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『音楽を介したチームビルディング』【前編】 / わたしの

『音楽を介したチームビルディング』【前編】
わたしの

土橋:今回、話を聞くのは、『名前のない幽霊たちのブルース』でも取り上げた私のバンド、「わたしの」のフロントマン、ギター&ボーカルの萌さんを迎えてお話を聞いていきたいと思います。

「わたしの」では全ての曲の作曲も担当していますし、バンドマスターでもあり、とても重要な役割を担ってくれています。

萌さんがいなければ「わたしの」の活動もなかったと思います。

また、萌さんは私と同様に知的障害者支援の仕事に携わる支援者の一人でもあります。

働いている場所は全然違うのですが。

私はですね、文章を書くこととも違う「作詞」という方法で、自分に何ができるのか試してみたいと考えていました。

「詩」を書くのは好きじゃなくて、照れるんですが、「詞」は面白いなと思っていました。

限られた言葉数で表現する「作詞」には、「絵本」作りの方法論が使えると思い、それをやろうとしていたわけですが、「詞」を書いて萌さんに託し、メロディーがのって返ってくるのが、とても楽しかったです。

できあがった楽曲を聞くと、言葉が自分のものではなくなる感覚と言いましょうか、自分だけの言葉を超えていくような、昇華されているものを目の当たりにするような感動を覚えたことを忘れられません。

それが単純に楽しかったですね。「詞」は自分一人では不完全で、単独では完成されないところがすごくいいです。

二次元の、平面的な言葉に、音楽がつくことで三次元的な立体感を感じました。

そしてそれをまた「バンド」という形で複数の人間で演奏することで四次元的な広がりをみせることもわかりました。

前置きが長くなりましたが、とにかく、その「詞」を「音楽」にする重要なキーマンであり、「バンド」を引っ張っていく存在である萌さんと、お話をしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

萌:よろしくお願いします。

土橋:では、まず萌さんが子どものころなりたかったものを聞いてもいいですか?

萌:いっぱいありました。思い出すと何個かでてきますね。

幼稚園のころは…そこまでさかのぼっていいですか?

土橋:大丈夫です!

萌:幼稚園のころはパイロットです。

土橋:飛行機の?

萌:そうです。多分それは、幼稚園の遊具に飛行機っぽいものがあったんです。

それがイメージに残っていて、僕はあまり小さいころの記憶がないんですが、その飛行機が印象に残っていて、それに乗って操縦したいなと思っていたんです。

土橋:パイロット以外では?

萌:あとは漫画家とか料理人とか、ドッチボール選手とかです。その中で、一番志を持っていたのは、漫画家でした。

土橋:どういう漫画が流行していた時代ですか?何かに影響受けたんですか?

萌:リアルタイムだと、やはりドラゴンボールや、聖闘士星矢とか…好きだったんですよね。

あとはこち亀、ギャグ漫画ですね。

自分でもギャグ漫画を描いていました。

土橋:小学生のころですか?

萌:小学校高学年ですね。

中学生になってからも描いていて、漫画家になりたい友だちが他にもいて、その人と「交換漫画」というものをしていました。

一コマずつ描くんです。

ストーリーは考えずに、相手が描いたコマに対して、自分が続きを一コマ描いて返すということを繰り返していました。

授業も聞かずにやってました(笑)。

土橋:どんな内容でしたか?

萌:「萌物語」という自分が主人公の漫画です。

僕の方が立場が弱かったんで(笑)、相手の、漫画家になりたかった友だちの方が絵もうまかったし、向こうから誘われた話だったので、僕も渋々ではないですけど、付き合って先生に怒られながら描いていたような感じでした。

土橋:相手の方が立場が上だったのに、内容は萌さんが主人公なのはなぜですか?

萌:僕はそのころすごい太っていて、そのことにコンプレックスもありました。

それを向こうが面白がって、キャラクターにして主人公にしていたんです。

僕としては少し自虐的な感じのスタンスでした。どこにも行きつかないのが面白かったですけどね。

相手は、最後は僕の父親まで漫画に登場させてくるんです。

土橋:向こうが漫画にお父さんまで放り込んでくるわけですね。

萌:そうです。

やだなーと思いながら、そんなの出されてもなー、なんで自分のオヤジのことを描かなきゃいけないんだと思っていましたが、でも登場してきたからには面白くしなきゃとっていう心が働いて茶化したりしているんですよね、結局は。

土橋:表現の方法が、どこかで漫画から音楽に変わる瞬間がくるんですか?

萌:中学に上がった時点でギターは弾いていました。

そのときは既に音楽の方がやりたかったです。

土橋:バンドを組んでいたんですか?

萌:いえ、一緒にやる人がいなかったんですよ。

ひとり音楽仲間がいて、中学生のくせにレッドツェッペリンとかジャズとか、なんか特殊な、自分の知らない音楽知っているような奴が一人いたんです。

でも、そいつはバンドをやりたがらなかったんです。

だから僕はバンドは組めないけど、音楽がやりたくて、曲作って家でカセットテープに録音してその仲間に聞かせるということをしていました。

太っているというコンプレックスがやっぱりあって、太っている人間はバンドしちゃいけないんだっていう勝手な思い込みもあって、うちにこもって音楽していました。

土橋:高校時代はどうですか?

萌:高校でもバンドをやれない日々が続いていました。

しかし、あるとき軽音部を牛耳ってるイケてる人たちがいて「ドラムがほしいんだよね」と声がかかって、その人たちに引っ張られる形でバンドに入ったんです。

土橋:そこがはじめてのバンド体験だったんですね。

私がはじめて「わたしの」でバンド体験するのが38歳ですからね(笑)。

青春をこじらせちゃってますよね…(笑)。それはともかく。

はじめてのバンド演奏はどんな印象でしたか?

萌:すごく演奏が上手な人たちとやるのはとても楽しいんだなと実感しました。

あまり人間的に波長が合うタイプではないんだけど、楽器のやりとりがスムーズにできるとこんなに楽しいんだと知りました。

土橋:人として付き合うと面倒くさいし、合わないんだけど、楽器を鳴らし合っているときは楽しいみたいな?

萌:そうそう。そうです。

土橋:そういうことってよくあるんですか?そういうことだらけ?

萌:どうでしょうか。なくはないですよ。

最初は気の合う者どうしでバンドをやろうと意気投合してスタートするんですけど、あとあと苦手だなって気づくこともあるんです。

だんだん合わないなって思うんです。

共通の趣味が合う人とやったときに、徐々に人間性が浮き彫りになってきて、一緒にやるのはつらいなとなってくることはありました。

土橋:趣味とか好きなものが合うっていうのは、本当に些細なことっていうか、バンドを継続していく上では重要なことではないってことですかね。

萌:結局そういうことですかね。

土橋:バンドというのは他者と共同していくということですよね。

一人ではなく、複数の人間と、ある目的に向かって進んでいくということは仕事におけるチームと一緒です。

チームと言ってもいいし、集団と言ってもいい。組織でもあるんですね。

そのあたりのバンド運営とチームビルディングについて、そこをもう少し聞いていきたいと思います。

次回につづく

プロフィール
わたしの╱watashino

1979年、山梨県生まれ。

バンド「わたしの」
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