橋:ということは、今では「アールブリュット」は「障害者のアート」というニュアンスで使われることがほとんどですが、本来の定義はそうではないということですね。
「障害者の」とか「福祉の」という限局的なものではないんですね。
大和:そのとおりです。
「アウトサイダーアート」よりまろやかだし、「アールブリュット」って意味はよく分からないけど、なんかおしゃれな雰囲気もあるじゃないですか。
だから福祉業界が好みそうというか。
現在では全国で「アールブリュット展」という名称の展示会が開催されていますし、アールブリュットという言葉をいたるところで目にします。
国の取り組みにもなっていますからね。
そのようにポピュラーなものへ発展したのは、障害者アートの価値を高めようと尽力してきた人々の功績であることは間違いないと思いますけど…。
◇
大和:昔は「知的障害者支援」と「アート」って相性がよかった気がするんです。
それは山下清の存在はもちろんですが、知的障害のある方のアートはすごいんだ!みたいな。
一般的な仕事ではなくて、創作活動なら個性を発揮できる!みたいな発想があったんですよね。
土橋:そうかもしれません。
大和:しかし、それがですね、やはり時代の移り変わりとともに変化してきているような印象を受けます。
土橋:というのは?
大和:障害者権利条約が一つの大きなきっかけではあるでしょう。
「私たち抜きに、私たちのことを決めないで!」
「自己決定支援」という考え方が強くなってきたときに、支援者の中に「この人は、本当にアートがしたいのか?」という疑問が起こるようになったのです。
これはある面、進歩です。
先にも言いましたが「障害者にだってアートという手段がある」という文脈でこれまでの流れは来ていました。
しかし、障害者は創作しか個性を発揮できないようにも捉えられるストーリーに「そんなことはない!」と若き支援者たちが声を上げたのです。
土橋:全員が全員アーティストではないし、創作をしたい人もいれば、したくない人も当然いるということですね。
大和:そうなんです。
自己決定支援というものを考えれば考えるほど若き支援者たちは「障害者」と「アート」との隔たりを意識したんだと思います。
多分それは「障害者」と「スポーツ」、つまり「パラリンピック」についても同じことが言えそうなんです。
もちろん、それを望み、目指したい人に対しては、心ある支援者たちは自分の身を粉にしてまでサポートしたいと思うでしょうけれど。
だから昔は施設は織物とか紙漉きとか陶芸とかして、社会とつながろうとしていましたが、今はいろいろなチャンネルを施設が模索していますよね。
そこにいる人を大切にしながら、そこにいる人の力を発揮できるような多様なものを開発して社会にコミットしようとしています。
リサイクル活動とか、古本販売とか、養豚とか、蘭の栽培、石鹸づくり、水耕栽培、あげるときりがありません。
もうアートとか創作だけではないんです。
【アールブリュット3】へつづく
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