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『母親たちの地域福祉』【後編】 / わたしの

『母親たちの地域福祉』【後編】
わたしの

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母親たちの地域福祉~前編~ / わたしの | ホームケア土屋

ここでもう一度、地域福祉活動を積極的にすすめてきた「母親」であるその人のお話に戻ると、

(子どもという存在を抜きには語れないけれど)

子どものためというよりも、まずは活動することによって自分にとって「楽」だし、「楽しい」し、「居場所」になっていて、そのつながりが発展していく中でだんだんと有志たちの集まりは部会という形を形成するようになり(時には行政から要請されて)、その形となった福祉部会の活動は徐々に豊かなものになっていった。

要約すると、そのようにお話されたと私は受け止めたのであった。

あの頃の「母親」たちが活発に福祉活動に参加できたのは根っこの部分に「自分たち」の「求め」があったからだと、私は自分の体験とも重ね合わせて考えたのであった。

「母親」たちは仲間を増やし、そこには普通級に通う子どもの「母親」たちも、特別支援学級に通う子どもの「母親」たちも 集まってきた。

特別支援学級に通う子どもの「母親」であるBさんもその一人だった。

Bさんはまわりの仲間に支えられながら、これまで別々で行われていた小学校の卒業式後の懇親会を「特別支援級」と「普通級」の垣根を外して、みんなで一緒に行う動きを作った。

その動きは、子どもたちはもとより、それぞれの立場の人にとってどれほど大きな意味があっただろうか。

一番はじめの動機は子どものため、他者のため、地域のため、社会のためではなく「自分たち」の、いや「自分」のためだった。

ところが「自分」のためを起点とした動きは、多くの人とつながり、膨らみ、さらに多くの人を巻き込み、発展して、結果としてどうなったか。

異なる価値観を持った仲間ができ、そこに「多様性」を受容できるような人々の集団を生成し、それが「住みよい街」づくりに自然とつながっている。

それは最初から目指したものではなく、プロセスの中で他者のため、地域のため、社会のためというふうに外側に開いていく形で影響を及ぼす動きに発展していったのであった。

私は日頃から「多様性」という言葉も「共生社会」という言葉もなるべくは使わずに語ることを心がけたいと思っているのだが、その人のお話の中で「母親」たちの活動の結果としてそこに出現したものは、いわゆる「共生社会」と呼ぶにふさわしいものではないかとさえ思った。

仲間の中にハンデを抱えた子どもがいること。

それを支えている「母親」、家族がいること。

この世界にはいろんな人が、いろんな条件を抱えて生きていることを身近に感じ、自分の中の常識や価値観や偏見が揺さぶられるような体験を繰り返すこと。

お互いに揺さぶり合うような場があること。

そして、それを子どもも体験し、一緒に考えていける時間を共有すること。

他者を知り、相手の心を思いやることができる人に育てることが子育ての一つの大きな目的ではないだろうか。

学校教育の本来の目的と言い換えてもいい。

世の中にはいろんな人がいて、それぞれいろんな事情やいろんな条件を抱えて生きている。

人と交流するプロセスの中で、それを子どもたち(いや、親たちも)学んでいくのである。

お話をしてくださった女性も高齢者となり、その子どももすでに親の手を離れて久しい。

彼女は今、地域の福祉部会の高齢化や存続を憂いていた。

あの頃は働いている母親が少なかったというニュアンスのことを語りながら「だからできる人が、やろう。働いている人はそっちをがんばって」というスタンスだったそうだ。

話の中に「父親」が登場することがなかった原因もここにある。

その頃はまだ男が働き、女が家を守るという時代だった。

家を守っている女が、子どもと一緒に地域に飛び出し活動家となっていったのである。

時代がかわり現在は働いている女性も多く「できる人」が少なくなってきてしまった。

夫婦共働きがあたりまえで、参加できる「母親」がほとんどいなくなってしまったとのことだ。

だからと言って子育ての負担を軽減させる画期的な進歩があったわけでは決してない。

「負担をやわらげたい」「楽になりたい」「楽しみたい」「居場所がほしい」そんな願いは時代が変わっても、子育てに向き合っているものたちに共通する願いだと思うのだけれど…。

最後に、聞いてきたお話を自分の仕事に引き寄せて考えてみたいのだが、そろそろ締めくくらねばならないので今回はそのラフスケッチだけを残して終わることにする。

施設の中で完結させようと思えば完結させてしまえるのである。

そのことに自問自答しなければ、そもそも地域にアプローチする発想は生まれない。

閉塞感を感じていなければ、外側に開いていこうとする動きも生まれないだろう。

そして、かつての「母親」たちが閉塞感から「楽」になるために、「楽しみ」ながら外側に開いていったように、私もその道を行きたいものだ。

このようなラフスケッチをノートに残した。

今後はこれを頼りに、もう一度、知的障害者支援において地域とのつながりを作っていくことの意味を考えてみる必要があるだろう。

おわり

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