今ある価値観で測れない、誰かの「素敵」を見出すための「介護」~介護と私~
齊藤恵美(ホームケア土屋 郡山)
子供の頃からお年寄りと接していることが好きで、学校が終わると曾祖母がいつもいる畑に行き、今日あったことを話すのが日常だった。
両親の都合で曾祖母と離れて暮らすようになり、それでも週に一度は会いに行っていたが、日に日に曾祖母の口から「どこの子?」という言葉が増えていった。
認知症と診断されてから曾祖母がいなくなるまでの時間はあっという間だった。
その時、私は中学一年生だったが
『私がずっと曾祖母と暮らしていれば認知症になることはなかったんじゃないか?もっと長生き出来たんじゃないか?』
という思いが増していき、曾祖母への後悔の気持ちから介護の仕事に興味を持つようになった。
中学二年の夏休み、初めて老人ホームでのボランティアをする。
正直、あまりの状況に子供ながらに衝撃を受けた。
『自分はちゃんと利用者さんの話を聞ける介護士になろう』
それから月日が経ち、介護の仕事をしたいと思いながらも家庭の事情もあり、諦めていた頃に東日本大震災が起きた。
『子供が大きくなったら、いつか介護の仕事をしよう』
とか呑気なことを言っていたらその時は来ない、人間いつどこで最期を迎えるかわからないと初めて思った。
やりたいと思うならすぐ動かなきゃ・・・。
とはいえ、資格がない私。
どうしようかなとハローワークに行った際に勧められたのが今ではとても珍しい【介護職員基礎研修】という資格。
この研修を知っている方は少ないかもしれないが、なかなかハードな研修内容だった。
この資格があればサービス提供責任者ができるということもあり、制度の細かいところから介護技術まで。
研修終了後、認知症対応型グループホームで働き始めた。仕事が始まる前に、研修先の講師にこんなことを言われた。
「あなたは介護への理想と信念が強すぎるから燃え尽きないでね。」
はい・・・3年で燃え尽きました。
その後は違う仕事をしていたが、長女が発達障害のグレーゾーンであることもあり、福祉というものを利用したい立場になった。
利用する立場となり、周囲の理解のなさに愕然とした。
目に見えない障害は理解されない。
グレーゾーンと言われるこの子たちはただ出来の悪い子、必死で子育てをしている親へ『愛情が足りない。甘やかし。親の責任。』と平気で言葉を投げる人たち。
私もしばらくなにを訴えても理解されないと思っていたが、長女が大きくなり、今後を考えたときに「この子たちはこれからどう生きていけばいい?」と考えるようになった。
ただ訴えても届かないなら、その声を自分が届けられるようになればいい。けど、どうすればいいのかわからず、とりあえず形は違ってもいい。
少しでも訴えやすい場所に行くため、介護の現場に戻ろうと決意した。
まずは介護福祉士を取ろう。
今までは高齢者福祉だったけど、今度は障害福祉をやろう。そうしたら少しでも前に進めるかもしれない。
障害福祉は初めて約4年。
無事、介護福祉士を取得。昨年4月からホームケア土屋郡山でオフィスマネージャーとして勤務している。
障害福祉の中でもなかなか浮き彫りにならない発達障害について発信できる機会をいただけるようになった。
幸いなことにホームケア土屋郡山のアテンダントが同じ方向を向いてくれている。
そしてなにより、東北のマネージャーの方々が私の声に共感し、サポートをしてくれていることに感謝する日々。
『介護と私』というタイトルから少し離れた中身になってしまった気もするが、私にとって介護は、いろいろな方の『これがやりたい』『こう生きたい』を全力でサポートすることだと思っている。